第40話 道を分かつ
すうと水面から顔を出すように意識が浮上した。
目を開ける。日は高く上っているようで、この部屋にたった一つの窓から真っ白な光が差していた。背中からはふわりとした感触が伝わってきて、自分がベッドに横たわっていることがわかる。
――昨晩ベッドで眠った記憶がない。昨晩は何をしたんだっけ。いつもの通り酒場に行って、皿洗いをして……ああ、そうだ、それから賭けを見守り、爆発に巻き込まれ、フローがきれいな少女に殺されるのを見て、アサに入ったのだ。
――そんな馬鹿な話があるか。ありえない。三流作家でももっと面白い小説を書くだろうに。荒唐無稽な夢と言われた方がまだ納得できる。
そう、きっと長い夢を見ていたんだ。頭がぼんやりと痛い。それにしてはやけに鮮明だったな。あれは悪夢といえるのだろうか。悪夢ではなかった気がする。じゃあ正夢になるのだろうか。
「おはよう、カイン」
この世界でいっとう耳に馴染んだ声が耳朶を震わせた。何千回も聞いた、片割れの挨拶。
「……おはよう」
返した声はみっともなく掠れていて、思わず咳き込んだ。そうだ煙を吸ったんだ。夢で。やけに現実味を帯びていたな。あの炎の熱さも鮮明だった。なんとも不思議な夢だ。
「ほらよ、水だ。飲め」
アベルがコップに入った水を差しだしてくる。受け取り、一息に飲み干す。はっとするくらい冷たい水が嫌にほてった身体を冷やしていく。おいしい。
この世で疑いもなく飲み干せるのは、片割れが差し出してくるこの水だけだった。信頼すると裏切られる。それならば初めから信頼しない、というのがおれらの信条だ。それはユートピアにいたころから染みついた習慣で、ユートピアを出た今もやめるつもりはなかった。
コップをベッドサイドのテーブルに置こうとする。でも置けなかった。金貨がテーブル一杯に広がっていたので。
「……金貨?」
「そうさ、なんとかあの場からちゃんと持って帰って来たんだ。どうだ、褒めてくれてもいいんだぜ?」
夢が蘇る。アベルが賭けをして大勝する夢。ほどよく暗い室内にまとわりつく熱気。あの酒場にいる誰もがアベルに注目していて、アベルはそれを心地よさそうに享受していたのだ。そんな、やけに鮮明な夢。ああ、夢なんて碌なものがない。
「……長い夢を、見ていた気がする」
「夢? まだ寝ぼけているのか?」
によによとアベルがからかうように言ってくる。言い返そうと思ったけれど、事実かもしれないと素直に諾った。
「そうかもな。んで、この金はどうやって手に入れたんだよ」
アベルは怪訝そうに眉を顰めた。
「記憶喪失か? おいおいしっかりしてくれよ、俺が賭けに大勝して手に入れたんだって。あの酒場でカインも見ていただろう?」
嫌な予感がする。もしかして、あれはすべて現実だったのか。
――いい加減、現実を見ろよ。
心の中の自分が声をかけてくる。五月蠅い。駄目もとで問う。
「じゃあ、テーブルに広がってるそれはすべて賭けで手に入れた金か」
「そう言ってるだろ」
「じゃあ、あの酒場が爆発したのも本当か」
「そうだって。そんな中からこのアベル様は生還して金貨も持ち帰ったんだ。すごいだろ?」
ああ、やっぱり夢じゃなかった。夢ということにはしておいてくれなかったんだ。
「じゃあ、フローが死んだのも本当か」
問うと、ここで初めてアベルは虚を突かれたような顔をした。
「フローは死んだのか」
問うたのに問い返されてしまった。それでは夢か現実かわからないじゃないか。
否、その思想は危険だ。人に自分の記憶を確かめているようではきっと道を踏み外す。そう誰かが言っていた。誰だろう、アベル?
