第29話 机上のアサ
「そのアサってのを知りたい」
路地裏で見た血塗られた惨劇。あれを引き起こしたのはアサだと、フローはそう言った。ここではアレだから後で話すとも言っていた。
それが今だろう。おれが催促すると、フローはなるほどなと頷いてぽつりぽつりと話し始めた。
「アサ。あれは金さえ積まれれば何でもする、水面下で動く組織としては最大の集団さ。どれくらいの規模なのかはおいらも知らない。アサはこの国のどこにでも現れる。けれどその存在を知る者はごく一部。色々謎めいているけど、まあやってることは何でも屋だな。金を積んで依頼されたことをこなすのがアサの仕事だ。どんくらいの金が動いているのかは知らないがな、依頼料に見合っていれば人殺しだって厭わない。ほら、あんたらだって見ただろ?」
おれらの脳裏に路地裏の血飛沫を思い出す。びしゃりとどす黒い液体が飛び散って……あーあ、嫌なものを思い出した。せっかくクリームパスタが美味しかったのに。
「『見たものは生かしておかない』なんて襲われなくてよかったな。死体が増えるところだった」
そう言ってアベルが不謹慎にからからと笑った。やめろよ、とフローは眉をしかめる。きっとアベルの想像している死体はアサの人間で、フローの想像している死体はおれらなのだろう。
「二号、さすがに笑えねーって。まあ、何もなければアサに関わることはないさ。アサが表社会に出てくることはねーからな。真っ当に生きていればアサなんて知ることも出会うこともない」
「フローは真っ当じゃないんだ?」
アベルがによによと笑いながら揚げ足を取る。これはアベルの得意分野だ。ユートピアにいたころからアベルは人を煽るのが得意だった。
一方フローは何を思ったのか、不敵に笑って「そうさ」と返した。
「それはあんたらも同じだろ、一号、二号」
その呼び方は嫌いだった。手首に巻かれた赤い紐が視界の隅で存在を主張していて舌打ちしたくなる。まあ、カインとアベルという名だって本名ではないかもしれないけれど。
それなら名前って何なんだろう。
識別するためだけなら、別に一号でもいい気がする。カインという名に拘る必要もない。名前が変わってもおれはおれだろう。名前に自我が宿るわけではないのだから。
でもフローのいう一号はきらいだった。本能が忌避したがっている。
「じゃあアサを避けるにはどうすればいいんだ、フロー」
アベルの声に意識が現実に戻ってくる。そう、名前なんてどうでもいい。今は情報を引き出すことに専念しろ。
「んー、まあそうだな、普通にしていれば避けられるさ。恨みを買わないようにして静かに過ごせばまあ出会わないだろうよ。ま、関わるとすればアサに殺される時か借金をする時だな」
「借金?」
「そうさ、アサは金貸しの真似事もしているからな。路地裏の違法な金貸しに借りるよりはよっぽど利子がいいんだ。おまけいマトモな市民券もいらねーし」
それの何が問題なんだ。おれが問うよりも先にフローが口を開いた。
「ただしアサに借金を踏み倒した奴はもれなく死んでいる。おいらの知り合いも十人は死んだな。だから別名掃除屋とも呼ばれているのさ。さっきのもお掃除だろうな」
くれぐれもかかわるんじゃねぇぞ、なんてフローは最後に念を押した。
「なるほどな。フローは関わったことがあるのか?」
途端にフローは口元を強張らせた。わかりやすい。
「いいや、ない」
煙水晶の瞳に不安がにじむ。それは関わりがあると言っているようなものだ。そうでなければアサについて断言を交えながら詳細を説明できるはずがないのだから。
しかしおれらは問い返さなかった。アサについての情報を得るという目的においては意味がないのだから。フローに何かあっても、彼を切り捨てればいいだけの話だ。
そもそもこの情報が本当かどうかもわからないのだから。ただテーブルについて教えてもらっただけの情報。もう少しこの目で見てみないと真偽はわからない。
そんなことを考えていると、「最後にもう一つ」とフローはやけに意味ありげに切り出した。煙水晶の瞳が鋭くおれらを捉える。
「――アサはおいらたちの敵さ。借金なんてしなくてもな」
それはどういう意味だ、おいらたちって誰だ。そうおれらが訊き返す前に、横槍が入った。
「おーい、食い終わったなら働けよー。なんだっけ、皿洗いの得意な一号と二号?」
振り返ると、厨房にいたであろう男がエプロンをつけたまま悪戯っぽく微笑んでいた。
茶髪で陽気な空気を纏っている、どこにでもいそうな好青年だ。年はおれらより少し上といったところか。
「それはなぜ?」
アベルが端的に問うと、エプロン男は呆れたように溜息を吐いた。全てがどこか大仰な仕草だ。
「おいおい、少年。働かず者食うべからずって言葉知ってるかい? フローに連れてこられた男は働くって決まってるんだよ。どうせ、金がねーんだろ?」
「そうそう、こいつらほんとの一文無しだから賭けもできやしないさ。あんたの元で働かせてやってくれ」
いつのまにか頼んでいたらしい酒を呑みながらフローは言った。
「フローは働かないのか?」
「おいらは働かないがモットーだからな」
そう言ってフローはウインクをしてみせるが、元から目が細いのであまり違いはわからなかった。
「ほらほら働け、皿洗いマン」
悪戯っぽく笑いながら言うフローにアベルは珍しく苦笑した。ここまで揶揄の対象になるとは思っていなかった、とその顔に書いてあっておれも苦笑した。
「あんたら、本当に同じ顔だな」
酒で顔を赤くしたフローはからからと笑った。楽しそうでなにより。
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