第57話 襤褸布ひとつ

 昼、目を覚ました。誰にも起こされることのない、すうと水面から顔を出すような自然な覚醒。

「おはよう、アベ……」

 おれの声が吸い込まれるように消えた。そう、この部屋にアベルはいなかった。習慣とは恐ろしいなと思いながら、身を起こす。

 もちろんアベルの姿は見当たらない。気配もしないので、本当に外出しているのだろう。夢ではエリート学院に行くなんて言っていた気がするけれど、実際はどこへ行ったのだろうか。

 しかし良く寝た。ぐいと背伸びをして滞った血の流れを体中にいき渡らせる。そのまま上体を倒してストレッチ。柔軟は大切だ。骨抜きの動物みたいにやわらかかったあの頃とは違って、すぐに身体は固くなる。今この背が伸びている時に身体はほぐしておいた方がいい。


「……」


 沈黙が耳に痛い。部屋に一人でいることなんてなかった。ユートピアにいたころは、アベルが必ず部屋にいた。アベルは逆におれがいない時なんて沢山あったのだろう。訓練の時とか、折檻の時とか。初めは片割れも同じ気持ちを抱いていたらいいのに、と思うのはさすがに女々しいか。でもそのくらいおれらは同じだった。

 ごろんと寝転がる。冬が近づいてきた今は少し寒い。擦り切れてぼろきれに近くなっている毛布にくるまって、ぼんやりと時間をつぶす。当番もなければ、訓練もない。講義もない。かといって、アベルのように本を読む習慣もない。

 おれは暇の潰し方を知らなかった。そもそも、暇を知らなかったのだ。


 ♢


 がちゃり。ぎい。

 扉が開いて、ようやく意識が浮上した。また微睡んでいたらしい。気が付くとすっかり夜になっていて、部屋は真っ暗だった。夜目は利くほうだからあまり困りはしないけれど。

 びゅうと冷たい空気とともにアベルが入ってくる。薄手の黒のロングコートを着ているが、それでも少し寒そうだ。

「おかえり、アベル」

「ただいま、カイン」

 新鮮な挨拶だ。今までは「おはよう」と「おやすみ」だけで十分だったのに。

「ってか、何でこんなに暗いんだよ。蝋燭は?」

 アベルがコートを脱ぎながら文句を垂れた。その表情は真っ暗なせいで見えない。

「寝てたんだって。今つける」

「よく寝るんだな、成長期か? ……おっと」

 言いながら、アベルが乱雑に置かれたテーブルに躓きかけたので、おれは素早くベッドサイドのテーブルに置かれた蝋燭に火を灯した。

 ふわり。

 真っ暗だった部屋に橙の光が広がって、温かさがおれらを包み込んだ。まだ薄暗いけれど、ユートピアにいたころからこの明るさだったので慣れている。幸か不幸か。


「あー寒かった」

 着替えたアベルは早速おれの寝転がっているベッドに乗り込んできた。冷たい。冷え切った手足がおれの温まった体躯に触れて、思わず震えた。

「おい」

 悪い悪い、と言いながら笑っているのでこれは確実に黒だ。今度絶対に仕返ししてやると思った。今度っていつだろうと思いながら。


「それでカイン、昨日はどうだったか」

 今まで同じ世界を見てきただけに、アベルの見たおれの知らない世界はとても興味深かった。それはアベルも同じなのだろう、いつも先に聞いてくるのアベルだった。

「余裕だな。おれにかかればどんな仕事も朝飯前だ」

 アベルに仕事の内容を逐一伝えようとは思わなかった。聡い片割れには言わなくても伝わるだろうし、伝わらなければそれでもいい。きたない仕事を隠したいわけでもなかったが、言いたいわけでもなかった。

