第15話 路地裏での遭遇

 真っ暗な路地裏を歩く。

 細い路地はガス灯とやらの光もほとんど入らず、濃密な闇の溜まり場となっていた。当たり前だが人の往来は全くない。視線を落とす。黒ずんだ石畳に何とも名状しがたい色の水が溜まっていて汚臭を放っている。街にそこはかとなく漂う腐臭はこれか、と俄かに合点するような臭い。ユートピアで散々飲まされた泥の方がよっぽどいい香りだった。

「暗いな」

 うんざりしたような声を出したアベルの足どりは少し覚束ない。仕方なくおれが先導していく。アベルはおれの足跡を踏めばいい。それが手足の役目だから。それがカインの役目だから。

「アベル、どこへ向かえばいい?」

 鍛えているおれも流石にいい加減歩き疲れてきた。一日歩き続け、緊張を味わい、もう夜も更けているのだ。これ以上進んで行き止まりだったらおしまいだな、なんて暗い思考が頭の片隅を掠める。いけない。思ったよりも疲弊しているのかもしれない。

「さあな」

 思いのほか息切れ一つしていないアベルがぽつりと言葉を置いた。いや、それじゃ困るのだけれど。おれは頭脳のアベルを頼りにするしかないのだから。

 おれの思考を読んだのか、アベルはだって、と口を開く。

「ここの地理なんてわかるはずがないだろ?」

 飄々とのたまうアベルに、今日は野宿確定だなとおれは覚悟を決めた。まあ泥を啜る明日に鬱屈とした感情を抱かずに済むだけマシかもしれない。それより腹が減った。

「空腹」

「一日くらい食べなくても人は死なないさ」

「鬼畜」

「はは、カインも同じことを考えているくせに」

「鳥肌」

 今度こそアベルはけらけらと笑った。


 そんな具合に軽口を叩きながら歩いていると、

「おい、見ねぇ顔だな、新入りか?」

 下品なダミ声が頭上から降ってきた。ああ面倒なことになったと本能が知らせる。

「うわ、面倒くせ」

 アベルは実際に口に出している。その一言が今の状況をプラスにすることはないとわかった上での発言。アベルはどこか厄介事を愉しむきらいがあった。おれも退屈よりはマシだと思っているので人のことは言えないのだけれど。そうでなければおれらはとっくに仲違いしている。

「あ? 何だって? 小さすぎて聞こえねえなあ」

 下卑た笑いがあちらこちらから聞こえてきて、相手が一人でないことを悟った。声を出している者だけで最低四人いることがわかる。せっかく有利な立場にあるのだから、笑い声を出して相手に人数を知らせるのは愚かだと思わないのだろうか。


「耳悪いなおっさん。俺は面倒くせ、と言ったんだ」

 アベルが少しだけ声を張って言う。また火に油を注いで、と『手足』のおれは内心頭を抱えるが、時すでに遅し。家の外壁と思しき塀のようなところに座っていた男はどさりと飛び降りてきた。この男はかなりガタイが良く、着地の際にそれなりの振動が足に伝わる。

「重たそうだな」 

 アベルの煽りにも似た呟きを耳に入れながら静かに男を観察する。


 一言で表すと、大男。背も高ければ横幅も大きい。筋肉質というよりかは贅肉がついているだけのようにも見える。

 しかし下品なダミ声や粗雑な仕草の割に、服は思いのほか上質だ。服にまつわる知識を呼び起こす。男の着ている服は白いブラウスに黒のジャケット、スラックス。とにかく清潔感を保っていて、男の脂の乗った顔となんともアンバランスな様相を呈している。でっぷり肥えた腹にブラウスのボタンが窮屈そうだ。


「へえ、よく見ると綺麗な顔してんじゃねえか」

 がらがらの声と下品な笑みが醜悪で吐き気さえ覚える。こんな汚い顔の男に綺麗だと褒められてもうれしくない。なのに、

「ふうん、どうもありがとう。あんたは汚い顔だもんな」

 アベルが煽るように満面の笑みで言った。琥珀の瞳が朝日に照らされた蜂蜜のように爛々と輝いている。アベルは人の感情の動きを見るのを好んでいた。水を得た魚とはこのことだろう。馬鹿、と嗜めるようにアベルを見るがもう手遅れ。

 予想通り、目の前の大男はこめかみに青筋を立てていた。絵にかいたように血管が浮き出ていてまじまじと観察してしまった。当然だが、これは相当に怒っている。厳しい外見の所為でこんなに煽られることは滅多にないのだろう。ユートピアで培われたアベルの息を吐くような煽りに堪えられるはずがない。


 おれはポケットの下でユートピアから拝借してきたナイフを握りしめた。この人二人が並ぶのがやっとの狭い路地裏で戦えるかは知らないけれど。全く、煽るのはアベルでそれをなんとか躱すのがカインなんて割に合わない。まあこの役割も嫌いじゃないんだけど。むしろ鬱憤を晴らせるし。畢竟おれはアベルのかたわれなのだ。


 ちっ。

 大男はこれまた大きな舌打ちをしたかと思うと、地を這うような声を出した。

「てめぇ……痛い目に遭いたくなければついてこい。たっぷり可愛がってやんよ」

 なんて拳を握りしめて舌なめずりをしている。唾液がてらてらとして不潔に見えるからやめてほしい。周りにいた三人が追従するように笑う。ひひひ、とさぞ下品に。貴族やら上流階級の暮らしの知らないおれでも軽蔑したくなるくらいだ。服だけは大男と同じで上質なブラウスと黒のスラックスなのだけれど。


「へえ。じゃあ、そのありがたーいお誘いを断ったら?」

 アベルがどこか退屈そうに問う。男らの行動はアベルの予想の域を超えなかったのだろう。だから退屈。

 一方男らにとってはアベルの反応が予想外だったのか、下卑た笑みが一瞬止む。

「てめえらにそんな選択肢はねえよ」

 どんと背中に衝撃。いつの間に背後を取られていたのか、前に進むように背中を押された。否、背後を取られたのは知っていた。命の危険がありそうならいつでもやれるくらいには構えていたので大した驚きはない。それはアベルも同じだったようで、かんばせに滲む余裕は怯えなんて感情からは程遠い。

 ちゃきりと耳元で金属が鳴る。短剣だ。視界に映る切っ先は少し錆びていて、切れ味は悪そうに見える。それをおれらの首元にあてがって男らは少し溜飲を下げたらしい。

「さっさと歩け」

 ばかだな、とおれは思ったし、アベルの顔にもそう書いてあった。この程度で優越感に浸れるなんて愚かだと思った。この程度、おれらならいつでも返り討ちにできるのに。

 でも、だからこそついていく価値がある。

 だって食糧と寝床にありつけるかもしれないのだ。相手が愚かであればあるほど、奪うのは簡単になる。


 ――そうだろ、アベル?

 ――ああ、楽しみだな。


 アベルと琥珀の瞳を一瞬交わせば相談は終わり。首元に短剣を突きつけられたおれらは密かにわくわくしながら男共について行った。これはツイてる。

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