第48話 勝ちの価値観

 手を離したのがいけなかった。


 ぐるん。


 何が起こったかわからないまま、視界が反転した。手を上げて降参のポーズを取った金髪を見ていたはずなのに、今や視界一杯に夜空が広がっている。脇の下から回された手はおれの額を押さえて首を逸らせる。少し苦しい。だからきれいな星空しか見えない。つまり首ががら空きになっているのだ。人体で一番の急所が。首筋をさわりと撫でる風が不快だ。

 でも羽交い絞めにされているわけではない。神経を押さえられているわけでもない。背負い投げでもすれば形勢逆転できるはずだ。ただ、一つだけ問題があった。


 問題は――首に突き付けられた冷たい刃だった。


「……冷たい」

 淡々と言うと、金髪は軽やかにわらった。

「ははっ、お前はやっぱり面白いな。そうさ、金属ってのは冷たいんだ。とりわけ首に当たったナイフは冷たいだろ?」

 言葉の端々に笑いが滲んでいる。でもそれだけの権利が金髪にはあった。だっておれの命は彼の手の中にあるのだから。不本意ながら。

 そう、降参したはずの金髪はいまやおれの首にナイフをあてがっていた。有難いことに痛みは感じないので、ナイフの刃ではなく峰が当たっているのだろうが。


 直接命の危険がないとわかれば、文句が口をついて出た。

「……卑怯だ。あんたは降参したんだろ」

「卑怯? はは、おっさん、卑怯だってよ!」

 金髪は大声を上げて笑った。茶髪は苦笑したけれど、金髪を咎めるでもなく否定もしなかった。ただ無言でわらっておれらを見ていた。


「ははっ、お前は甘いのさ、兄弟。砂糖に蜂蜜をぶっかけたみたいに甘え。お前の暴力の中に、人を殺すという項目が含まれていない。『殺す気でかかってこい』、オレはそう言ったのに、お前からはそれが見えなかった。いいか、『本気』と『殺す気』は違うんだぜ?」

「……」

「殺し合いでの勝ちは生き残ることさ。負けは死。単純明快だろ。……だってさ、オレらが今からやろうとしているのは、こういうことなんだから」

 おれの喉元に添えたナイフを、首筋に沿ってつと滑らせた。冷たい。意思に反して首筋が震える。

 これが刃なら、喉を搔っ切られて死んでいた。死。それは誤魔化しようのない、厳然たる事実だった。

 不意にマスターの言葉が蘇る。


「――ほうらさ、死んだらおしまいなんだから」


 脳裏に浮かんだ言葉と全く同じことを金髪が言ったので、おれは驚いてしまった。その表情を金髪がどう勘違いしたのか、彼は意地の悪そうなえみを浮かべて笑った。

「だからてめーはガキなんだ、たとえ降参しても生きてるもんが勝ちだ。相手が降参したくらいで勝った気になってたら、いくら命があっても足りないぜ?」

「……」

 認めたくはないが、はっきり言って目から鱗だった。

 アベルと一緒に遊んでいた頃の勝ち負けは、いつだって精神面を重視していた。

 相手がもう歯向かう気をなくすような、完膚なきまでの勝利を。

 おれらが望んでいたのはそういった勝利だ。そこに生や死といった概念はない。おれらはおれらが勝てたらそれでよかった。甘っちょろいと言われても仕方がないのかもしれない。


 でも、やられっぱなしで終わらせるおれらではない。そうだろ、アベル?

「……なるほどな。どうも、ためになった」


 ぐるん。


 第一手で金髪の手首を打ち、ナイフを遠くへ吹っ飛ばす。ほとんど同時に金髪の身体を足で後ろに蹴り、おれから引き剥がす。流石に不意打ちだったんだろう、金髪の胴はあっさりと離れた。その隙におれは抜け出して、そのまま金髪の膝を足で蹴り崩す。よろめいたところをすかさず石畳へ押し付ける。金髪の両手を左手で地面に縫い留め、足で下半身を抑える。これで完全に形勢逆転だった。

「……これであってる?」

 仕上げに金髪の首筋を人差し指でなぞる。ナイフを持っていたら金髪の命はもうなかった。その事実に戦慄し、同時に安堵した。


 腕の下で、金髪はぼんやりとおれを見ていた。完全なる無表情。感情の欠落したその顔にぞっとした。最後まで相手を睥睨して、死の回避を図っている顔だ。隙あらば相手の命を刈り取る顔。

 ぞっとしたけれど、その感情は無表情の下に隠す。そのままおれらは動かなかった。動けなかった。夜のひんやりとした風が通り過ぎる。たぶん一瞬だったのだろうけれど、永遠にも感じられた。


 先に動いたのは金髪だった。大仰に顔を歪めて、

「いってぇ……あってるけど、殺す気がないなら手加減してくれよ」

 それでこの緊迫した空気は突如終焉を迎えた。殺伐さはあっという間に消え、石畳に押し付けた時に頭を打ったのか、金髪は文句を垂れるように言った。ああ、そこは手加減はしたつもりなんだけれど。

 人間は、生き物は脆い。アベルはいつもそういつも言っていた。だから壊すのは簡単だと。救う方がよっぽど難しいと。

 だから壊さないように気を付けてきたのだけれど。


「おれは手加減はしない。あんたが弱いのが悪い」

「……そういうと思ったぜ。まったく、お前はブレねえなあ、兄弟」

 呆れたように金髪は苦笑した。そして頭を掻きながら立ち上がる。おれも身を起こして立ち上がった。


 そうしてこの茶番は幕を閉じたのだった。

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