第45話 アイスブレイク
――とん、とたん、とん。
慌てて意識を現実に戻し、周囲を観察する。おれが生きているのは過去ではなくて現在だ。過去よりもずっと死と隣り合わせ。あの死の音は過去の音でしかないのだ。
この地下の仄暗い部屋に残されたのはおれを含めて三人。誰もがぼんやりと、あるいは緊張に息を詰めて扉を見つめていた。
はじめに沈黙を破ったのは深紅のシャツを纏った金髪の若者だった。外から足音が聞こえなくなった途端、
「いやーまさかフィロ様にお会いできる日がくるなんてなあ」
なんて頭の後ろで手を組んでぼやいてみせる。ちゃらちゃらとシルバーのネックレスやらピアスが揺れる。その仕草、言葉に尊敬や謙譲の意などつゆほども見えなかった。それを諌めるのは無精髭を生やした、堅物そうな茶髪の男。
「口を慎め、若者。お前が消されるのは構わないが、私まで消されてはかなわん」
「これくらい大丈夫だろ。臆病だな、おっさん」
「……私は慎重なだけだ。勇敢と蛮勇の違いがわからない馬鹿者とは違ってね」
二人が睨み合う。これは喧嘩まで秒読みか、とおれが観客に徹しようとしていると、
「はあ……」
二人は同時に溜息を付いた。そしてこれまた同時に両手を天に向けて首を降った。息がぴったりで何より。よくわからないがぴりぴりとした空気はもう跡形もなく消え去っていた。
そんな二人がまたもや同時にこちらを見る。口を開いたのは若い金髪の青年だった。
「んで? こいつがフィロ様のお気に入りの新入りってか?」
ああ、とうとうおれに話が振られてしまった。
このまま気配を消して壁同然に振る舞おうと思っていたのに。思わず溜息が出そうになる。まあ人生はうまく行かないことばかりだ。だから面白いんだと、アベルなら高らかに笑うのだろうか。
そんな現実逃避は振り払い、観念して会話に参加する。それが言葉の意義だから。
「……お気に入りではないと思うけど、確かに新入りではあるかもな」
はっと金髪は笑い飛ばした。笑った拍子にまたピアスが揺れる。
「おいおい、新入りにしては態度がデケェな」
「どうも」
そう答えると、今度は口を開けてからからと笑った。
「ははっ、おもしれーなお前。安心しろ、フィロ様にあんな口をきいて殺されないってだけでじゅうぶんお気に入りだよ」
このときばかりは茶髪の男も頷いていて、過度な誇張や冗談でないことがわかった。
「フィロはそんなに怖いのか?」
「ほーら、その呼び捨てもやばいって。かの一等級サマを呼び捨てだろ? しかもお前は五等級のまごうことなき新人ときた。オレはお前の肝の太さに度肝を抜かれているね」
「はあ」
おれは五等級なのか。そもそも等級の意味すらわかっていなかったので、なんとも間の抜けた声が出る。それを見て何かを察したのか、茶髪が苦笑した。どこか親しみを覚える笑みだ。
「おいおいお前さん、本当に何も知らずにここにいるんだなあ」
まあ仕方ないか、と呟いて茶髪は続ける。
「いいかい、等級はアサの階級の名だ。五等級を最低とし、数字が小さくなるつれて階級は上がる。フィロ様の所属する一等級は段違いに偉いんだ。敬語と様付けは暗黙の了解。過去にそれを破ったやつがいたんだが、一等級サマ直々に殺されたそうな」
おおこわ、と大して怖がっていない様子で金髪が相槌を打った。茶髪はそれを一瞥して続ける。
「その上に零等級があるという噂もあるのだが、誰も零等級を名乗る人物に出会っていない。だからまあ、眉唾物の都市伝説とも言われている」
「……それでおれは五等級」
つまり一番格下。フィロは一等級の席で待っていると囁いた。それは這い上がれということか。
――言われずとも、いちばん格下は今すぐにでも脱出したいところ。
だって、そんなのつまらないじゃないか。おれはそう思うし、きっとアベルだってそう言う。いつだって面白い世界は「いちばん」のところに広がっているのだから。
「そうだな、少年。ちなみに私は二等級、そいつは三等級だ」
「なるほどな。……じゃあ、その金髪の男はあんたを敬わなくてもいいのか」
すぐさま「おい態度がデカいぞ五等級」なんて金髪から野次が入るが当然無視した。
「はは、お前さんは自分を棚に上げるのが得意のようだな、面白い。……まあいずれ肌で感じると思うが、一等級だけ格別でその他はあんまり差がない。たまに二等級であることを威張る奴もいるけれど、二等級までは半ば年功序列ゆえ威張ったってしょうがないからね。私たちは、班を組まれては解散する身。お互いわだかまりがない方が仕事がしやすくなっている」
茶髪は存外柔らかい話し方をする男だった。深いバリトンが部屋の空気に染み渡っていくような心地さえする。彫りの深い顔立ちと言い、昔はさぞかし美丈夫だったんだろうなと思う。今も、無精髭さえ剃ればなかなかに整った顔立ちだろうに。
「そーそー。長くても
金髪の声は、男にしては高いけれど少し掠れていてほどよく耳馴染みが良い。
――待て、今日出会ったばかり?
