アサ
第42話 深夜の歓迎会
フローが死んだとはいえ、おれの生活ががらりと変わることはなかった。唯一変わったのは、夜に出ていく場所が酒場かアサの仕事先かということだけだ。
「じゃあな、行ってくる」
「ああ、いってらー」
ベッドに潜り込んだアベルの声を後にして重い扉をばたんと閉じれば、夜の濃密な闇が体に纏わりついて、すぐに溶け込んだ。夜は好きだった。
草木も寝静まった真夜中、人気のない表通りを歩く。月明りのまぶしい晩だった。夜風が心地よい。誰もいないしスキップでもしようか、というところでおれは目当ての看板を見つけた。
「……ここか」
やけにかわいらしい文字で『閉店』と書かれた看板の横を通り、灯りひとつ点いていないレストランに入る。鍵は開いていた。
無人の店内はもちろん暗闇に塗りつぶされている。歩みを進めるとテーブルやら椅子やらがぼんやりと視界に入っては消えていった。夜目と事前知識を頼りに歩きながら、なんとか教えられた隠し階段を見つけて降りる。
とん、ととん、とん。
特殊な加工がなされているのか足音を消すことはできなかった。何となく、罠にかかった獲物のような気分になって音もなく溜息を吐いた。いや、これは深呼吸だ。
その先には扉が二つ。
おれは迷わず扉の間の壁を選んで押した。きいと音が鳴って壁がへこんだ。その隙間に体を滑らせて先に進む。
また同じように二つの扉が現れた。今度は扉の右手に広がる壁を押す。ぎいと音を立てながら中に入ると、
「あら、時間ぴったりですね。尻尾を巻いて逃げてしまったのかと思いましたわ」
昨日とは寸部違わぬ、涼やかな声に出迎えられた。後手で扉を閉めて努めてゆったりといらえる。
「……こんばんは、フィロ。あんな脅され方をして逃げるわけがないだろう」
昨晩の脅しを忘れるはずがない。おれはきっと苦虫を嚙み潰したような顔でもしているのだろう。対してフィロはにっこりと嬉しそうに微笑んだ。
「それは重畳。あなたにあの脅しが通用しているとは思っていなかったので」
――ふふ、余計な手間がかからなくて済みました。
そうフィロは翡翠の笑みに妖しげな光を宿して囁いた。
「……」
なんとかフィロから視線を外して、ざっと部屋を眺める。狭い部屋だ。十人も入れば窮屈だろうなと思う。
家具もほとんど置かれていない。中央に一組のソファとローテーブルが鎮座していて、あとは部屋の隅に申し訳程度の本棚と机が置いてあるだけだ。部屋の灯りは数本の蝋燭とローテーブルに置かれたランタンのみ。薄暗い。
その暗さはあの酒場とほとんど同じだけれど、ここは熱気からも喧騒からも遠くかけ離れていた。そう、代わりに広がるのは静寂。暗がりに目を凝らすと、部屋の壁際に二人の男が佇んでいるのが見えた。けれど二人とも微動だにしない。弱弱しい灯りのもとでは彼等の表情なんて見えるはずがなかった。
そんな中心で、優雅にスカートを広げソファに座っているのはフィロだった。すらりと整った指先で自身の髪を撫でる。それだけでこの辛気臭い部屋に花が舞ったような錯覚が湧き上がる。この部屋に花なんて一輪も存在しないのに。彼女がほうと息を吐くと、それだけで部屋にメランコリーに似た何かが漂った。
ただしくフィロはこの空気を支配していた。
そんなうつくしい彼女がすっと目の前のソファを指さした。洗練された仕草にくぎ付けになる。気が付くと、おれは吸い込まれるようにしてそこに座っていた。顔を上げる。同じ視線の高さでフィロははんなりと笑った。少しまぶしくて視線を逸らす。
「ふふ、素直でよろしい。ではそんなカインに一つだけ忠告をしておきましょうか。……あなたが一分でも遅刻すればあなたとあなたにそっくりなご兄弟が殺されるので、お気を付けくださいね」
ばっと顔を上げる。
「兄弟って……」
思わず呟くと、フィロはきょとんと首を傾げた。亜麻色の髪がさらさらと流れる。まるで幼子のような仕草だけれど、なぜか様になっていて不思議だ。
「何を驚くことがあるんですか、カイン。アサに入るということは、あなたのすべてを捧げることだと説明しました。つまりそういうことです。ここでは弱みは握られるもの。だから、せいぜい喰われないように頑張ってくださいね」
「……」
清らかな微笑みを浮かべて歌うように言ってみせるフィロは天使か悪魔か。天使も悪魔も信じていないけれど。
「あら怖かったですか? もしかして、はじめから少し脅し過ぎましたかね」
フィロは柳眉をゆるりと下げて、壁際に控える二人に問う。二人は答えなかった。それが命令だったのかもしれないけれど、人形のようで少し不気味だった。
満足気に頷いたフィロはもういちどおれの方を向いて、やわらかく微笑んだ。
「でもねカイン、この世界は不条理なんですよ。あなたも知っている通り」
そこでフィロは言葉を切ると、目を伏せてすうと静かに息を吸った。
「さあ、祈りましょう。さらば救われん」
フィロは胸の前で手を組んで、それから瞑目して微笑んだ。長い睫毛が彼女の整った顔を彩り、亜麻色の髪が水のように流れて止まる。荘厳で、世にも美しい祈りだった。
いや、急になに。こっちの方が怖いんだけど。
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