第34話 夜の秘め事
初めて会った日のように、おれはフローの小柄な背中を追いかける。別に何の感傷もないけれど。
たっ、たっ、たっ。
路地裏を駆ける足音は一人分。フローの足音だ。この数日で石畳に慣れ、おれは足音を消すことを習得した。全力疾走ならともかく、フローを追いかけるくらいなら造作ない。悪戯常習犯のおれらは気配を消すことに殊更慣れていた。
おれがもういないと思っていたのか、前方を走っていたフローはこちらを振り返って目を丸くした。
「げ、一号、まだいたのかよ」
おれがいちゃ悪いかよ、なんて意地の悪い顔で笑ってやろうと思った。悪戯が成功した時のような笑み。
しかしそれは、鋭い殺気に霧散してしまった。突然降って来た、氷のように細く冷たい恐ろしく無機質で濃密な殺気。
今までにこんな殺意を浴びたことはなく、身体が硬直した。
本能がぐわんぐわんと警鐘を鳴らす。ぴりりと肌がぞわつく。体が無意識に気配を消そうとし、そして呼吸を最低限に抑える。感覚という感覚が研ぎ澄まされ、生へと動きだす。
おれは本能の赴くまま、路地裏のあちらこちらに点在する物陰に隠れた。比較的大きな物陰。静止し、息をさらに詰めて殺す。瞬きの音にでさえ気を配る。ここにおれという人間が存在しないように振る舞う。
もはやフローに撒かれるなんてどうでもよかった。
それよりも問題はこの殺気だ。どんどん近づいてくる。どこだ、誰がこんな殺気を。……アサか? でも酒場にこんな殺気を放つ奴はいなかった。それなら。
とん。とん。とん。
それは、どんな足音よりも軽い音だった。フローの足音ではない。フローはもう立ちどまっていた。では、誰の足音だ。
おれの疑問に応えるように、路地裏に澄んだ声が響きわたった。
「お久しぶりです、フロー」
物陰から息を殺して覗くと、そこには月光に照らされた一人の少女がいた。
長い睫毛に縁どられた、宝石さながらの翡翠の瞳。胸の下あたりまでの柔らかな亜麻色の髪は、月の加減で絹の織物のように流れている。
少女が身に纏うのは、華美すぎず、地味すぎないフリルブラウス。その胸元には黒色のリボン。同じく黒色のスカートは膝上で上品にはためいている。そこからすらりと伸びる白いほっそりとした足、上品な白い靴下に黒い靴。
一歩、また一歩。そうやって少女はゆっくりと歩いてフローの元へ近づいた。ふわり。ここまで届くはずがないのに、花のような香りが漂った気がした。
「月がきれいな今宵、あなたに会えて嬉しく思います。さて、少しお話をしましょうか」
こんな可憐な美しい少女に誘われたら老若男女問わず喜んで頷くところだが、フローは表情を固くして後ずさった。それをみて少女は口元に手をやり上品に微笑む。まるで貴族の令嬢さながらの仕草。
「ふふ、怖がらないでくださいまし。正直に答えたら痛い思いをせずにすむのですから」
「ど、どうせおいらを殺すんだろ」
「さあ。どう思います?」
そういって少女はくすくすと鈴のような笑いを洩らした。たおやかで、花のように可憐。けれどその瞳に甘やかな感情は浮かんでいなかった。氷のように冷たく、鋭く、フローを貫いて離さない。
「『アサは任務の内容を口外しない』、それが掟です。かつてアサの一員だったあなたならわかるでしょう? フロー」
そうか、フローはアサの一員か。別段驚きはしないけれど。
ということは、少女もアサ。後ろ暗い集団ときいていたためをもっと野蛮かつ強面な人間の集団をイメージしていたので、こちらは少し驚いた。そりゃ偏見だろとアベルが脳裏で笑った。
貴族令嬢さながらの美しい少女はしとやかに一歩フローに近づいた。フローは一歩下がるが、その後ろは壁だ。もう動けない。月明りでもわかるくらいにがたがたとその唇がわなないていて、いっそ哀れだ。
ふ、と風にのせてやんわりと微笑んだ少女はゆるりと手のひらを空に向ける。亜麻色の髪がさらさらと流れる。その仕草ですら気品が漂っていた。
「あら、アサを裏切ったあなたは、もう掟さえも忘れてしまったんですか?」
一歩、また少女が近づく。壁を背にしたフローまで、あと五歩程度の距離。じわりじわりと追い詰めるように少女は歩いていた。
そして、風が止む。一切の音が消える。動いているのは震えるフローの体躯のみ。おれも息を詰める。動くな、物音を立てるな、空気に溶け込め。
そんなぴんと張り詰めた糸のような緊張感が漂う中、囁くようにして少女が問う。「じゃあ、この質問に答えてください」
「――あの日盗んだ赤の鎖をどこへ?」
もしかして。脊髄に冷たいものが流れたような気がして、咄嗟に視線だけを動かして自分の手首を診る。
そこに鎮座しているのは、先日フローに勝手にまかれた赤い紐だ。よく見ると、細かに編み込まれて鎖のように見えなくもない。脳内で警鐘が鳴る。危険、危険、危険。随分と厄介事に巻き込まれたのかもしれない。紐を置いて逃げるか。でも、今のこのこと動くのは得策ではない。風が静かすぎる。
「し、知らねーよ。おいらは持っていない」
フローの上ずった声で意識が現実に戻ってくる。フローの言葉は予想通りだったのか、少女の表情は全く変わらなかった。
「へえ、あなたの失踪と共に消え去ったんですけど、それでも知らないんですか?」
「だから知らねーって。というか、あの赤い紐に何があるってんだよ」
きゅうと少女の翡翠の瞳が細められた。まるで獲物を目の前にした蛇のよう。なのに可憐さが同居していてつくづく不思議な少女だと思った。
「あら、わたしは『赤い鎖』と言いました。赤い鎖が実は紐だということを知っているのは重役か、任務に携わったことのある者か――あるいは盗んだことがある者です」
ひくりとフローの小鼻が痙攣する。嘘がバレた時の仕草だ。それを見て少女は満足気に頷く。
「決まりですね」
少女はまた一歩フローに近づいた。あと三歩、手を伸ばせば届く距離。
「正直、あなた程度の裏切りは組織にとって痛くも痒くもありません。だからすぐに殺しの命令がでなかった。でも、あの赤い鎖を持ち逃げしたのは失態でしたね。そもそもアサを裏切ったことが、」
――本当に、愚か。
そう少女が囁いたのが嚆矢だった。
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