驚きを顔に出さないようになんとか堪える。いやだって、さすがにこれは初対面の空気じゃないだろう。内心でツッコみながら疑問だけを端的に問う。
「……そんなに頻繁にその班分けってのをするのか? ずっと同じ班のほうが仕事っていうか行動がしやすいだろうに。普通に考えて、組んだ相手のクセとか性格がつかめている方がやりやすいだろ。随分と非合理的なんじゃないか?」
茶髪は苦笑した。本当に、苦虫を噛み潰したような笑い方だ。
「お前さんは賢いな。……ああ、もちろん褒めてはいないよ。ここではバカな方が長生きできるからね。余計なことを知ったり勘づいたりしたらあっという間に抹消されるよ」
にこやかな笑みを浮かべて茶髪は言ったけれど、空気は氷のように冷たかった。へらへらしている金髪でさえ今は神妙な顔で頷いている。ああ、フローも似たような事を言っていたなと思い出した。
――いいかい、ここで生きていくには何も知らないことがいちばんさ。
これはアサの暗黙の了解なのだろうか。
「なるほどな」
わからないなら察しろと。頭を働かせるのはアベルのほうが得意なのになあとぼんやり思った。もう道を別々にしてしまったから、どうしようもないのだけれど。今頃アベルはあの部屋で眠っているのだろうか。おれらはいつも同時に眠って同時に起きていたのに。……起きるのは同時ではなかったか。おれはいつもアベルに起こされていた。
「そういやお前さん、年はいくつだ。随分と若そうだけれど」
おれだって正確な年齢なんて知らない。捨てられて、母親の顔すら知らないのだから。
「……さあ。何歳に見える?」
横から答えたのは金髪だった。
「さあな。オレよりもガキってことしかわかんねーな。体もひょろいし。ちゃんと飯くってんのか?」
確かに身長は金髪に負けている。早く身長を伸ばして鍛えなければ。
「ひょろいのは一言余計だ。……それよりあんた、名前は? なんと呼べばいい」
金髪は、んーと声を漏らしながら首をひねった。
「トム、サム、ジョン、アレク……」
「は?」
まだ金髪は唸りながら指折って名前の羅列を続ける。
「ウィリアム、ポール……あー最近はジョセフって名乗ってたっけ? ま、いろいろそん時の気分で名乗ってきたから、好きな名前で呼んでくれや。何なら新しくつけてくれてもいいぜ」
クールなやつで頼むな?なんていたずらっぽく笑ってみせる。
「どれが本名なんだ」
問うと、また金髪は笑った。つくづくよく笑う男だ。
「ははっ、お前ジョークも大概にしておけよ? 誰が本名なんか教えるかよ。お前のカインってのも本名じゃないくせに」
「……冗談のつもりだったんだけど」
なんとかそう言うと、金髪はまたもや笑った。
「お前、もっと笑いながら言えよ? 冗談がわかりづれえ」
なんてびしばしおれの背中をたたきながら、げらげら笑っている。地味に痛い。なのでおれも声を上げて笑った。
「あはは、騙される方が悪いんだって」
「……なんだ、お前、ちゃんと笑えるんじゃねーか」
そう言って金髪がまた笑う。本当によく笑う男だ。彼の瞳がなかなか見えないくらい、ずっと笑っている。
それを見ながらおれも笑った。笑いって移るんだなとぼんやり思いながらいらえる。「当たり前だろ」
おもしれー、なんてこぼしながら金髪はピアスを揺らして笑った。
この茶番にも似たトークを締めるのはやはり年長者に見える茶髪だった。
「はいはい。若者同士で笑いじゃれ合うのは結構だけれど、そろそろ仕事の時間だ」
「あーあーおっさん仲間ハズレで寂しかったか?」
「たわけ」
金髪は吹き出した。
「は、ははっ、たわけって初めて聞いた。ひー、おもしろ」
「全く、さっさとしなさい。連帯責任で死にたくはないからね」
「へいへい」
「へいは一回」
「へーい」
ふざけた返事なのに、へーいと答えた金髪の声音は存外静謐だった。あんなに笑い転げていた金髪の横顔にもう笑いの残滓はない。代わりに残ったのは仕事を前にした一介の男の表情だった。
「んじゃま、朝が来る前に終わらしますか」
その言葉が、アサの仕事の始まりだった。
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