第37話 明けない夜に

 ――ただし、ひとつ条件があります。


 少女はゆるりと微笑んで囁いた。その笑顔が場違いでちぐはぐだったけれど、それを美しさがすべて覆い隠す。仮面というよりヴェールのようだった。気をつけなければ何もかもが攫われてしまう。気を引き締めて問う。

「……何だ」

「その死体を運んでください」

「は?」

「この死体を持って帰ったら、ボーナスでお給金がもらえるんです。裏切り者には制裁を。それがアサのルールですから」

「フローは裏切ったのか」

「ええ。数か月前に任務の途中で金貨を持ち逃げして、そのまま行方をくらましていたんです。本来であればアサが任務を誰かに与えて彼を殺させるんですけど、彼の殺害は優先順位が低くて後回しにされ続けていた……ほら、命には優先順位があるって言うじゃないですか。それですよ。きっと上層部は彼が何かを成しうる人物ではないと判断したんでしょうね。事実でしたし」

 少女は微笑みを一抹も崩さずに淡々と言った。さながら明日の天気について話すように。やはりすべてがちぐはぐだ。

「なら、きみはどうしてフローを殺したんだ」

 少女は眉尻をそっと下げた。その表情でさえ精巧精緻な人形のようだ。

「彼はわたしの大切なものを盗んでいったんです」

「心か?」

 つい癖で茶化してしまったけれど、彼女はやんわりと笑っただけだった。よかった、殺されなくて。

「ふふ、あなたは面白い人ですね。でも残念、違います。彼が奪って行ったのは、あなたの持つ赤い紐……」

 少女は愛おしそうに微笑んでうっそりと紐を眺める。おれももう一度紐を見る。たしかに細かく編まれて意匠の凝られた作品であることはわかるが、おれにとってはただの紐に相違なかった。宝石でも入っていれば売れたのに。

「これは何なんだ。ただの紐にしか見えないけど」

 目の前に掲げてそっと揺らしてみても、紐は紐のままだった。その先で翡翠の瞳が煌めく。少女はそのまま音もなくゆっくりと近づいてきて、紐をそっと撫でた。ぞっとした。そのまま針を刺されるのかとぱっと手を離して間合いを取る。

「ふふ、そんないきなり殺しはしませんよ。無意味な殺しで罪を重ねたくはありませんし。ただ、」

 少女は愛おしそうに、自分の手首に赤い紐を巻いた。


「ものは時に材料以上の価値を放つんですよ。それを決めるのは個人ですが」


「つまりそれはきみにとって大切なものだったんだな」

「そういうことです」

 満面の笑みで少女はわらった。「では、あなたの大切なものは何ですか?」

 ちらりとアベルの笑みが脳裏をよぎる。しかし彼はものではない。だから首を振った。

「そんなものはないな」

「即答ですか」

「ああ。あったかもしれないけど……すべて捨ててきた。何も持っていないからこれから築きたいのさ。そのためにアサが必要なんだ」

我ながらなんてきれいな売り文句と言う名の嘘だろうと思う。嘘をつくのは得意だった。

「なるほど。少しあなたの言い分が理解できたかもしれませんね。アサに入りたいという割にはあなたから必死さを感じなかったので。ただ、まだ信用に足らないので……態度で示してもらってもいいですか」

「それで死体を運べと」

 少女は頷いた。亜麻色の髪がさらさらと流れて、どこか絵画のようだった。

「どうせ運ばないといけなかったのですが、わたし、重いものは持ちたくないので。それにその死体は特に薄汚れているし。一石二鳥ですね、よろしく頼みましたよ」

 今からおれが持つのにこの言い様か、と少し苦笑いする。でもこの少女のあけすけなところは嫌いじゃなかった。綺麗事で塗りたくられて頼みごとをされるよりはよっぽど。

 おれらはまだ出会ったばかりで、だからおれらに必要なのは会話だった。

「承知」

 舌に馴染んだ返事とともに死体を担ぎ上げる。まだ温かくて少し気持ちが悪かった。フローが気持ち悪いのではなく、色濃く漂う死が気持ち悪い。おれは意識して感情をゆるく断ち切った。正気でいると狂ってしまう。ああ、矛盾しているか。


「では、わたしに着いてきてください」

 少女はくるりと背中を向けて歩き出す。しかしすぐに何かを思いついたように振り返った。亜麻色の髪が月に照らされて銀糸のように煌めく。その下の翡翠の瞳に温度はなかった。

「ああ、わたしを殺そうとしても無駄ですよ。あなたも気づいているでしょうけれど、この会話をわたしの部下が監視しているので。もしわたしを運良く殺せても、あなたは確実にここで骨を埋めることになるでしょうね。市民券もないあなたはここで名実ともに消えます。あなたが存在した証拠もすべて」


