第30話 銀貨五枚
フローと出会ってから数日が過ぎた。
おれらは毎日毎日同じルーティンを繰り返していた。
朝、フローの貸してくれた部屋で起きる。食事を取る。適当にフローの手伝いをして昼食を取る。街をふらふらと歩いて、陽が傾いてきたら酒場で皿洗い。賄いをもらいつつも雑用をこなす。部屋に戻って、寝る。
♢
じゃぶじゃぶと音を立てて水と泡が流れてゆく。皿洗いだ。
ユートピアとは違い、水道がきちんと整備されていて快適だなと思う。ユートピアにも水道はあったが、あまり使い勝手が良くなく口を開けば節約の嵐だった。悪戯の罰としてよく水汲みに活かされていたっけ。ああ、嫌なことを思いだした。
「何を考えてる?」
顔を上げると、アベルがによによとこちらを見ていた。まったく、おれの顔でそんな顔をしないでもらいたい。
「いや、何も? ただ、これだけで金が稼げていくのかなと」
おれらはまだ文字通り一文無しだった。そもそも金についてもほとんど知らなかった。フローに教わってようやく金の種類を覚えたところである。
金貨、銀貨、銅貨、それから紙幣。銅貨十枚で銀貨一枚。銀貨十枚で金貨一枚。銅貨一枚でカチカチのパンが買えるくらい。金貨一枚あれば三日は生きていけるだろう、それくらいの価値だ。紙幣は硬貨よりも価値が低い上にもろいからあまり使われていないらしい。
一刻も早く金貨を手に入れたいところだが、アベルはにべもなく言い放つ。
「無理だな。この皿洗いはただの食事代だから。あと部屋代か? とにかく、稼ぐにはもっと苦しい労働をするか、危険なことをするかしないとダメだろうな」
「たとえば?」
「賭け事とか」
アベルは囁いて、悪戯っぽく笑った。屈託のない笑み。賭け事。あまり聞き覚えのない言葉に、その意味を思い出すのに少し時間がかかった。
「そんなの、どこでするんだよ」
この街の地図すら頭に入っていないのだ。この酒場とフローの縄張りしかわからない。
「あそこさ」
泡の纏わりついた手で、金貨やら銀貨やらがたんまり積まれたテーブルを指さす。それでようやく合点した。あれは賭け事のテーブルだったのだ。ただカードゲームに興じているだけではなかったらしい。
ちょうど勝負がついたようで、わあと周りが沸きたつ。片方が頭を抱えている傍らで、満面の笑みを浮かべた男がテーブルの金貨を自分の方へと吸収していく。なるほど、あれが賭け事。
「でも、賭け事って金がいるんだろ?」
「それは今から借りるさ。ほらいいタイミングでやって来た」
アベルの視線の先にいたのはフローだった。
「おーい、ちゃんと働いているかー?」
暗がりでもはっきりとわかるほどに酒で顔を赤くしたフローが、それでもジョッキ片手に厨房へとやって来た。大方冷やかしにきたのだろう。
「ああ、もちろん」
アベルがにこやかに笑った。この片割れ、表情のつくりかたが上手いのだ。傍から見ると天使のような、おれから見ると悪魔のような笑みを浮かべている。
「なあ、フロー。銀貨五枚を貸してくれ」
「はあ?」
アベルの突拍子もない言葉に、予想通りフローは意味のない母音を漏らした。可哀想に。
♢
金がなければ何も出来ない。
それはユートピアにいたころから知識として知っていて、ユートピアを出た今痛感していることだった。食糧を買うにも、服を買うにも、宿を取るにも、全て金がいる。ユートピアでは暮らしているだけで勝手に与えられたもの。それにすべて金銭的価値が生じるのだ。不思議。
「価値の物差しを人が人のために決めているのさ。言わば価値の数値化だな。だから人にも格差がつくんだ」
とある晩の食事中、アベルがくるくるとカトラリーを回しながら言った。ユートピアでは決して許されなかった行為だが、今それを咎めるものはいない。それよりもそのカトラリーにどれほどの価値があるのか気になってしまう。
「じゃあ、その物差しは誰が決めるんだよ。人は誰しも同じではないんだろ? なら、皆が同じ物差しを持っているとは限らないだろ」
そう問うとアベルはカトラリーで宙を指して、
「集団さ」
琥珀の瞳をきろりと動かして言った。
「集団が、『普通』を決めるのさ。金の価値も、俺等の価値も、全て。でも、誰かが一方的に決めた『平等』という物差しよりはよほど健全だと思うけどな」
「多数決の原理か」
「そうさ。その代わりマイノリティーは排斥されるけどな」
「排斥されるのが嫌なら力でってことか」
「その通り」
だからおれらは『肉体』と『手足』に別れたのだ。それが正しかったのかは、ずっとわからないままだけれど。最後には解が与えられるのだろうか。最後って何だ。
――死? おれらが、死ぬ?
