第39話 白か黒か

 万物は白か黒だ。グレーという選択肢もあるけれど、グレーが増えれば増えるほど人生は厄介になる。すべて曖昧なままに生きるのは、ラクだけれどひどく難しい。

 だから集団に生きる人は誰しも、多かれ少なかれ雁字搦めなのだ。


「わたくしフィロの名を以て、カインのアサ入隊をここに認めます」


 夜と朝の滲み合う時、フィロはそう宣った。また一つ、白と黒がはっきりしたのだ。そうして転がり落ちるように雁字搦めになってゆく。



 フィロと別れ、朝靄の漂う街を歩く。歩いて歩いて、ようやく酒場まで戻って来た。ひどく懐かしい気がする。まるで十年来の故郷に戻ってきたような感覚。あと十年も経てばユートピアだって懐かしい故郷になるのだろうか。故郷。ふるさと。口の中で言葉を転がすが、あまりしっくりこなかった。


 あんなに賑わっていた酒場の辺りに人の気配はなかった。きっとあの場にいた大半は死に絶えたのだ。野次馬ですら退散している。火事場泥棒は金品を回収し終わったのだろう、そこに残るのは建物だった残骸のみ。

 あんなに燃え盛っていた火はもう完全に消えているようで、剥き出しになった骨組みからぽたりぽたりと水が滴り落ちている。とはいえまだ焦げ臭い。一体何人が死んだのだろうか。あの酒場にはぎゅうぎゅうに人が詰まっていた。あそこで爆発が起こったのだから、きっと、いや確実に何人かは即死だったのだろう。


 フィロから聞いた話だと、革命を起こそうとしていたからこの酒場がアサによる襲撃を受けたそうだ。フィロはその総督らしい。「アサは酒場の人を全員殺したのか」なんてフィロに問うと、

「抹殺命令を出したので、まああの場から逃げ出せた人はいないでしょうね。あなたを除いて」

 そう教科書を読み上げるように答えた。そこには如何なる感情も載っていない。それがまた不気味だった。

「殺したかったのか」

「それが仕事なので。わたしの意思は関係ありませんよ。まあマトモな人なら、できれば殺したくなかったと答えるでしょうね」

「おれを殺さないのか」

「あなたは面白いので。それに、アサの役に立ちそうだから。この襲撃で何人かの部下を失ったので丁度いいかなと思ったんです」

 フィロがあまりにもあっけらかんと言うので、おれは呆れて溜息を吐くことしかできなかった。「お眼鏡にかなったようでなにより」


 みしり。


 酒場だったところに足を踏み入れようとしたら床がきしんだ。慌てて足を引っ込める。あと少しでも体重をかければきっと床が抜けただろう。元からあの床はぼろかったな、と思い返す。

 中を覗くと死体が転がっているのだろうか。それとも木っ端微塵になって瓦礫と判別がつかないのだろうか。その真偽を確かめることはできないけれど。したくもなかった。

「アベル……」

 ここに戻れば何となくアベルに会える気がした。無意識に期待していたのだろう。けれどここには、アベルはおろか人ひとりいないのだ。フローもいない。おれらをこき使った厨房のコックもいない。酔い笑っていたアベルの賭けの相手もいない。

 ――ほら見ろよ、カイン。これでしばらくは生活には困らないな。

 アベルと楽しく金貨を数えていたのが、まだ数時間前の出来事だ。なのに、ひどく懐かしい。

「……帰るか」

 誰に言うでもなく呟いた。いつもは隣にアベルがいたから独り言なんて口にすることもなかったのに。


 ずるずると重たい足を引きずるようにして歩く。足音を立てないようにするので精一杯。肉体は疲労を訴えている。瞼でさえ重力に逆らうことを諦めかけている。もういいじゃないか、と心の中で誰かが言う。つかれた。でも歩みを止めることは許されない。人生とはそんなものだ。だらだらと、半ば惰性で歩く。


 気が付くと朝日は完全に顔を出しているようで、表通りには白い光が満ちていた。ちらほらと朝の散歩とやらに従事する人の姿だって見える。まぶしい。


 だから見知った路地裏に入った時にはひどくほっとしたものだ。朝日は月光とは違ってまぶしすぎる。ユートピアでは嫌というほど浴びていたのにな、と時の流れを感じた。まだ数日しか経っていないはずだけれど、ひどく濃密な時間を過ごした。色褪せたユートピアでの日々とは違って。

 でも、ユートピアにいれば今この瞬間もアベルが隣に居たのかもな。

 そんな女々しい考えが脳裏をよぎって、いよいよ疲れているなと思った。そう、疲れているだけだ。


 何とかフローの貸してくれた部屋に辿り着く。フローの死体から拝借しておいた鍵の通された紐を取り出し、そのうちの一本を手に取って鍵穴に突っ込んで回す。

 かちゃり。

 ごごごという重々しい音とともに扉が開き、中の少し湿っぽい空気が流れ込んでくる。この数日で鼻に馴染んだ匂い。そして、

「ああカイン、遅かったじゃないか」

 何よりも耳に馴染んだ声。

 「……は?」


 視線の先にはアベルがベッドに腰掛けて笑っていた。


 疲労の見せた幻覚かと己の頭を疑う。目を擦った。まだアベルは消えない。鼓膜にもアベルの声が残っている。アベルが笑い、空気が動く。

「おいおい、間抜け面を晒すなって。俺が幽霊に見えるのか? 安心しろ、足はばっちりついているさ」

 ぴろぴろとふざけた調子で足を振って見せるアベルは、紛れもなく本物だった。

「アベル、」

 生きてたのか、どうやって、そんな言葉が泡沫のようには浮かんではじけた。言葉が出 てこない。

「そうさ、俺はアベルでお前はカインだ。まあどっちでもいいけどな。……そうだ、ひとついい知らせがある」

 アベルは立ち上がってテーブルの上の麻袋を取った。

「ほら、みろよ。何とか金貨は無事だ」

 そのまま麻袋をひっくり返して金貨をテーブルの上に広げる。じゃらじゃら。金貨が散らばる音とともに酒場の光景が蘇る。それから爆発音と悲鳴。それから月。それから美しい少女。

 それらはすべて目の前のアベルに溶けてゆく。

 ひどくほっとした。もう休んでもいいと言われた気がした。

 

 万物は白か黒だ。アベルがいるかいないか。今はアベルがいるから、白だ。黒かもしれないけれど。


「金貨なんて、どうでもいいって……」

 

 そう呟くや否や、おれの意識はそこでぷつんと途絶えた。

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