第16話 弱肉強食
「入れ」
大男らに半ば蹴飛ばされるようにしておれらは石造りの建物に入った。蝋燭に照らされた無造作な室内が浮かび上がる。視界に入るのはハムやら果物やらで散らかったテーブル、乱雑に置かれた椅子、引き出しが中途半端に開いたチェスト。それから昔は家具だったと思しきガラクタ。少し埃っぽい。書物で読んだ、ごろつきの集まるアジトといった様相を呈している。あ、その通りなのか。
ぱち、ぱちぱち。ぱちち、ぱち。
拍手とは違う何とも独特な音の方を見ると、石造りの暖炉で炎が爆ぜていた。暖炉だ。ユートピアでは大広間にしかなかった設備。そういえば、ここは外より随分と温かかった。しかしそれくらいしかいいところが見つからない。外よりは幾分かマシだが、清潔感は皆無だった。
「へえ、いい部屋だな」
アベルがどこか茶化すように言う。その言葉が本心でないのは誰の目にも明白で、それは男共にも通じたようだった。短気なのかすぐさま彼等はいきり立つ。自分たちの縄張りに入ったから余裕が出たのだろうか、おれらを蹴飛ばした小太りの男が唾を飛ばしながら、
「黙れよ、ガキ」
アベルを殴ろうとする。その様がやけにスローモーションのように見えた。
――男の太く短い指がゆっくりと握りしめられて。
この太った男が怒りを暴力で解決するタイプなのは火を見るよりも明らかだった。まるで暴力を代表したような醜悪な顔がそれを物語っている。
――丸太のような太い腕を後ろに振りかぶって。
この部屋に俺らを連行したのもそのためだろう。暴力は人目につかないところで。皮肉にもユートピアで学んだことの一つだ。だから別段驚きはしなかった。
はあ。アベルの溜息が聞こえ、世界は元の速さを取り戻した。
ぶん。風を切って拳が飛ぶ。でもなんてことない、マスターの拳より弱くて遅い拳。重心の使い方が下手。
「あぶねー」
なんてふざけながらアベルが難なく避けるので、勢い余った拳が危うくおれに当たりそうになった。
「おい。避けるくらいなら殴り返せばよかったのに」
おれはアベルに文句を言った。ぶん。二発目が一歩下がったおれの目の前を横切って、アベルの頭蓋を狙う。ばかだな。そんなとこ、避けられるに決まっているだろうに。また拳がくる。今度はおれの方。だから無駄だって。
「こんのクソガキ!」
加勢した別の男と二人がかりで殴ってきたが、狙いがぶれぶれだ。避けるまでもなかった。隣から飛んできた蹴りと同時に軽くいなして三歩下がる。また男が加勢する。これで三対二。誰かが蹴飛ばしたのか、テーブルがひっくり返った。真っ赤な林檎が転がる。ごろんごろん。それを悠長に見ている暇もなく、 あちらこちらからやってくる拳を避けて、蹴りを避けて。
それを何度か繰り返した頃、とん、とアベルの背とぶつかった。これも予定通り。耳元で息一つ切らしていないアベルが口を開く。
「――殴り返す? それじゃあ意味がないんだよ、カイン」
アベルはおれにしか聞こえないくらいの声量で、驚くほど冷静に囁いた。何やら怒号と拳が飛び交う部屋であまりにもアンバランスだ。でも、おれはカインの思惑を何となく察した。口をつぐんでアベルのしたいようにさせる。
すうと、背中越しにアベルが静かに息を吸う気配がした。
「待ってください。大人が寄ってたかって俺らみたいな子供に手を出すなんて……卑怯だと思いませんか?」
そう口にしたアベルは、両手を上にあげて降参のポーズを取っている。貴方たちを害するつもりはなかった。でも怖かったので仕方なく抵抗してしまった。子供なので。なんて塩梅に。
そうして、「あくまで人畜無害です」とでも言わんばかりの雰囲気を醸し出す。
畢竟、人は誰しも演者なのだ。だから誰にでもなれる。マスターはそれを否定していたけれど。何だっけ、人は同じではないんだっけ。その意味ももう少し問うておけばよかったような気もするが、あいにくとあのマスターはもういない。
それはそうと、いきなり殊勝な態度を取りはじめたアベルに男たちの動きがぴたりと止まった。まるでぜんまいの回転が止まった人形のように。
そりゃあそうだろうなとおれは男たちに同情する。先程まで散々煽ってきた生意気な子供が急にいたいけになるなんて、どんなバカでも警戒の一つや二つするだろう。
「あん? なんだって?」
聞こえねえなあと、警戒しながらも男共は下卑た笑みを浮かべた。それが習慣であるというように。醜い笑みにほんの少しだけ憐憫を覚えた。
「ですから、怖いんですって。俺たちは何もしていないのに。はやく家に帰してください」
アベルのどこか歪な演技を聞きながら、ふと、家とは何だろうなと思った。もちろん知識としては知っている。寝床。住処。そこを人は家と呼ぶのだ。生憎ユートピアには家という概念がなかったけれど。だから家族というものも存在しなかったのかもしれない。
なんて考えている間に話は進んだようで、アベルが鼻でせせら笑うのが背中越しに伝わってきた。
「ねぇ、お兄さんたち、取引をしませんか。拳でお話するのはまた後にしましょう。俺らは人間なんですから。お兄さんたちは賢そうなので、知性ある生き物としてお話がしたくって」
きっとアベルは悪魔のような笑みを浮かべているんだろうなと思った。おれにはわかる、これは完全に煽りだ。大して言葉を交わすこともなく、短絡的に手を出した男たちの知性を嘲笑っているのだ。
この煽りに気がつけるかということも含めてアベルは男たちを試していた。
「取引? そんなのに俺たちが応じると思ってるのか、ガキ」
案の定、男たちは誰も気づいていないらしい。生意気だった少年が急に敬語を使い始めたことに対する優越感に浸っているだけ。馬鹿だな、とおれでさえ思う。
「ぎゃはは、帰ってママのおっぱいでも吸ってろ」
なんて唾を飛ばしながら下品に笑うのみ。完全に自分が優位に立ったと勘違いしている。まあ男たちからすると、自分たちのテリトリーにいる上に人数差でも有利、おまけに相手は子供。体格差でも一歩リードしている。油断するのも無理もない。それでも目の前にいる子供の力量を見極められないのは愚かだ。
きっとアベルだって同じことを思っているのだろう。ゆっくりと俯いたアベルは、ふっと呼吸にも似た笑いをこぼした。
「じゃあ、交渉決裂だな」
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