第27話 熱気と怪物
ちりん。
フローが飯屋だという建物の扉を開けると、鈴の音と同時に喧騒がなだれ込んできた。室内は思ったより広くて薄暗い。そこに大人たちがわんさかたむろしている。ものすごい熱気。誰もが酒を呑んでいて、テーブルによっては金貨やら銀貨が積まれている。肉やらパンやら、名前のわからない料理もたんまりと置いてあって、誰もが大声で笑い、貪り食い、しこたまに飲んでいる。
ちりんと鳴った鈴のささやかな音なんて、この喧騒には蚊の鳴く声よりも矮小なものだ。誰も聞いちゃいなかった。
最初におれらに気が付いたのは金貨を数えながらひとりで呑んでいた男だった。
「おお、フローやっと来たか!」
まだ日の高い時間だというのにべろんべろんに酔った男がビールを持ちながらフローに手を振る。
「まーた呑んでんのか、おっさん」
そう言いながらフローはするりするりと人混みをかき分けてその男の元へと行く。顔見知りばかりらしく、何人もの男やら女がフローに声を掛けたり、酔っ払い特有の機嫌の良さでハイタッチなんかをしている。ユートピアにも酒はあったが、ここまで酔う人はいなかったため新鮮だ。
けっしてユートピアの人が酒に強かったという訳ではない。ただ酒も御多分に洩れず配給制だっただけだ。あそこでは贅沢なんて許されていなかった。おれらは酒を呑むことがなかったから、その制度に対して何とも思わなかったけれど。酒を呑む年まであそこにいれば反発したのだろうか、なんて詮無いことを考える。
「フローおんめえ、来る時と来ない時の波が激しいんだからよう。どっかでくたばっちまったと思ったぜ。いっつもふらふらしてるし」
がはは、と男は豪快に笑って酒を呷る。髭の伸びた、いかにも屈強な男だった。男が笑うたびに酒臭さが広がる。この男の武力をつい考えてしまうのは悪い癖だ。今なら余裕で勝てると思うが、素面の時なら果たして。アベルと視線を交わす。
――逃げるならおれらから注意が逸れている今だが、どうする。
――飯食ってからでいいんじゃね。
――でも、
――どうせ罠だったとしてもこれくらいの人数だったらいけるだろ、カイン?
はあ。らんらんと好奇を瞳に浮かべたアベルに溜息を吐いた。己らの力を少し過信しすぎていやしないか。もしこの場が罠だったら。この客たちがすべて敵だったら。
でも、どうしよう。何とかなってしまう気がする。
この片割れといたら何の根拠もない自信が湧いてきてしまうのだ。油断は命取りだとマスターに言葉と力で教わってきたというのに。
しかし幸か不幸かそれは事実だった。
今までおれらに不可能はなかった。おれらは運も良かったし、たぶん、要領だって他の人間に比べれば優れていたのだろう。おれらが本気を出せば何事も成功してきた。だから今ここにいる。
「おっ、フローお前また新しい男を連れてきたのか」
男の言葉にばっと周囲の視線がおれらに集まった。見世物のようで少し居心地が悪い。また、とはどういうことだろうか。疑問と警戒を抱きながらおれらは姿勢を正して佇む。ここで視線を下げたら負けだ。
前を向け。胸を張れ。世界を睥睨しろ。
それで殴られたなら重畳、相手がおれらを恐れたということだから。
「そうさ、こいつらは今日からこの店で働く新入り。金がないんだとよ」
「へぇ……なんだ、綺麗な顔をしてるじゃねえか。しかも双子か? どっちがどっちなんだか」
じろじろと舐めるような視線が鬱陶しい。
「わかんねーからおいらがわかりやすくしといたさ。腕に赤い紐をつけた奴が一号で、つけてない方が二号さ」
「ぬかりねーな、フローは」
「だろ?」
