第36話 蜘蛛の糸
「こんばんは、お嬢さん」
物陰から立ち上がって微笑む。
「――ところで、探し物はこれか?」
月明かりの下、赤い紐を揺らしながら少女の前に緩慢に出て行く。アベルのように少しキザったらしく言ってみたが、たぶん服が煤けているだとか髪がぼさぼさだとかの所為で台無しだろう。それよりも。
「あなたは?」
少女はいきなり攻撃を仕掛けてくるわけでもなく、こてりと首を傾げてこちらを見ていた。
ようやくここで少女と面と向かって対峙する。
正面から見ても、やはり少女は可憐という言葉が似合うようなうつくしい顔をしていた。長い睫毛、整った鼻梁、形の良い桃色の唇。しかしまだどことなくあどけなさが残る。それでもけっして子供ではない。きっと子供と大人の狭間だ。おれらと同じで。
ふうわりと風が吹いて、彼女の亜麻色の髪を揺らしていった。やわらかな絹のような髪が煌びやかに月の下で踊る。
その髪の下に覗くうつくしい翡翠の瞳に滲むのは確かな余裕。そうして薄い花びらのような唇が開いた。おれと同じようにゆっくりと世間話でもするような声音でおれに問うた。さながら、「昨日の夕飯は何だった?」とでも訊ねるように。
「あなたはだれ?」
それはひどく抽象的な問だった。とりあえず名を答える。
「……カイン」
「カインって、どなた?」
それは至極真っ当な質問だった。確かにおれはカインだけれど、名前は記号でそれ以上それ以下でもない。だからおれが誰かという質問の答えにはなっていないのだ。
少女の問いは不気味なまでに冷静で、そしてどこまでも正しかった。
「そうだな、言うなれば……フローの知り合い、かな」
改めて考える。おれは誰だろう。名はカイン。アベルの片割れ。アベルの手足。アベルの、
「ふふ、そこに他の人の名前が浮かんでいてはいけませんよ」
ばっと顔を上げる。上げてしまった。これでは図星みたいではないか。
少女はたおやかに微笑んでいたが、その翡翠の瞳はおれを捉えて離さなかった。月に照らされたかんばせがどこか宗教画のように荘厳で。今宵の美しい月に惹かれるよりもつよく彼女に惹かれてしまう。
ふとその完璧な表情がするりと崩れる。少女が微笑んだのだ。目を伏せ、眉をゆるりと下げ、どこか寂しげに。いっとう美しい顔に惹きつけられて、思わず息を詰めて次の言葉を待つ。ほどなくして少女は言葉を紡いだ。
「だって、その人がいなくなってしまったらあなたは誰になるんですか」
それは的確でとても恐ろしい言葉だった。アベルがいなくなったら。
人はいつか死ぬ。あの最強だと思っていたマスターだって死んでしまった。さっきまで喋って動いていたフローだって死んだ。今この瞬間にも世界のどこかでは誰かが死んでいるのだろう。
畢竟、死んだらおしまいなのだ。
けれどおれの人生には常に隣にアベルがいて、アベルの隣にはおれがいた。どこか勝手に同時に生きて同時に死ぬものだと思っていた。
でも、そんなことは有り得るはずがなかった。おれらは頭脳と手足で生き方を分かつと決めたのだ。それなら死に方が変わるのも至極当然のことで。
おれは、おれらは、それを認識することからずっと逃げていたのかもしれない。
「……その通りかもな。なら、きみはどんな言葉を求めている?」
わからなければ問うまで。このまま噛み合わない会話を続けられるほどおれに余裕はなかった。ポケットに突っ込んだままの右手はナイフを握りしめたまま。油断すれば、やられる。
おれの緊張を知ってか知らでか、少女は歌うように言葉を紡いだ。
「ふふ、とりあえずあなたが敵か味方か――ないしは、あなたがどうありたいかを知りたいですね。それ以外のことは、あなたとお話して知っていけばいいのですから」
「それはアサの敵か味方か、ということか」
「アサを知っているのなら、その解釈で構いません」
