第56話 眠りと死
ようやくアサの『お仕事』から解放されて、フローからもらったあの建物に戻る。フローは死んだ。死者に建物はいらない。だからおれらが使い続けることにした。
鍵はおれが持っている。アベルは針金で開けるからいらないと言ったから。以前おれも開けられたら便利だろうと思って針金を試してみたが、できなかった。力任せに突っ込むと、針金は見事にぐにゃりと曲がって芸術的な形になったのだ。おれは慌てて引き抜いた。鍵が使えなくなるのが一番困るのだ。引き抜いて、曲がってしまった針金を戻そうとした。ぼきん。針金は音を立てて折れた。
「……」
この一連の流れを見ていたアベルはからからと笑った。すんごい力まかせ、と屈託ない笑みで。
そんな会話をしたのが数日前なのに、遠い過去のような気さえする。でも過去には変わりない。おとなしく鍵を開けて中に入る。ぎい。足音さえも立てないようにしていたというのに、古い扉は軋み声を上げておれを通した。まったく騒がしい奴だ。
この部屋は狭かったけれど、存外設備は悪くなかった。水道は一本だがきちんと通っているし、厠も湯浴み所もついている。とりあえず汚れた服を脱ぎ捨て、湯浴みをしてベッドにダイブした。
相変わらずベッドは一つ。勢いよく飛びこんだせいで体が沈んで、隣に寝ていたアベルが身じろぎした。
「……いま、かえってきたのか」
くぐもった片割れの声。寝ぼけているのかその声はひどく無防備で、いつものような堂々とした物言いは鳴りを潜めていた。今のアベルはただの少年のように見える。そうか、ただの少年なのか。アベルも、おれも。
「ああ」
起こしてしまって悪かったという気持ちを込めて、おれは小さな声で短く返答する。この片割れに多くの言葉はいらなかった。それがおれらの形だった。アベルには何も言わなくても伝わったし、逆もまた然りだった。そうでなければならない。そうでなければならなかった。昔はそうだった。
アベルはうっすらとその瞼を開けて、琥珀の瞳をちらと覗かせた。そのままゆるりと微笑んで、
「おかえり、カイン」
――ああそうだ、おれはカインだった。
なんだか久しぶりにカインと呼ばれた気がした。時間にしてはたった一晩だけだ。一日も満たない期間、ただ茶髪と金髪にお前やら兄弟やら呼ばれていただけだ。なのにアベルの声がひどく懐かしい。
だってアベルにカインと呼ばれるのがおれにとっての日常だったから。けれどきっとその当たり前を塗り替えていかなければならないのだろう。別にアベルに呼ばれなくてもおれがカインという事実は変わらない。変わってたまるか。
「……ただいま、アベル」
折角返事をしたというのに、アベルはもう眠ってしまっていた。さもありなん、東の空はかろうじて白んできているけれどまだ夜に近い時間だ。いくらおれより早起きだったアベルでも太陽が昇るよりも早く起きることはなかった。それはユートピアの習慣が残っている証かもしれない。まあ、睡眠と食事は取れる時に取るべきである。
隣には片割れの穏やかな寝息。それに半ば無意識に合わせていると、うとうととまどろみが訪れる。あんなに神経が張り詰めていたというのに。
けれどおれはこのまどろみの瞬間がとても好きだった。なんだか幸せな気持ちになれるのだ。眠たい時に眠れるのがいちばんの幸せ。アベルはこのまどろみが嫌いだったみたいだけれど。なぜと問うと、片割れは首を傾げながらいつも同じ答えを返したのだ。
――だって、死ぬ前みたいだろ?
