第58話 重い紙切れ

 窓から月明りが差し込み、書物を読み耽っているアベルの頬を青白く照らした。

その横顔がなんだかよく知った片割れじゃないみたいで恐ろしかった。

 ――恐ろしい? そんな感情は存在しないはずなのに。ではどういう感情なのだろうか。わからない。アベルならわかるのだろうか。

 ああ。変わったのはアベルだけで、おれはあまり変わっていないのかもしれない。


「……まだ寝ないのか、アベル」

 おれの声は静謐な部屋の中で空虚に響き渡った。この狭い部屋にいると、どこかユートピアを思い出す。あの部屋も狭かった。相変わらずベッドは一つ、襤褸布は一枚。夜は蝋燭だけ。窓から見える青白い月も同じ。

「ああ、もうこんな時間か」

 一拍置いて、アベルが答えた。顔を上げる。琥珀の瞳がかち合う。その瞳に映る、アベルそっくりなおれの顔。それに安堵に似た感情が湧き起こったので振り払うように声を出した。

「そうさ、もう良い子は寝る時間だ。おれはそろそろ仕事に行ってくる」

 今日も今日とて仕事だ。また人を殺すのだろうか。それともまた別の仕事だろうか。でも正直何でもよかった。金がもらえるのであれば、それで。

「ああ、気を付けてな。俺はもう少し読んでから寝るさ。今の俺に足りないのは知識だから」

 それに、とアベルはによりと笑って続けた。

「俺らは『良い子』には程遠いしな」

 そう言いながら、その瞳は引き寄せられるように書物へと戻ろうとしていた。確かにな、とおれが笑っていったのも聞こえちゃいないのだろう。もうきっと知識の海の中だ。知識の海とはアベルの言葉だ。果てしなく大きなものを海と表現するらしい。海なんて見たこともないのに。

 かくいうアベルは夕食をとってから一度も休憩することなく知識を吸収していた。おれなら読む気も起こらない、小難しそうな分厚い本だって貪るように読んでいる。たのしいのだろう、その琥珀の瞳は爛々と輝いている。それがすこし不気味。だってアベルが好きなものはおれの好きなもので、おれの好きなものはアベルの好きなものだったから。

 ――人は、同じにはなれない。

 マスターはそう言った。当時は頭ごなしに否定した。否定したかったのだろう。でもきっと、頭の隅ではそれが正しいとわかっていた。今がその答え合わせなのかもしれない。


「……本当に、エリート学院に受かったのか」


 昨日アベルが告げた言葉が、いまだに信じられない。昨日と同じ言葉で問うと、またアベルは書物から視線をおれの方に戻していらえた。

「ああ、受かったさ。夢でも妄言でもない。ほら証明書だってある」

 積み重なった本の一番下から紙切れを引っ張り出すと、アベルはおれの顔の前に広げた。無駄にお洒落な文字で、けれどたしかに合格と書いてある。その近くにでかでかと書かれている、「アベル・クレアドルン」。アサによって偽造された身分証に載っている名前だ。ちなみにおれはカイン・クレアドルン。十六歳。年齢と名字がついて不思議な気持ちだ。クレアドルンの意味は知らない。本当に何でもよかった。普通に紛れられるのならそれで。この身分証のお陰で買い物だってできるし、関門だって通過できる。アベルは学校へ通うことだってできるのだ。


「こんなぺらぺらなのにな」


 合格通知書だというその紙切れをしげしげ眺めるけれど、やはり紙切れは紙切れだった。簡単に燃えそうだし、雨に濡れてぐしゃぐしゃになりそうだし、間違えて捨ててしまいそう。身分証だってそうだ。ぺらぺらの紙切れ。簡単に破り捨てることだってできる。それが身分。

「ぺらぺらだから価値が無いってもんじゃないさ。金だって同じじゃないか。あんなに小さいのにそれで取引が成立するんだから。価値を決めるのはやっぱり人なんだって」

 アベルの言葉はわかりやすいけれど、やはりこの紙切れの価値はよくわからなかった。

「価値ねえ……」

 ちらりと部屋の隅に視線を移す。そこには以前アベルが賭けで大勝した時の金貨たちが山のように積まれていた。あそこにおれの収入を足していくと、なかなか山は減らなかった。アベルが学院に通ってもまだお釣りがくるらしい。らしい、というのはアベルの計算に任せているからだ。

「ま、アベルが理解していてたのしんでるならいいや。……じゃあそろそろ行ってくる。アベル、夜更かししすぎんなよ」

「わかってるって。子供じゃあるまいし」

 そう言いながらもうアベルの視線は書物に戻っていた。おれもいい加減部屋を出なければ。黒い薄手のコートを羽織り、武器を携えて部屋を出る。


 びゅろと風が吹いて、肌が粟立った。もう少し厚手のコートがほしいなと思う。あの紙切れよりはよほど役に立つだろうな。

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