お互いにこやかに話しているが少女の瞳は笑っていなかったし、こう見えて一触即発の状態だ。おれが敵だと言ったら少女は躊躇なくおれを消しにかかるだろうし、おれが味方だと言ったら少女はその証拠を提示することを求めるだろう。でもそんな証拠はない。
敵か味方か。
言葉だけでその真実を述べるのは非常に難しいことだった。なのに少女は敢えて言葉にするのが難しい、というか言葉だけでは信用に値しない質問ばかりを問うてくる。つくづく不思議で捉えどころのない少女だ。この先が何も予想ができないことに知らず冷や汗がにじむ。わからないは恐怖だ。
「おれはきみの敵になるつもりはない。証拠にきみにこの赤い紐を返す。でもアサについては名前程度しか知らないし、残念ながらおれはその質問に適切に答えられるとは思えない」
「あなたはアサではないのですか」
少女はどこか驚いた、とでもいうような表情をしている。少女の初めて見せる驚きの表情がまさかこことは思わなかった。
「ああ、そうだが。なぜ?」
今すぐにでも消されるかと右手に力を込めたけれど、少女から漂うのは殺気ではなく困惑だった。すこし拍子抜け。
「フローの知り合いと聞いた上に、あなたからは表社会に生きる白さも感じなかったので。それに気配の消し方が同業者だと思って」
「気配を消すのがほんの少し得意なだけだ」
ユートピアでの生活が脳裏によぎるが、ここで説明するつもりはなかった。
「ほんの少し……それにしてはお上手でしたけれどね。このわたしとしたことが、あなたが隠れていることに気が付かなかったので。アサにスカウトしたいくらいです」
「おれもアサに入れるのか?」
きょとんとフィロは首を傾げた。
「アサは誰にでも入れますよ。アサはいわば表社会で仕事がもらえなかった人の受け皿です。活躍すれば表社会で働くよりもずっと高いお給金がもらえますし。だからアサは古くからこの大国アヴェールに蔓延っているんです。その全容は大きすぎてほとんど誰も把握できていません。でも、そのくらい裏社会で絶大な力を誇っています。ただし辞めることは許されないという規則はありますが」
お給金。金。おれらには金が必要だった。せっかく賭けで稼いだ金はあの爆発でどうなったかわからない。どうせアベルはうまく生き延びているだろうが。
市民券のないおれらにとって、アサはたしかに地獄に降りてきた蜘蛛の糸だ。縋るしかない。そうすればこの少女と争わなくても良くなる。そうだ、それがいい。今は縋るけれど、最後に蜘蛛ごと乗っ取ればいいのだ。
緊張に乾いた唇を軽く舐めて問うた。
「……どうやったらアサに入れる?」
「一般にはアサの一員の招待を受けて、続いて課せられる試験をパスしたら晴れてアサの一員です。たいていの人は試験に落ちますが」
「試験に落ちたらどうなる? もう一度受けられるのか?」
少女はゆっくりと首を振った。ゆるりと微笑んで、
「二度目はありませんよ。口封じのために殺されますから」
「そうか」
自分でも以外なくらいあまり驚かなかった。むしろ、だからアサが今日まで蔓延っているのかと腑に落ちたくらいだ。それよりも。
「じゃあもう一つ質問。市民券も持っていなくても入れるのか?」
「ええ、入れますよ。路地裏に暮らす方々にはそういう人もたくさんいますから。何なら任務で必要となれば幾らでも偽造してくれますよ」
なんて都合のいい話だろうか。これを簡単に鵜呑みにできるほどおめでたい頭をしているわけではなかったが、可能性が見えた。山々の間から覗く朝日を見た時のように胸がすっとした。だからアサと名付けられているのかもしれない。別に仕事内容が汚くても、暗闇の光には相違ない。
「じゃあおれが入りたいと言ったら、きみはおれを招待するのか?」
「ええ。先程の言葉に嘘はありませんよ。ただし、」
――ひとつ条件があります。
そう少女は艶やかに微笑んで静かに囁いた。
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