ともかく、信頼と妄信は違うのだ。間違ってもアベルの言葉に縋ってはいけない。
「ああ、そうだ。フローは死んだ。おれの目の前で」
「……爆発にでも巻き込まれたのか」
「殺されたんだ」
流石に予想外だったのか、アベルは静かに息を呑んだ。「誰に」
「フィロ……アサに所属している、ひとりの少女に」
目を瞑るとすべてが鮮明に蘇る。月の光、煌めく亜麻色の髪、確かな意志を宿した翡翠の瞳。それから澄んだ涼やかな声。
「その女はそんなに強かったのか」
目を開ける。月の光もうつくしい少女も消え、代わりに白い陽の光と片割れの姿が目に映る。
「そうだな。少なくともフローは瞬殺だった。それからアサという巨大な組織についての話を聞いた」
「待て、カインは殺されなかったのか?」
「おれが幽霊じゃなければそういうことだな。……っていう冗談はおいといて、アサに入ったんだ」
「……」
アベルは口を開けたが、肝心の言葉が出てこないようだった。珍しくその琥珀の瞳にほんの少し心配の色を浮かべて
「なあカイン、まだ寝ぼけているんじゃないか。それか頭でも打ったか」
さっきはからかってきたのに今は真剣におれに問うている。不思議だ。
「失礼な、おれは正気だ。眠気だってもうすっかり覚めたさ。昨日おれはフローの死体を運んで、アサの試験とやらにパスして、アサに入ったのさ」
証拠に、今おれの首にはフローの持っていた鍵がかけられている。それに手首には赤い紐がない。
赤い紐は少女のひときわ大切なもので、それを奪ったからフローはわざわざ少女に狙われて消されたのだ。そうでなければあの爆発からうまく逃げおおせて生き延びられたのに。
「……カインがそう言うなら、そうなんだろうな」
アベルの口からそんな言葉を聞くのは初めてだった。そこですとんと腑に落ちた。おれらの会話が絶妙に噛み合わない理由が。
そう、初めてだったのだ。おれらが別々に行動することが。
ユートピアにいたころは二人セットで扱われていたから常に同じ行動をしていた。それはユートピアから出た後も変わらなかった。二人で歩き、二人で食事をとり、二人で眠り。そうして二人ですべての危機をやりすごしてきたのだ。
だから、片割れがわからないという事実に理解が追いつかなかったのだ。
だから、お互いがお互いの知らないことを説明するのが下手だったのだ。
生唾を飲みこんでなんとか返事をする。
「ああ、そうだ。だから今晩から仕事に行ってくる」
そうフィロと約束をしたのだ。この約束を破れば、あなたの命は無いとも言われた。今この瞬間もおれは監視されているのかもしれないし、雑魚にそんな労力は割いていないのかもしれない。フィロとの別れ際、こう言われたのだ。
――裏切者には制裁を。それがアサの決まりです。アサからは逃れられない。逃げれば遅かれ早かれフローのように殺されますから。それだけはお見知りおきを……。
「そうか。なら、俺も受験するかあ」
呑気なアベルの声に顔を上げると、にやりと好戦的に笑ったアベルと目があった。琥珀の瞳には悪戯を考える時のようにひどく愉しげな笑みが浮かんでいる。嫌な予感がする。
「どこに」
「エリート学院に」
それは思ってもいない話だった。しかし頭脳として勉学に励んできたアベルはアサではなくエリート学院の方に適正があるはずだ。それをアベルは正しくわかっているのだ。でも、何となく寂寞感があった。もう同じではないんだなと。
すっと嫌な予感がした。
初めての感覚だ。根拠も何もないのに、胸がつかえたような重みが一瞬降りてきて、すぐに去っていった。何となくもやもやする。でもその原因も理由もわからなかった。なら、気のせいか。
「……どうして、エリート学院なんかに?」
「んー、愉しそうだから?」
「は?」
いちばん予想外の言葉が来たので冗談かと思ったけれど、アベルの顔をみてそれが本気だと知った。まあ意外ではないので驚きはしないけれど。
「あの酒場が潰れた今、俺らは遊びの場を失ったんだ。この金を使ってほそぼそと暮らすってのもありだけど、それじゃあ退屈だろ。退屈すぎて、寿命が来る前に死んじゃうかも」
どこかふざけて大げさにアベルはいうが、これはあながち間違いではなかった。
「なるほど、退屈は毒か」
その通り、とアベルは破顔しながら続けた。
「それに、なんとなくあの学院に行けば望むものも手に入りそうだから」
ふとアベルの望むものが気になった。けれど、なぜか恐ろしくて訊けなかった。パンドラの箱を開けてしまいそうで。だから代わりに違う質問を舌に乗せる。
「……いけるのか?」
おれが問うと、ちっちっとアベルは立てた人差し指を左右に振った。
「いけるいけないじゃなくて、行くんだよ。俺の武器はここだからな」
アベルは指先でとんとんと自分の頭を叩いた。
「市民券もないのに?」
「それはカインが作ってきてくれるんだろ? アサに入れば市民券の偽造だって朝飯前だって聞いたぜ」
完敗だ、おれにアベルは止められない。口喧嘩ではアベルに軍配が上がるのだ。情報量も知識量も違う。そんな情報、いつどこで手に入れたんだよ。おれはアサの存在すらおぼろげだったのに。
でもそれくらいこの件についてアベルの意志が固いのだ。
「……アベルって頑固だよな」
ぱちんとアベルは悪戯っぽくウィンクした。
「お褒めに預かり光栄の至り。でもカインだってアサに入っただろ?」
それと同じだって、そう屈託なく笑うのでおれは何も言えなくなった。
そうしておれらはどんどん違う道を進んでいく。まあそれが普通なんだろうけれど。
果たしてその先には、ただしく幸福が広がっているのだろうか。
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