第35話 月下美人
――本当に、愚か。
そう少女が囁いたのが嚆矢だった。
先に動いたのはフロー。上着のポケットから素早くナイフを取り出し、少女の首元を狙う。それを少女は舞うようにしてあっさりと避けると、くるりと優雅にターンをする。再び体勢を整えたフローが胸元を狙うと、今度はフローの手首を握って微笑み、そしてまた去ってゆく。
フローは必至の形相で隙を突こうとしながらナイフを次々に繰り出す。
――そんなことをすれば、守りが甘くなるのに。
ばかだな、と思いながらおれは静観に徹する。呼吸を風に乗せて気配を消す。
不意に少女がゆるりと微笑んだ。今までとは違う、月のもとでひときわ輝く笑みだ。誰もがその艶やかな笑みに引き付けられる。フローも、おれも。月ですら彼女を愛しているように見えた。
当の少女はというと、そのうつくしい微笑みのまま、がら空きになったフローの首筋に針を刺した。そうしてそっとフローの頬を撫でる。その様はまるで絵画だ。少女の口元がやんわりと微笑みをかたどる。その狂気を孕んだ美しさにぞっとした。
しかしそれも束の間、二人はまた舞に興じる。フローはナイフを振り回し、少女は優雅に舞い狂い。少女のすべての動きがたおやかで、つい見入ってしまう。少女が動くとともに亜麻色の髪が月に照らされて煌めく。
痛みが伴わなかったのか、フローは針に気が付いていないようだった。
フローがナイフを一発振りかぶる。少女に華麗に避けられる。二発目。少女の髪の毛を掠っておしまい。三発目は勢いが足りずに少女まで届かない。
そこでひとつ異変が。
「は?」
フローの無意味な母音とも吐息ともつかない声と共に、きんと音を立ててナイフが地面に転がった。それを呆然と見つめるフロー。何が起こったかわからないのか、フローは呆けた顔で静止している。
それも一瞬のことだった。すぐにフローはぐるんと白目を剝いたかと思うと、どさりと崩れ落ちた。まだ死んではいない。意識も失っていない。けれどほとんど死んでいた。
目を開けて、口を開けながら、時折体をびくびくと痙攣させている。口の端から泡が零れた。瞳孔が開いている。ああ、針に塗ってあったのは神経毒か。
「ふふ、喜んでくださいまし。今回あなたの体内を巡っている毒は、どんな大きな動物でも死に至らしめる、新作の毒なんです」
だから、と少女は続ける。
「あなたは死にます、フロー」
それは断定の死刑宣告だった。少女の透明なかんばせは銀色の月に照らされていっそ神々しい。気を付けないと吸い込まれそう。どこか妖しげなうつくしさがあった。
「お加減いかが?」
少女の言葉とともに地面に視線を落とす。
床に頽れて痙攣していたフローは、もう動いていなかった。もしかしたら微弱に脈があるのかもしれないが、もうぴくりともしないし、呼吸音も聞こえない。誰がどう見ても死んでいると答えるような、模範的な死体だ。
――これは、なんだ? 何が起こった?
あまりに呆気なくて感情がついていかない。夢でも見ているようだった。なるほど、人はこんなにも簡単に死ぬんだ。さっきまでおれと会話していたというのに。
「……ああ、もう聞こえていませんね。失礼いたしました」
そういって少女は胸に手を当て、フローの亡骸に一礼した。殺しに対しての謝罪なのか、何に対しての謝罪なのかはよくわからない。
少女は手を拭って、どこから取り出したのか真っ黒の手袋をはめた。月の銀光を受けて鈍く光沢を放っているから、革製なのかもしれない。
そしてがさごそとフローの上着をまさぐる。ナイフやら金貨やらを取り出しては地面に無造作に置いている。きっと探し物は件の赤い鎖なのだろう。おれが今手にしている、フローに巻き付けられた赤い紐。
――そう、少女の前に出て行くなら今だ。フローが死んだ今、働き先のなくなったおれらはまた路頭に迷うことになる。物理的にあの酒場もなくなってしまったし。アサと関わりを持つなら今だ。きっとアベルだってそう言うはずだ。
――でも、本当に? フローは死んだんだ。
――いや、少女の動きの癖は大体見切ったからすぐに殺されることはないだろう。
――でも、少女が手加減しているだけなら?
――さて、アベルならどうする?
しかし今この瞬間に考えて動くのはおれだ。おれのことはおれがいちばん良くわかっていなければならない。
おれの視線の先で、少女はぞんざいにフローの死体を転がした。そのままごろんとうつ伏せにすると、また新たにポケットをまさぐり始める。しかしお目当てのものは見つからないようだ。当たり前だ、それはおれの手の中にあるのだから。
おれはうっすらと笑みを浮かべた。
そして、風に合わせて立ち上がり、ゆらりと姿を少女の前に現す。敵意を見せないように、ゆっくりと、友好的な姿勢を見せつけながら。
「こんばんは、お嬢さん」
ばっと少女が警戒心をあらわに振り返った。針を投げてくる気配はない。まだ、いける。大丈夫、この距離なら避けれる。
「――ところでお探しのものはこれか?」
赤い紐を揺らしながら言葉を放り投げた。お得意の、にこやかな笑みを浮かべながら。
はてさて、これが吉とでるか、凶とでるか。
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