第38話 夜から朝へ
いっとう月のきれいな夜に、うつくしい少女と肩を並べて歩く。
こう表現すれば素敵な恋愛物語でも始まりそうなのに、あいにく手に持っている死体の所為で全てが台無しだった。
「なあ、本当にフローを持っていったらアサへ招待してくれるんだろうな」
そろそろ歩いてかなりの時間が経つ。二十分だろうか、三十分だろうか。体内時計が機能しなくなるくらいには歩いた。そろそろ手が疲れてきた。死体は無駄に重たい。
「ふふ、焦らずとも。だってほら、もう着きますから」
そうフィロは言うが、景色は変わらず路地裏だ。別段、想像していたような大きな建物があるわけでもない。
「どこに着くんだ」
「アサの試験会場に」
「は?」
その時ずりと死体が滑ったので一旦地面に横たわらせる。腕から重さが消えて血の巡りが良くなった。さすがに死体を運ぶのは初めてだから何だか疲れた。フローは完全に冷たくなっていて、いよいよ気持ち悪いのだ。
「あら、どうしました?」
フィロが振り返る。
「悪い、ちょっと待ってくれ。手が痺れた」
それは嘘だ。手の感覚は明瞭だし、いつでもナイフは握れる。けれど嘘も方便だ。本当に痺れてからでは遅いのだから。
「あらあら、それは困りましたね。ではカインの心準備もかねて休憩しましょうか」
「助かる」
気が付けば意味もなく少女を見つめてしまいそうだったので、何とはなしにフローだった死体に目をやる。
フローは知人だった。その知人の死体だが、マスターの時のように過去を懐古することはなかった。死んだという事実を受け止める以外には、何の感慨も浮かんでこない。
だって、フローとの思い出なんてこれといってなかったのだ。そもそも出会ってから数日しか経っていないし、彼と仲良く何かを成しえたというわけでもない。ただお互いに利用し合っていただけ。人生が一本の道だとすれば、お互いにほんの一部掠っただけ。人生を捻じ曲げるようなことはなかった。
――本当に?
フローがいなければ、おれらはきっと違う道を歩んでいただろう。少なくともおれらはあの酒場にはいかなかった。寝泊まりするところも違った。あの酒場で爆発に巻き込まれることはなかった。こうやってフローの死体を持つことなんてなかった。こうやって美しい少女とともにアサへと歩くことはなかった。
――人は知らないうちに誰かを変えるし、同じように誰かに変えられているんだ。てめえらも同じさ。
からからと笑いながら言ったマスターの声が蘇る。あの時はマスターの言葉を内心で笑ったが、あれは単に幼稚な反抗心だったんだなと思う。
「まーたなにか考え事ですか?」
死体から顔を上げると、視界いっぱいにフィロの微笑みが広がった。
「……いや、近いって」
毒針でも刺されるのかと警戒して一歩後ずさる。否、それは建前だ。本当は、今まで見たこともなかったような美貌に思わず後ずさってしまったのだ。アベル以外にここまで人に近づかせることもなかった。
おれの内心を知ってか知らでか、少女はきっちり一歩ぶん近づいた。ふわりと花の香りがした。
「どうして離れるのですか? わたしが怖い?」
くすくすと笑いながらフィロは言った。
「いや……近いなと思って」
「ふふ。でもね、これでもわたし、あなたと仲良くなりたいと思っているんです」
「は?」
少女の思考回路が全くもって理解できなかった。仲良く? 死体の前で言うにはアンバランスすぎる。正直狂っている。そこに転がっているのは死体だし、今は夜だし、おれは初対面で信頼もない男だ。ああ、夜は関係ないか。
「だって、将来の同僚になるかもしれないんですから。それに、」
何もかも狂っている空間でいちばんうつくしい笑みを浮かべた。ここは彼女の独壇場。おれは為す術もなくただそれを眺めるだけ。桃色の形の良い唇が開いて言葉を滔々と紡いだ。
「わたし、あなたのことが好きになってしまったんです」
