第28話 食がいちばん

「はいよ、パスタ三人前。今日はクリームパスタさ」

 目の前にはほかほかと湯気を立てるクリームパスタなる食べ物が鎮座している。こんなものは食べたことがなかった。パスタという単語は知っているし、書物でも見たことがあるが実物にお目にかかるのは初めてだった。

「いただきます」

 アベルと同時にいつもの言葉を口ずさむと、フローは怪訝そうな顔をした。

「なんだそれ、呪文か?」

 そうか、これはユートピアだけの習慣だったのか。ここではあそこの常識は通用しない。

「いいや、特に意味はないさ」

 吐き捨てて、フォークを手にして麺を一本口に入れる。味に変なところはない。むしろ美味しい。困ったな、美味しすぎる。


 柔らかすぎず硬すぎない麺。それをまろやかなクリームソースが飾り立てて絶妙な味わいを醸し出している。クリームは蕩けるようになめらかで、そこにチーズが絡みつく。これが最後の晩餐になってもいい――は流石に言い過ぎだけど、かなり美味しい。だれがどうやって作ったかもわからないけれど。


 噛みすぎるくらいに噛んで、違和感がないことを確かめてから飲み込む。つるりとした麺の感触。特に異変なし。アベルはまだ食べていない。フローはすでに大口をあけてパスタを頬張っている。

「小っせぇ口だなおい。皿洗いが得意といい、女みてえ」

 フローはパスタを咀嚼しながら器用に笑った。それよりも口に入ったまま喋るから聞き取りづらい。すこし苛々する。感情に任せて意味のない言葉を吐きだそうとする前に、アベルが先に口を開いた。

「その、女みたいってのはどういう意味だ。皿洗いは女っぽいのか?」

「はあ? 皿洗いは女の仕事だろ」

 ふうん、とアベルは曖昧な相槌を打った。

「男とか女とか、いろいろ面倒だねえ。ま、俺らが皿洗いが得意なのは事実だけどさ」

「ははっ、傑作。ママにいびられてたのか? さぞかしこわーいママだったんだろうな」

「……いや、母親はいないさ。ずっと昔から」

 目を伏せ、どこか寂しそうに言うアベルは名演者だ。小さい頃に母に捨てられ、過去を懐かしむ男の役。おれらは自分たちの感情に嘘を吐くのが得意だった。昔から。

「……そうか。悪かったな」

 フローが眉を下げて申し訳なさそうに言うので、おれは心の中で笑ってしまいそうだった。

 そう、おれは落胆したのだ。この小柄な男はユートピアの大人たちとは違うと思っていたけれど、同じだった。結局おれらの悪戯の対象に成り下がってしまう。ああつまらない。

 男のおれらが女らしいことをすると笑ったのに、親がいないと言うと同情する。そこに何の違いがあるのだろうか。

 おれらにとって意味のわからないことだらけだ。当たり前は当たり前じゃなかったのか、なんて至極当たり前のことを思った。


 パスタを一口食べてみたけれど、身体にも思考にも何ら影響がない。このぶんだと恐らく毒やら薬品やらは大丈夫だろう。きっとアベルの言葉のお陰で良くも悪くも舐められているだろうから、尚更だ。

「あー美味いな、本当に美味い」

 なんてパスタを口に入れながらにこやかに笑う。半分は本音、半分はアベルにパスタが大丈夫だということを伝えるためだったが、気まずい空気が一気に吹き飛んで一石二鳥だ。

 しんみりした空気は嫌いだった。理由はわからないけれど、魂とやらが拒絶するくらいには嫌いだ。

 そもそもおれらは両親がいないことに哀しみを覚えたことなんて一度もない。これまでも、これからも、一生。哀しいとも思っていないことに勝手に同情されるのは嫌いだった。同情は自分より弱い者にするものだから。

「はは、いい食べっぷりだな」

 そう言いながらアベルもパスタを頬張る。おれも二口目を頬張る。食べなければ生きていけない。久しぶりにまともな食事にありつけた気がする。枯渇しかかっていた栄養が生き渡るようで、しばし夢中になってパスタにがっついた。やはり食事がいちばんだ。

 ――何もしなくても食事があったユートピアは、もしかしたら悪くはなかったのかもしれない。

 なんて思ってみたけれど、今更だ。


 パスタを絡めとる。口に入れる。咀嚼する。飲み込む。美味しい。それで十分じゃないか。


 ♢


「万物に感謝を、ご馳走様でした」

 口を拭って顔を上げると、いつの間にか酒場の空気がおれらが入る前と同じになっていた。今や誰もおれらのことなんか見ていない。少しほっとする。同じく食べ終わっていたアベルは少しつまらなさそうにしていたが。思わず問うてしまう。

「アベル、何が不服なんだ」

「いや、さっきは視線が気持ちよかったのになあと思って」

「は?」

 アベルですら理解の範疇を超えてくる。アベルがどんどん遠くなっていくみたいで、でもそれが普通かともう一人の自分が言う。おれらは同じだったけど、同じではない。考えていることはもうわからない。

「おいそこ、なーにコソコソ話してんだよ」

 蚊帳の外にされたフローが些か不機嫌そうに問うてきた。

「いいや、何も? ……それより、あー、なんだっけ」

「アサ」

 アベルがおれの思考を読み取ったみたいに教えてくれる。さすが『頭脳』。

「そうそれ。そのアサってのを知りたい」


 ようやくここまで話が戻って来た。

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