「まあ、だから俺は金が欲しいんだ」
アベルの淡々とした声に思考が遮られ、意識が現実へと戻って来る。そんなおれに気がついているのか気がついていないのか、アベルは言葉を続けた。
「金は力だからな」
「ちから」
ぼんやりと復唱する。あの金属に殺傷能力があるとは思えなかった。ナイフのほうがよっぽど強そう。
「そう、力さ。ここは金があればなんでも罷り通る社会なんだ。罪だって金を払えば赦されるらしいぜ」
「神様が泣いてるな。人間たちが勝手に価値をつけたもので罪を払拭されるなんて」
かわいそうに、なんて一抹も憐れみを覚えずおれらは笑った。不謹慎。神様なんて少しも信じていないのに。
ごくんとスープの最後の一滴を飲み干す。
「万物に感謝を。ご馳走様でした」
とうの昔に形骸化した挨拶を唱えて、記憶はそこで途切れている。
♢
「いや、あんた何言ってんだ。銀貨?」
フローの声で意識が現実へと戻ってきた。
だば、だば、だば。
目の前で勢いよく水が流れている。慌てて止める。いや、ここはユートピアなんだから罰なんてないのか。
「だから、フロー。銀貨五枚を貸してくれ」
アベルがもう一度言った。
「いきなりなんだよ」
フローは胡乱げな視線を送る。さもありなん、働きに出した男が急に金を要求してきたら警戒するのは当然だ。
「銀貨五枚を貸してくれたら十倍、金貨五枚にして返すから」
「そんなことできるのかよ。市民券もないあんたらに? 言っとくがおいらは手助けしないぜ。ここで稼げる金なんてないし」
「ああもちろん」
その自信はどこから、とフローの顔面に書いてある。しかし何かを思いついたのか、破顔して言った。何とも感情がわかりやすい。
「まあいいや、それなら契約書を書いてもらおう」
「契約書?」
「そんなんも知らねえのか? これだから貧乏者は……」
なんてぶつくさ言いながらフローはそこら辺の壁に貼られているチラシを一枚剝がした。突然のフローの奇行におれらは些かぎょっとしたが、フローは全く気にした素振りを見せなかった。石造りの壁を見る。べりべりと、糊のついていたところだけ紙が残っていて無様だった。
「ほら見てなって」
チラシの裏は案の定白紙だった。そこにフローはどこからか取り出した黒鉛で何かを書き始めた。
内容を要約するとフローは銀貨五枚を貸すが、明日までに金貨五枚を返せなければ明後日までに十倍にして返すこと。その翌日は百倍にして返すこと。そして小さな文字で、それも返済ができない場合は奴隷になるといったことが書かれている。
――うわ、えげつないな。
アベルと視線を交わして会話する。この小柄な身体にどれだけの狡猾さが秘められているのだろうか。やはり年齢不詳だ。
そういえば、文字が読める。
ユートピアと使われている言語が同じなのだ。文字も話し言葉も訛りまでほぼ同じ。ということは、ユートピアは本当に新しい集落なのだ。言語の変化がないのだから。そして、この国を出た者たちの集まりとみて相違ないだろう。
「これでいいな?」
フローが汚い字で書かれた契約書を見せてくる。ところどころ黒鉛が滲んでいてあまり読む気になれないような契約書。こういうのは消えない黒インクで書くべきだろうに。
「おれらは文字が読めない。何て書いてあるか教えてくれ」
アベルは困ったように眉を下げてしゃあしゃあと言ってのける。その演技力におれは舌を巻く。本当に文字の読めない、無知で哀れな青年に見える。
「まったく、あんたらどうやって生きていくつもりだったんだ。いいか、一度だけ読んでやる。その一、──」
そうしてフローは奴隷の下りは読まなかったなとアベル視線で会話する。これは面白い。指摘したらどうなるだろうか。なんて思っていると、アベルが口を開いた。
「それで委細構わない。それじゃあ銀貨五枚を」
「あいよ。ただし契約は絶対だ。破るなよ」
ちゃり、とアベルの代わりに受け取った銀貨は思ったよりもずっと軽かった。薄汚れた五枚の銀貨。人体よりも軽いのに、どれほどの価値が秘められているのだろうか。
価値は人がつくるものなんだと、改めて思った。
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