第44話 死の音
ごとん。
フィロを飲み込んでいった扉が重い音を立てて閉じられた。よく聞いていた音に似ている。なんだろう。なんとなく嫌いな音だ。まるで死のような。
――ああ、あれはユートピアの折檻室の扉の音だ。蘇る暗闇、音の反響、それからすべてを覆い尽くす闇、闇、闇。
そして、死。
折檻室は、もとは折檻室ではなかった。本当はユートピアに迷い込んだ不穏分子を隠蔽する部屋だったのだ。隠蔽というと聞こえはいいが、実際やっていることは殺人だった。その事実を誰も認めたがらなかっただけで。
――ユートピアの存在は、外界に知られてはならない。
それがユートピアの掟の一つだった。物心ついた時にはそれが身に染みついていて疑う余地なんてなかった。けれど、その掟自体が異常だったんだろうと今になってようやく思う。
子供の頃から聡かったアベルはその異常さに気付いて指摘した。けれど誰もがアベルを笑い、こどもの発想力は豊かだねえ、なんて茶化した。別にそれは何か事実を隠そうとして茶化したのではなく、本気でその異常さが理解できなかったのだろう。
けれど幸か不幸か、ユートピアは外界からあまりにも遮断されてすぎていた。だからそのユートピアで生まれ育った大人たちがアベルの言い分を理解できないことは至極当然で、仕方のないことのように思えた。おまけに彼らは思考を止めていたし。
ただし、いくら外界から切り離された生活を営んでいても、外界からの刺激は防ぐことができない。
実際に、年に数回は世の中に旅人やら素性の知れない誰かが迷い込んできたりしたのだ。大人たちは彼らを斥候だ、と言った。まだ斥候の意味も知らない幼子だった頃の話だ。
今は収まっているが、少し前までは大国同士の戦争があったらしい。大人たちの言い分によると、まだ少しぴりぴりしている状態らしかった。それが事実か確かめる術はなかったし、あまりにも根拠が不足していた。
だからそれを目にしたアベルは眉を顰めながら、「ただ単に大義名分を手にしたかっただけだろ」というような言葉を何度か口にした。それを決して大人たちの前で言うことはなかったけれど。
その時おれは大義名分なんてよくわからなかったし、事実なんてどうでもいいと思った。おれは、おれらが生き延びられるのなら何でもよかった。
ともかく、旅人たちが誰一人残さず殺されたのは事実だ。何も全員殺すことはないだろうと幼いながらにおれは思ったけれど、掟に忠実な大人たちは容赦なかった。
――ユートピアの存在は、外界に知られてはならない。
それを何度耳にしたことだろうか。宗教みたいだと思った。宗教なんて知らなかったけれど。この掟の所為で、外界からやって来た人間は悉く殺された。見るからに善良な旅人も殺された。子供も、自分で歩ける年なら殺された。
捨て子だったおれらが殺されなかったのは、まだ泣くことしかできない赤子だったからだろう。その頃からおれらは運が良かったのかもしれない。殺される旅人たちを見るたびに、おれらは顔を合わせて笑ったものだった。笑うのは生者の特権だったから。それがおれらなりの弔いだった。
そして折檻室は、その旅人たち――ユートピアの言葉を借りるなら、外界からの異物――を排除するため部屋だったというわけだ。
方法は至って簡単。異物をあの真っ暗な部屋に入れて数日間放置するのだ。
今思うととてつもなく残酷な方法だけれど、ひとり当たりの罪悪感がいちばん小さい方法だった。だって薬で眠っている人間を部屋に運んで、鍵をかけるだけだったのだから。刃物で殺すよりも、首を絞めて殺すよりも、労力や罪悪感といったものがいちばん少ない方法だった。
おれもその当番に当たったことがある。一度目は、眠った人間を運ぶ当番。二度目は、扉を閉める当番。三度目は、死んだ人間を運ぶ当番。この当番に当たることがいちばん多かった。
だから耳にあの音がしっかり残っている。こびりついて離れない、死にいちばん近い音。
ぎい、ごとん、かちゃり。ぎい、ごとん、かちゃり。ときおり、悲鳴。
一度眠り薬の量を誤って死なせてからは、それがいちばんラクな方法として採用された。薬を、食事当番に当たった皆で少しずつ入れるのだ。一人あたりは毒にも薬にもならない量で。それが少しずつが合わさって、致死量に。誰かという個人が責任やら罪悪感を感じない方法だ。死者より生者を重んじるのは合理的だなとぼんやり思った。
その日から、あの部屋はおれらの折檻部屋になった。いちばん初めにあの部屋に入れられた時は死の音を思い出して恐怖に慄いたけれど、一度生還してからは恐怖という恐怖が薄れていった。
慣れというのは、痛みも恐怖も麻痺させるらしい。
でも、あの音だけは耳から、頭から離れてくれない。
だから今の扉の音がなんとなく嫌だったのだ。死の音。けれどここはユートピアじゃない。似た扉なんていくつもある。過去に囚われるのは愚かだ。
――とん、とたん、とん。
扉の向こうから響く独特な音に思考が遮られた。あの特殊な仕掛けの階段の音だ。きっとフィロが階段を上っているのだろう。
慌てて意識を現実に戻し、周囲を観察する。おれが生きているのは過去ではなくて現在だ。過去よりもずっと死と隣り合わせ。あの死の音は過去の音でしかないのだ。
過去の音で良かったと心底思った。
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