人は明け方に亡くなることが多いそうだ。ユートピアではそうだった。起きたら冷たくなっている人間を何人か見てきた。マスターも朝に死んでいた。あの日も、朝もやがひどかった。だからその日はよく晴れた、ような気がする。その記憶ですらもう朧気になってきているけれど。
アベルはきっと睡眠の先に死をみていたのだろう。たしかに睡眠と死はよく似ている。どちらも意識を失っている。
ただ、睡眠はおしまいではない。
否、正確には睡眠にはおしまいがあるから死とは異なるのだ。
死はおしまい。そしてその状態が永続することを指す。だからおしまい。死はおしまいを始点に循環するのだ。ぐるぐる回って、結局おしまいに辿り着く。その先がないのだ。
今日茶髪は天国を口にした。天国は本当にあるのだろうか。わからない。死んだ人と話す術を持たないから、確かめる方法もない。手詰まり。知りたいとも思わないけれど。
マスターの言葉を額面通りに受け取ると、死んだ先には天国も地獄もないのだろう。初めに天国と地獄を提唱した人と話をしてみたいと思った。なんて。やっぱり天国なんてないような気もしてくる。
思考が堂々巡りを始めた。ああ、やっぱり睡眠と死は似ているのかも。
そう思いながら、おれは意識を落とした。疲労がいきわたって、身体が休息を欲するがままに眠れる。とても幸せな微睡みだった。生きていることが実感できて。
とぷん。
沈むような眠りだった。夢さえ見ない。
♢
「――おい、起きろ。カイン」
はっと命の危険を感じておれは飛び起きた。この声を聞いて起きなければ、片割れに殺人ヘッドロックをかまされて窒息しかけるのだ。本能が警鐘を鳴らして、だからおれは纏わりつく睡魔を吹き飛ばして身を起こす。そのまま重たい瞼をこじ開けて、目を開ける。この狭い部屋に一つだけある窓から白い光が差し込んでいるのが視界に入った。朝がやっときたのか。
――朝。まだ、朝だ。
「……なんだよ、アベル」
片割れに文句を言う。やけに身体が重たい。頭がぼうとする。十中八九、睡眠不足の所為だ。時計は確認していないが、きっとまだ数時間しか眠れていないだろう。それはアベルも重々承知だろうに。
「あー悪い、クセで起こしちゃったわ」
「はあ?」
「悪かったって、でもカインもクセで起きちゃっただろ? 言っとくが、俺はまだ何もしてないからな」
「声はかけただろ」
「かけたな。でもヘッドロックはしてない」
「……」
自分のヘッドロックの危険性を把握しているのだろうか。じとりと片割れを見遣ると、彼は悪びれずに笑った。
「何だよ、ヘッドロックをしてほしけりゃそう言えばよかったのに。つれないこというなよー」
そう言いながらアベルは勢いをつけて立ち上がった。ベッドのスプリングがきしんで、おれはごろんと半回転した。このなんでもない空気が好きだった。どちらも冗談とわかった上での茶番。おれらは進む道を別にしたけれど、変わらないものは確かに存在したのだ。良かったと思うのはさすがに陳腐か。
なんて考えていると、アベルが服を着替えているのが目に入った。白いブラウスと、黒いスラックスがよく似合っている。じゃなくて。
「どこ行くんだ」
買い物かと思ったら、アベルの返答は予想のななめ上だった。
「ちょっくらエリート学院を受けてくるわ。入学試験ってやつだな」
「は?」
寝ぼけて聞き間違えたのかと思った。そうであってほしかった。だって、おかしいだろ。エリート学院という名前こそ馬鹿らしいけれど、その高名は国中がよく知っていた。金髪と茶髪だって知っていた。
ああ、もしかしたらこれは夢かもしれない。そうだ夢に決まっている。だってこんなにも頭が回らないのだから。
「ま、カインは寝とけよ。昨日も遅くって、まだ眠いだろ?」
夢なのに睡眠不足を気遣ってくれるなんて、面白い夢だなと思った。
「そうだな」
目を瞑ればいつでも眠れそうだ。夢の中で眠るとどうなるんだろう。起きられなくなるのだろうか。ああ、それは死じゃないかと誰かが言う。誰?
困ったので、夢の中のアベルに声を掛ける。
「……死ぬなよ、アベル」
瞼が落ちる。辺りが暗闇に包まれる。その暗闇の中で、ははっとアベルが笑ったのが聞こえた。死ぬ時、いちばん最後まで残るのが聴覚らしい。
「おやすみ、カイン」
とぷん。
その声を聞いたか聞かないくらいで、また眠りに沈んだ。
眠りに沈む瞬間、死と眠りはどうして似ているのか、ふと疑問に思った。
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