 ふと、おれが存在した証拠って何だろうなと思う。ユートピアには悪戯の跡など多少は残っているのだろうが、どうせおれらは死んだことになっている。意味がない。この国におれらの跡は何も残っていない。それこそ何も成しえていないのだ。悪戯ひとつ成しえていない。じゃあ、おれの存在証明は何なんだろうか。


 ――俺らの記憶が、俺らの存在証明なんだ。


 ずっと前、もういつだったか覚えていないくらいの時、アベルがそう言ったのだ。そう、あれはからりとよく晴れた日だった。青空の下で薄汚れた綿のシャツを着たアベルと走り回っていた。息を切らしたおれが「生きているって感じがするな」と口にすると、同じく息を切らしたアベルは「そうだな。忘れたくない」と頷いた。どこか達観した表情に、思わず立ちどまって問い返す。「忘れたくないって?」

 青い空、白い雲の下で爽やかな風が流れる。汗をぐいと拭ったアベルが笑った。風に靡く濡れ羽色の髪、小さな口から覗く白い歯。「だってさ、」

 そうしてアベルはあの言葉を口にしたのだ。まだ短い指で、こめかみをとんとんと叩きながら。


「どうしました、いまさら怖気づきましたか?」

 はっと意識が青い空の下から暗い星空の下、すなわち現実に戻ってくる。顔を上げると少女がゆるりと微笑んで数歩先を歩いていた。

「……はは、怖いはずがないさ。あんまりに都合のいい展開すぎて頭の中で反芻していただけだ。生きている実感が欲しくて」

 少女は怪訝そうな顔をしたけれど、別に詮索してくることはなかった。

「なら、少しわたしとお話をしませんか」

 それは渡りに船だった。今沈黙の中に放り投げられたら、きっとアベルの安否とかこれからのこととか、考えても詮無いことをつらつらと考えてしまうだろうから。

「ああ、喜んで。もっときみのことが知りたい」

「あらあら、ベタな口説き文句ですね。それは可愛い女の子にとっておいてくださいな」

「きみも十分可愛いと思うけれど。きれいというか」

 それは素直な感想だった。少女は今まで見た誰よりも美しかった。

「ふふ、たしかにわたしは可愛くてきれいかもしれないけれど、あいにく恋心もない男に靡くような軽い女ではないの。あなたの瞳には恋慕が一抹も見えない。出直してきなさいな」

 そこでぱんと少女は胸の前で手を合わせた。

「なんて茶番はここでおしまい。それで、あなたの本当の名前は?」

 質問の意図がわからなかった。先程名乗ったのに。

「本当の名前も何も、おれはカインだ」

 また少女は少し驚いたような表情をして、すぐに少し寂しそうに目を伏せた。

「きっとそれは偽名だと思いますが、もしあなたが愚鈍だった場合のためにひとつ忠告させてもらいます。本名は、誰にでも言わない方がいいですよ。特に素性の知れない初対面の人間には」

「そうなのか」

「そうです」

「じゃあどうしてわざわざ本名を訊いたんだ」

 それには答えず、少女はいっとう美しい笑みを浮かべた。その翡翠の瞳にはどこか悪戯っぽい光が宿って、それが少女の美しさに深みと彩りを飾っていた。


「わたしはフィロと申します」


 それが本名かは訊かなかった。意味がないと思ったから。どうせ腹の探り合いになるのは目に見えている。アベルなら嬉々としてこの少女と渡り合ったのだろうが、おれは無駄な労力は割かない主義だ。

「フィロ。いい名だな」

「ありがとうございます。さて、これが本名だと思います?」

「どっちでもいいさ。名前は記号だからな、その人とわかればそれでいい」

「……たしかにそうかもしれませんね」

「そうだって。おれなんかフローには一号と呼ばれていたくらいだし。流石にひどいと思わないか?」

 おどけて大袈裟に嘆いてみせると、フィロはころころと笑った。

「ふふ、やっぱりカインは面白い人ですね」

「それは褒めてるのか、貶してるのか?」

「それはあなたの判断にお任せします。……と言いたいところですが、これでもわたしはカインを褒めているんですよ」

「そりゃよかった。どこが気に入られたのかわからないけれど」

 うーんと少女は顎に手を当てて空を見上げた。翡翠の瞳に月の光が差してきらきらと煌めく。

「そうですね、例えばわたしと話して物怖じしないところでしょうか。わたしと一緒に仕事をした人は、必ず目に恐怖を浮かべたりわたしが怖いと言うので」

「怖い? それはなぜ」

「得体が知れないんですって」

「そうかな。おれは綺麗だとしか思わないけれど」

 フローはきょとんとしておれを見上げた。

「カインは不思議な人ですね」

「はは、フィロには負けるさ」

 悪戯っぽく笑うとフィロは眉を顰めて、どこか呆れたように笑った。そうしていると年相応に見えておれはなんだか嬉しくなった。嬉しい? その言葉が合っているかわからない。アベルならわかったのだろうか。


「ほんと、変なひと」

「最高の褒め言葉だ」


 まだまだ夜は明けない。

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