第43話 茶番にあらず

「さあ、神に祈りましょう。さらば救われん」


 フィロは胸の前で手を組んで、それから瞑目して微笑んだ。長い睫毛が彼女の整った顔を彩り、亜麻色の髪が水のように流れて止まる。荘厳で、世にも美しい祈りだった。ふと気が付くと、今まで微動だにしなかった二人も音もなく手を組んで瞑目している。

 その中央でランタンの灯りがゆらゆらと揺れる。蝋燭も揺れる。壁や床に映った影もゆらゆらと揺れる。

 ゆらゆら、ゆらゆら。

 まるで部屋が揺れているような錯覚に陥る。眩暈にも似た感覚。

 不気味だな、とおれはひとりで眉を顰める。神を否定するわけではないけれど、彼らの信仰にはついていけなかった。祈りの真似事はできるけれど、それは真似事に過ぎない。真似事は何も救わないし、救えない。


「……アサって、熱狂的な宗教団体だったのか? それなら最初から言ってくれよ、入信しなかったのに」

 おれがぼやくと、フィロは祈りの姿勢をゆっくりと解いた。まるで雪が溶けて春がやって来たような錯覚に襲われる。ああ、この少女は本当にきれいなのだ。顔だけではなく、細かな所作から全てが。

 翡翠の瞳が、純真無垢な子供のように真っすぐおれを見つめる。

「……カインは、これが怖くないんですか?」

「これってなんだよ、信仰か? 信仰が怖いわけないだろ。カミサマとやらに失礼だって」

「……」

 フィロは虚を突かれたように瞳を瞬かせたが、すぐに満面の笑みでわらった。

「ふふ、このフィロ特製の『歓迎の儀』が通用しない人は久しぶりですね。いつもの如くこの茶番で無駄に怖がらせ、緊張を解くつもりだったのに」

「いやそれ、普通に心臓に悪いやつ」

「怖かったですか? 別に泣き叫んでもいいんですよ」

「はあ、なにが楽しくて泣き叫ばないといけないんだよ」

 おれのぼやきになぜかフィロはまた満足気に笑った。

「まあ、わたしにそんな口を利く人なんて初めてです。あなたのそういうところ、好きですよ」

「……そりゃどうも」

「ふふ、わたしに盲目にならないところもいいですね」

 そこでフィロは言葉を切って、くるりと後ろを振り返った。


「さあみなさん、お待たせしました。もういいですよ」


 ぱんとフィロが手を叩くと、壁に控えていた二人は人形が息を吹き込まれたように動き出した。一瞬ぎょっとしてしまったけれど、何とか無表情の下に隠す。

 二人の男は、あー疲れた、肩が凝りそうだ、なんてぶつぶつ呟きながらランタンの元へとやって来た。ほのかだが確かに光が当たり、彼らの顔が良く見える。


 初めに口を開いたのは黒のブラウスを身に纏った茶髪の男だった。どこか気だるげな渋いテノールが、狭い地下室に響き渡る。

「全く、フィロ様は無茶ぶりがお得意なんですから」

 彼の顔をよく見ると無精髭が生えていて、顔の皺などからそろそろ壮年という年だろう。どことなく雰囲気がマスターに似ている。ああ、マスターは死んだのに。


 次に口を開いたのは金髪の青年だった。蝋燭やランタンの灯りではいかんとも判別しがたいが、深紅のような派手な色のシャツを着ていて、胸元ではシルバーのネックレスが揺れている。何なら耳でピアスが揺れている。チャラい。

「フィロ様、フィロ様。ちゃんと演技したんで賃金は上げてくれるんっすよね」

「こらお前、口を慎めって。これだから若者は……」

「んだよおっさん、これくらいいいだろ」


 男二人の掛け合いをフィロは微笑ましそうに見ていた。彼女が一番年下のように見えるけれど、きっとフィロがこの二人の上役なのだろう。人は見た目によらないんだなと改めて思う。

「ふふ。遺憾に思いますが、このくらいで賃金は上げられませんよ。でもあなたたちも愉しかったでしょう?」

「えーオレは金がもらえたらもっと愉しかったんだけど。それかこいつが怖がるか。……おいそこのガキ、ちったあ怖がれよ」

「まあ私はフィロ様が愉快であったならば何よりです」

 金髪の男はおれを睨み、無精髭の男は苦笑い。その反応を見てフィロはまた微笑んだ。

「ふふ、ともあれ茶番にお付き合いいただきありがとうございました。では、改めて」

 そこでフィロはゆっくりと立ちあがった。さらさらと癖のないやわらかな髪が流れる。それをぼんやりとみていると、フィロは先程のように胸の前で手を叩いた。 

 ぱん。

 小気味良い音が部屋に響いて、次いで美しい声が部屋に染み渡った。既視感。


「では一等級フィロの名の下、本日より一月ひとつきはこの三人で任務遂行にあたることを命じる。誰かの裏切りは皆の裏切り。――アサは常にあなたたちと共に」

 

 どこか凛としたフィロの声に二人は胸に手を当てて頭を垂れた。

「了解しました、フィロ様」

「うぃーっす、フィロ様」

 ほらお前も。そう茶髪が囁いてきたので、おれもそれに倣った。床に視線を落とし、右手を胸に当てる。

「承知、フィロ……様」


「ふふ、その調子です。ではわたしはこれで。この後は任せましたよ」


「はい。――アサは常に御身と共に」

「以下に同じ」

 お前も早く、と金髪が目で合図する。

「……以下に、同じ」


 ふわり。花の香りがした。顔を上げると、フィロがすぐそこまで歩み寄っていた。そのままフィロはゆっくりと屈んでソファに座っているおれの耳元に顔を近づける。柔らかな髪が頬に当たってくすぐったい。なんて思っていると、フィロの吐息が耳朶を撫でた。花の香りが直接鼻腔を擽る。

「では、一等級の席で待っていますね」

「……はあ」

 おれの返事を聞かないうちに、フィロは立ち上がってまた歩き始めた。


 いつ彼女が振り返って「全部茶番でした」と言うか待っていたけれど、フィロはそのまま去って行ってしまった。

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