第41話 鍵のついた扉

 無知とは恐ろしい。知らない方が幸せなこともあるのだろうけれど。


「よっと」

 いい加減体も休まったということで、声を洩らしながらベッドから立ち上がる。しゃらしゃら。音のほうを見ると、首にかけた鍵たちがとうるさく主張しているのが目に入った。 

 そうだ、おれがアベルを幽霊、もとい幻覚だと思った最大の理由はこれなのだ。


「なあ、アベルはどうやってここに入ったんだ。鍵はここに一つしかないのに」


 そう、この部屋の鍵はフローの持っていた鍵一本しかないのだ。鍵の管理は常にフローが行っていていて、フローに鍵を開けてもらわなければこの部屋の中に入れなかった。夜は外側からフローに鍵をかけられ、次の日にフローが鍵を開けに来るのを待つという生活だった。

 この異様さに気が付いたのはついこの前のことだ。

 無知とは、ほんとうに恐ろしい。

 ユートピアにいたころは自室に鍵なんてついていなかったから、まず鍵があるということが異様だった。だからフローに鍵をかけられて夜を明かすことの異様さが隠れてしまっていたのだ。もちろん扉の内側からは鍵を開けられる仕様になっておらず、外から鍵を掛けられたらそれでおしまいだった。

 ――もしフローが開けにこなかったら。

 おれらは十分に、それこそ十二分にフローのことを警戒していた。なのにその危険性、異様性に気が付けなかった。どうせ閉じ込められても出られると高を括っていたのかもしれない。


「え、この部屋にどうやって入ったかって?」

 アベルはにやりと笑った。悪戯を企む時の、悪い笑顔だ。おれの好きな笑顔。だってこの笑顔のあとには必ず面白いことが待っていたから。おれは無意識にわくわくして答えを待つ。

「ほら、これだよこれ。ユートピアにいたころもこれでよく脱走していただろ?」

 そう言ってアベルは一本の針金を取り出した。ところどころ微妙な角度に曲がっている。

「ああ、折檻室……」

 色々と思い出して溜息を吐く。嫌な記憶だ。

 そう、ユートピアにいたころも鍵の文化はきちんとあった。ただ各部屋についていなかっただけで。ユートピアでは全てが平等で全てが共有財産だった。だから、食糧庫にも鍵がついていないし、そもそも誰も貴重品なんて持っていなかった。

 けれどそんなユートピアにも一部屋だけ鍵のついた部屋があった。

 ――折檻室だ。

 折檻室とはおれらが名付けた部屋だけれど、その部屋の用途はたしかに折檻だった。何をするでもない、窓一つない暗闇の広がる部屋に放り込んで外から鍵をかけるのだ。

 何もない暗闇に放置されると、人は本能的に恐怖を覚える。恐怖はさらなる恐怖を呼び、それは連鎖して煮詰まってゆく。それが折檻室における罰だった。しかし恐怖が過ぎるといずれ人は狂う。そうなる寸前で引っ張り出されるのがユートピアでいちばん恐ろしい罰だった。

 すべてが平等なのだから、罰をする権利のある者なんていないはずなんだけれど。


「そうさ、折檻室からこれで何回も出てやっただろ?」

 アベルがあの時と同じ笑みで笑う。幼いころから変わらない、爛々と輝く琥珀をきゅっと細めた特徴的な笑み。


 もちろんおれらは何度か折檻室に入れられたことがある。そもそも反発して罰を受ける輩なんておれらくらいだったから、いつしかあそこはおれら専用の折檻部屋になっていたっけ。

 とはいえ初めてあの部屋に入れられた時の記憶は、まだ鮮明に残っている。


 ――ほら、しっかり反省しろよ。

 ごとん。かちゃり。

 まだ十にもなっていない頃。首根っこを掴まれて部屋に放り投げられると、乱雑に扉が閉められ、次いで鍵がかけられる。慌てて扉に縋るが、もうそれはただの硬い板と化していた。

 ……むだか。

 そろりそろりと後ろを振り返ると、暗闇に暗闇をべったりと重ねたような闇が広がっていた。眩しい陽の光の下から急にこんなところに放り出されて、まだ夜目も効かない。それはまさしく恐怖だった。じっと見ていると闇が歪んで蠢いているようにも見える。

 なにかいる……。

 幼い自分は人並みに暗闇が恐ろしかった。なにか吞み込まれてしまいそうで。一度沸き上がった恐怖はこびり付いて離れない。あまつさえそれは暗闇を纏ってどんどん膨れ上がっているようだ。

 ぎゅっとすぐ傍にいたアベルの服を握った。片割れがいれば大丈夫、そう唱えながら。

 あははっ。

 狭い部屋にアベルの軽快な笑い声が響いた。そう、濃密な暗闇でアベルは笑ったのだ。狂ってしまったのか。あの笑いを聞いた時、おれは本気で寿命が五分縮んだと思った。

 ねえカイン、ここからでてやろうよ。

 幼いアベルは意気揚々と言って針金を取り出したのだ。あの時は暗闇の中で何も見えなかったけれど。

 ……ここから、出る?

 幼い自分の問いに、あの時アベルはなんと言ったんだっけ。


「――ああ。これを鍵穴に突っ込んで、かちゃかちゃっと回したらおしまいさ」


 アベルの声にはっと意識が返って来た。暗闇は脳裏から消え去り、代わりに傲岸不遜な笑みを浮かべたアベルが現れる。そう、あの時もアベルは同じことを言ったのだ。

「……よくあの時の台詞を覚えているな」

 一瞬アベルは怪訝そうにこちらを見たが、すぐに合点したのかまたにんまりと笑った。

「そりゃあ、俺はアベルで、俺らの『頭脳』だからな。どんな鍵でも開けてやるさ」

「そうか、まあ扉の回し蹴りなら『手足』に任せろ」

 脳筋すぎるだろ、と笑うアベルの屈託ない表情は昔から変わらないなと思った。変わらないでほしい。


 おれはアサに。カインはエリート学院に。手足と頭脳で歩む道が散り散りになってゆく。じわじわと確実に。


 ♢


 鍵穴と針金が擦れる音が暗闇でわんわんと反響する。かちゃ、かちゃ、かちゃ。

 

 かちゃり。

 

 鍵が開いた。扉を開ける。

 さあ、行こう。

 うん、行こう。


 手を取り合って出たはずの扉の先で、おれらは互いにその手をほどいていく。

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