 それに対するアベルの返答は実にシンプルだった。語彙の豊富な片割れにしては珍しい。

「そうか、よかったな……」

 語尾に妙な空白があったのでおれは「ああ」としか返事をしなかった。沈黙がおれらの間に流れる。

 かち、かち、かち。

 近くの雑貨屋で購入した置き時計の秒針がうるさい。そこに、アベルの低い声。

「……死ぬなよ、カイン」

 暗がりだし背中合わせだから、アベルがどんな顔をしているかはわからない。ただ最後の呟きは夜の空気によく染みた。

 勘弁してくれという気持ちを込めておれは笑い飛ばす。おれらにこんな空気は似合わない。

「はは、おれがそんなぽっくり逝くタマかよ。なんつって、それはお前もな」

 アサに入らなくても死はいつも隣にある。だから、死の心配をするのは時間と労力の無駄だ。シェイクスピアもそう言った。勇者が死ぬ思いをするのは一度だけだって。

「で、お前はどうだったんだアベル。今日は何をしてたんだ?」

 今更アベルと湿気た話をするのかむず痒くなって話題を戻す。ああ、とアベルは明るい声を漏らした。何でもないような声音で、

「俺は取り敢えず試験を受けてきた」

「は?」

 試験勉強なんてしていなかっただろ。困惑と共に声が漏れる。昨晩のやりとりが蘇った。エリート学院へ試験を受けに行くって話。でも、あれは夢だっただろう?

 だって、アベルが受ける予定の試験はエリート学院の入学試験だ。誰もが認める、この大国アヴェール最高峰の学院。


 ――国内最高峰でなきゃ意味がねーよ。

 なんでわざわざエリート学院なのか、学校に行きたいのならもっと他の場所もあるだろうと問うとアベルはそう言ったのだ。適当な学院なんて面白くないだろ、と。

 アベルの言うことはよくわからない。それが顔に出ていたのか、アベルは笑いながら言ったのだ。

 ――『いちばん』のところには面白い人間が集まるからな。いい退屈しのぎになると思って。

 あの頃はそうかと言って納得してしまったのだ。その頃から、アベルの言葉と口調には無駄に説得力があった。よく考えれば稚拙で穴だらけの理論もそれっぽく見えてしまうのだ。褒めているけれど恐ろしいところだった。


「いんや、そんなお遊びで入れるところじゃないだろ。全く、冗談きついって」

 茶化してやったのに、アベルは首を振った。

「だから、受けてきたさ。かのエリート学院に」

 そんなの受かるはずがない、おれは直感でそう思った。だって、学校とやらにすらマトモに行っていないのだ。おれらが受かるなら一般人は苦労しないだろう。あそこに入るための家庭教師やら何やらで大金が動くらしいのに。

「……馬鹿なのか。それかとち狂ったか」

 思わず本音が漏れていた。真正面からの罵倒にもアベルは怒ることなくわらった。

「はは。俺はどこまでも正気さ、カイン」

 アベルが身動ぎをする気配。布団替わりの襤褸布が引っ張られて冷気が染み込んだ。寒い。文句の一つでも言ってやろうと振り返った。

 ぱちり。

 琥珀の瞳とかちあった。

「だって、カインはアサに入ったんだろ? なら、俺もエリート学院に行くべきだ」

 その支離滅裂な言葉なんて理解できるはずがなかった。でも、すとんと納得できてしまった。やっぱり理解はできないけれど。

「俺らは双子なんだから。うまくいくさ」

 すうと琥珀が細められる。自分と同じ顔がすぐそこに。おれは自分がどんな顔をしているかわからなかった。おれとお前は違う、そう言おうとして言えなくなってしまった。

 代わりに出たのはいつもの意味のない罵倒で。

「くそ、引っ張んなアベル。寒いんだよ」

「いいだろ、別に」

 襤褸布を引っ張り返合って、それきり会話は途切れてしまった。何も言わずアベルに背を向ける。アベルは何も言わなかった。互いの呼吸音だけがうるさいほど響いていた。

「ま、俺は寝るわ。仕事、頑張れよ」

「……ああ。おやすみ、アベル」

「おやすみ」


 いつも通り片割れの背中から体温を感じるが、なんだかうっすらと寒かった。きっと急に冷え込んだせいだ。そうにちがいない。

――ああ、冬が来るんだ。

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