そう言って白い手がおれの頬をさらりと撫でる。息が詰まる。殺される、と思った。比喩ではなく、彼女の持つ毒針で物理的に殺害されると思ったのだ。フローと同じことになることを覚悟した。覚悟したけれど、目は閉じなかった。
死ぬときは、この世界を最後まで睥睨してやると決めていた。ついでに言い残すことがないように、口も開いておこうと思った。死んだらおしまいなのだ。最後の言葉は悪態か軽口がいい。
「……それは、随分と熱烈だな。殺した後、口付けでもして生き返らせてくれるのかい?」
ぱちくりと少女は目を瞬かせた。その表情が年相応で、おれはその顔が見られたので満足だと思った。そのくらいおれにとっては価値があったのかもしれない。
「どうしてわたしが殺す前提なんです?」
発想が物騒ですね、とおれの前で堂々とフローを殺したフィロは柳眉を下げてわらった。
「だってフィロはおれを殺すためにここへ誘ったんだろ。何せ、おれはまだきみの敵ではないと証明できていないからな」
「……」
フィロはそれに対して何も言わなかった。沈黙は肯定だが、これは肯定でも否定でもないように感じた。否、おれがそう信じたいだけなのかもしれない。この少女がつくる空気がとても心地よかったから。甘いな、とアベルの声が聞こえた気がした。
フィロはすっと笑みを消しておれを真正面から見つめた。翡翠の瞳は冷たいけれど、そこに敵意はなかった。殺意ですらどこにも見えなくて、その方が不気味だった。
「じゃあどうしてカインは怖がらないんですか。あなたからは死に対する恐怖がまるで見えません」
「フィロはおれに恐れ慄いて欲しいのか?」
「……いえ。たぶん、違うと思います……」
初めてフィロは自信を失ったような声を出した。目を伏せて、どこか困惑している様子だった。しばし逡巡しているようだったが、ふっと微笑んでまた顔を上げた。
「でも、これだけは信じてください。わたしは本当にあなたを殺す意図はなかったんですよ、カイン」
するりともう一度フィロはおれの頬を撫でた。白く細い指先がこめかみのあたりから顎のあたりに移動したころ、静かに囁く。
「殺すつもりなら、もうとっくにあなたの息は止まっていたでしょうから。殺されるリスクを背負ってまで長く生かしておくメリットなんてないので」
言い終わるや否や、フィロはそっと離れた。花のような香りだけが残る。
「ねえカイン、アサには狂った人間が沢山います。これでもわたしなんて序の口です。どうです、これでもアサに入りたいと思いますか?」
少女が離れ、詰めていた息をようやく吐きだす。これでも無意識に緊張していたらしい。緊張なんて久しぶりの感覚だな、とやけに呑気なことを考える。いや、現実逃避はいけない。死は常に隣合わせなのだから。この少女がいてもいなくても。
ぱりぱりとかさついた唇を舐めてから口を開いた。
「それは面白そうじゃないか。さぞかし楽しい職場なんだな」
きょとんと少女はまた虚をつかれたような顔をした。一拍置いて少女は笑いだす。
「ふ、ふふ。あなたったら本当に面白い人ね、カイン。狂っているわ」
「それは褒めているのか、貶しているのか」
また同じ会話だ。おれの意図を察したのか少女はにこりと悪戯っぽく笑った。
「それはあなたの想像にお任せします」
あはは、ふふふ。
顔を見合わせておれたちは笑った。少女の屈託ない表情は今までのどんな笑顔よりもきれいだった。
ひとしきり笑った後、少女はゆるりと微笑んで言った。胸に手を当てて、どこか神秘的な表情で。
「わかりました。では、」
――わたくしフィロの名を以て、カインのアサ入隊をここに認めます。
その時ちょうど朝がやってきて、白い光がおれらを包んだ。
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