おれらの目の前でおれらの話がされている。というのに、その言葉が理解できなかった。正確には言葉に含まれた意味が。おれらの聞いている言葉と、フローらの話している言葉には齟齬があるような気がした。悪意未満の何かが滲んでいると本能が告げるが、それをおれはうまく言語化できない。アベルは何を感じて何を考えているのだろうか。
ユートピアを出てからこの方、わからないことばかりだ。
「んで、おまえらは何ができる?」
中年くらいの、無精髭の生えた男がじっとこちらを見ていた。フローと同じ、煙水晶の瞳。彫りの深い顔が無表情におれらを睥睨する。名前も知らなければ話した事もない男。初めての会話がこれだった。会話というより詰問だったかもしれない。
「何が、とは」
乾いた唇を舐めて問い返す。問い返す、というのは武器だった。ユートピアにいた頃から問い返して何度も勝ちを掴み取って来た。問う側は答える側よりも有利だった。先導権を持っているから。
無意識に人は上下をつくりだす。だから、おれらは常に勝ち続けなければならなかった。
「言葉通りさ。おまえらの利用価値は?」
一筋縄ではいかないみたいだ。はじめて会った男の言葉にぞっとした。おれらには、何ができるのだろう。これは試験だ。試されている。ここで売り込まなければならないのだろうけれど、塩梅がわからない。手札を見せるべきか、見せないべきか。疑われないように、でも舐められすぎないように。
考えろ、考えろ、考えろ。
視線は鋭く突き刺さりそうだ。誰もがおれらの一挙動を注視している。あたらしい異物を見極めようとしている。
「そうだなあ、皿洗いならできるけど」
ぴんと張り詰めた空気の中で、アベルはどこか場違いにのんびりと言った。
次の瞬間には、アベルの言葉にどっと周囲で笑いが沸き起こる。げらげらと大声で。この場にいる誰もが笑っていた。それが、おれには何一つ理解できなかった。アベルがどうしてああ言ったのか、なぜそれに対して周囲が笑ったのか。
「なんだよ、それ。女かよ」
ひー、面白いと言いながら名前も知らない若者が笑っている。周りも似たような反応で笑っている。みんな同じように笑っている。その異様さにおれは再びぞっとした。だって、何も面白くないのだから。
「あんたら、最高だな!」
フローも笑っている。ただでさえ細い目をさらに細くして、引き攣るようにして笑っている。
「はは、面白れぇ。二号だったか? 気に入ったぜ」
おれらに問うた男ですら笑っている。恐ろしく見えた煙水晶の瞳はもう瞼に隠されて見えない。恐ろしい? 否、真新しいものに驚いただけだ。恐ろしいはずがない。そうして自分を洗脳してゆく。
アベルはというと、周りに溶け込むようににこにこ微笑んでいたが、全く笑っていなかった。それが貼り付けた笑みだとおれはわかっていた。
「おい、お前も笑っておけ」
アベルがおれの腰をつつきながら囁いたのでおれも微笑む。アベルと寸分たがわぬ笑みで。そうすれば相手が無意識におれらを恐れることを知っている。
いい加減、この茶番に付き合うのは飽きたので、未だに笑い転げているフローに声をかける。
「なあフロー、腹が減った。いい加減何か食べたいんだけど」
頼み事はしない。それがおれらの流儀。フローは特に気にした様子もなく、手を挙げた。
「そうだったな、一号。おーい、パスタ三人前!」
尚もげらげら笑いながら厨房に向かって叫ぶ。へーい、とかなり遠くから返事が聞こえてきて、このフロアが思っていた以上に広いことがわかった。
熱気も喧騒もぐるぐると渦巻いていて、まるで別世界みたい。
「怪物みたいだな」
アベルが囁いて、おれは頷いた。飲み込まれないようにポケットの中のナイフの感触を確かめる。冷たい。すうと火照りが溶けていく。
おれはカインだ。一号じゃない。
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