第32話 すべて爆発
「少し、用を足してくる」
酒場に纏わりつく熱気を振り払うように、あくまで穏やかに言葉を置いて席を立つ。そう、賭け事でアベルは『頭脳』としての役割を十二分に果たした。テーブルの上の金貨が証明している。だから、おれもそろそろいい加減に『手足』のお仕事をしなければならない。
「いってらっしゃーい」
アベルはおよそ人畜無害な笑顔をおれに向けて、手をひらひらと振った。同じ顔で同じように降り返して、おれは振り返らずに歩く。夜になったからだろうか、人が最初に入った時よりも増えている。どんちゃん、どんちゃん。大音量の音楽の中でたくさんの人が呑む、歌う、叫ぶ、笑う。
かたん、かたん。
喧騒の中、おれは敢えて足音を立てて歩く。所々木の床が軋んできいと声を上げた。少し楽しい。壁は石造りだったけれど、床には木板が張ってあるようだ。所々汚れているし老朽化が進んでいる。
一人、二人、三人。
賑やかな音楽に紛れておれを尾行してくる足音が少なくとも三人分。溜息を堪えながらホールを抜け、
曲がり角に入った瞬間、おれは音をたてずに足を止める。
「お、おっと」
まさか立ちどまっているとは思わなかったのか、男たちがおれにぶつかりそうになってたたらを踏んでいた。情けない。
「こんばんはーお兄さん。おれに何か用か?」
笑みを浮かべながら、それでもつとめて感情を落とした声で問う。別に怖かったからではない。面倒だからだ。最低限の力で生きるのがモットー。
尾行していた男らは驚いた様子だったが、すぐに気を取り直したようだ。
「おいガキ、てめえ、イカサマしたろ?」
はて、イカサマとは……と考えて、目の前の男らが先程のゲームのテーブルの傍に控えていたことを思いだした。アベルが完敗させた男の部下というところか。大層なことで。
「イカサマなんてしないさ。その思考回路があるってことは、あんたらがイカサマをしていたってことじゃないのか? 墓穴を掘らないうちにお口を閉じたほうがいいぜ」
笑みは崩さず、ゆったりと答える。煽り方はアベルから存分に学んでいる。
「こんのクソガキ……」
とたんに目の前の男が怒りをあらわにする。でも殴りかかっては来ない。さすがにマインドコントロールは心得ているというところか。
「そっか。じゃあ用がないなら、おれはこれで」
そうしてわざと男らの間をすり抜けようとする。もちろんこれで終わりだとは微塵も思っていない。大切なのは正当防衛の理由をつくること。こういった争いは、先に手を出した方が負けなのだ。
チャキリ。
刃物の音が耳元で鳴る。やっと来たか。どうせ言葉による応酬は期待できないのだから、手っ取り早くて助かる。おれはアベルほど口が回るわけではないし、彼等にもそういう頭脳はなさそうだ。なら、純粋な暴力のほうがねじ伏せやすい。どうせなら高効率なほうがいいのだ。
ああ、だからあの男は暴力ばかりだったのかと今更ながらに思う。思い出したくもないし、マスターとも呼びたくない男。
過去を振り払っておれは微笑む。
「さあ始めよう。そちらが先に手を出したのだから」
そこからは、たくさんのことが一度に起こった。世界が息を止めてしまったように、ゆるやかに時が刻まれてゆく。
まず一つ、男共が一斉におれに襲い掛かって来た。手始めにナイフが飛んでくるのを視界に入れる。
次に二つ、フローが血相を変えて叫びながら駆け込んできた。「おい、逃げろ」
最後に三つ、轟音が鳴り響いて足場が崩れた。何かが大きく爆発したらしい。熱風とともにごおごおと音を立てて炎が迫りくる。悲鳴、鈍い音、ガラスが割れる音。
ばーん。
二回目のつんざく轟音を聞いたのを最後に、何も聞こえなくなった。おれの世界から音が消える。
何が起こったのか、何もわからない。見当もつかない。さっきまで誰もが呑み食い、歌い騒ぎ、賭けに興じていた。騒がしいけれど平和な光景だった。なのに、何故。
先程の轟音で耳は使いものにならなくなった。けれど幸い視界も身体も無事だ。ならば動け。死にたくなければ止まるな。アベルはどうしたのだろうか。わからない。何もわからない。でも戻っている場合ではない。後ろで炎が躍りながら襲い来る。戻っても、立ちどまっても死ぬ。
おれは、まだ死にたくない。
おれは、楽しいことをまだ何も知らない。路上で転んだ少年ですら享受していた無償の愛というものを、おれはまだ知らない。
おれが知っているのは殴られた時の痛み、這いつくばった時の泥の味、理不尽、硬いパン、味のないスープ。それから、ああ、でもあのクリームパスタは美味しかったな。ならばもっとおおくのことを知りたい。美味しい食べ物も、お金持ちの幸福も、すべてを知りたい。
だからおれは死にたくない。
――死んでも生き延びろ。
死んだら無理だろ、なんて現実逃避にも似たことを考えながら過去に想いを馳せる。ユートピアで訓練をしていたころのことだ。あそこでは、待っていたら死ぬだけだった。死にたくないから訓練をした。死にたくないから当番をした。生きたいからアベルと悪戯をした。生きたいからアベルとユートピアを出てきた。
ごうごうと耳元で何かが渦巻く。ぎゅるりと本能が動いて、おれの足を前に出す。
煙の充満する視界で必死にフローの背中を追った。たぶんあの狡猾な男がいちばん生に近い。狡猾なのは生きることに一生懸命な証だった。おれの中では褒め言葉。でも、だからこそ彼はおれの味方にはならないだろうという確信があった。
だからこの場で最も信じられた。
走って、走って、走って。小柄な身体を活かしているのか、フローはやけにすばしっこかった。煙の所為か咳がでる。息が苦しい。でも、もっと苦しい時があったから頑張れる。足を動かせ、腕を振れ、外に出ろ。
意識が薄くなってきたのとは正反対に煙が薄くなっていった。
「そと、」
最後の石造りの扉を転がるようにして出る。ああ、ようやく新鮮な空気が吸えた。
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