第2章 バック・アレイ

第13話 平等から外れて

 歩いて、歩いて、ようやくユートピアを囲うように広がっていた森を抜ける。

その頃にはもうすっかり日が暮れており、空には美しい夕焼けが果てしなく広がっていた。茜色から群青へのグラデーションがまるで絵に描いた宝石のようで。吸い込まれるようにおれらは空を見上げる。

 空はこの世界にひとつしか存在しない。だからこの空だってユートピアから見たものと同じはずだ。なのに、ここの空はやけに鮮やかでうつくしく見える。


「カイン、あそこに見えるのが俺らの目当ての国だ」

 アベルの声に風のざわめきが一瞬収まった。すうと息を吸ってアベルは言葉をおく。

「――あれが、大国アヴェール」

 アベルの言葉に視線を落とすと、けざやかな空の下に建物群が見えた。建物というか、一枚の大きな壁のようなものが遠く彼方まで広がっている。先は見えない。なるほど、これが大国。

「あ、人だ」

 思わず声を洩らした。目を凝らすとその一か所に門が取り付けられているのが見えて、ここからでも数人の往来が確認できる。随分と遠いため人影は豆粒以下にしか見えないけれど。でも、あの動きは確かに人だ。

「ここから見えるのか?」

 アベルが胡乱な視線をよこす。アベルにはあの人影が見えていないらしい。


 ――ああ、おれらはもう同じではないんだ。


 その事実を改めて思い知らされる。アベルは蝋燭の照らすほの暗い部屋で書物を読み耽っていて、その間おれは遠距離の的を撃ち、獲物に伴う空気を読む訓練をしていたのだ。差ができるのは当たり前。

でも、こんな感傷は無意味だ。なんの腹の足しにならない。だからすべての感情を呑み込んで情報を舌に載せる。

「ああ。ざっと見て三人、その近くには馬車。全員壁の中へと向かっている」

 ふうん、とアベルは声を洩らして顎に手を当てた。聡い頭で何かを考えているのかもしれない。


 さて、あそこへどう入るのだろうか。こんなどろどろでよれよれの恰好出てていけば誰何されること間違いなしだ。そうでなければあんな大きな壁なんて造るはずがないので。

「アベル、これからの作戦は?」

 なんとはなしに叢にしゃがんで、辺りの様子を伺いながら問う。困った時は頭脳に訊けばいいのだ。そのためにおれらは生きる道を別にしたのだから。その役割どおり、アベルは即答した。

「荷物になって誰かに運んでもらう」

 アベルの言葉には明らかに説明が欠けていた。荷物になるとはどういうことか。運んでくれる誰かというのは誰か。運んでもらってどこに行くのか。

 しかしきっとアベルの中では綿密な計画が練られているのだろう。ならばおれはそれに従うのみ。盲従は危険だけれど、おれが信じられるのはアベルだけだった。彼を信じられなければ何も信じられないかもしれない。まあそれはさすがに大袈裟か。


「ほらカイン、見ろ。あの馬車がちょうどいいはずだ」

 アベルが叢から指さした先にあったのは、一台の停車中の馬車だった。大小さまざまな木箱が積まれた幌馬車。運転手は休憩中なのか近くの切り株に腰掛けて干し肉を食べていた。近くに人がいないと思っているのか、たいそう油断している様子だ。なんともありがたい話である。

「……あれに乗るのか?」

 半信半疑で問うと、アベルすぐに頷いた。

「書物によると、アヴェールの城門をくぐるには市民権やら身分証がいる。壁があり門があるんだから、十中八九それは正しいだろう。しかしあいにく俺たちにはそんなものはない」

 だから、とアベルは声のトーンを落として続ける。

「俺らは身分証の要らない荷物として入るんだ。物には人権もなければ身分証もいらないからな。一度入りさえすればあとは俺らの力量で何とかなるだろう」

 そんな簡単に上手くいくのだろうか。しかしアベルがあまりに自信満々に言うのでおれは従うしかない。というか、いくら確率が低くてもおれらは成功させなければ生きていけないのだ。もしくはこのままこの鬱屈とした森で暮らすか。ありえない。おれらがいくら強いからといって、あまりにも非現実的だ。それこそ御伽話レベルの。

 おれらには前に進むしか道が残されていなかった。


 おれらは物音一つ立てずに馬車に乗り込む。皮肉なことにこれも訓練の賜物である。

 足音を立てない、衣擦れの音を極限まで減らす、気配を消す。

 この三拍子を風に揺られる草木の音に乗せればもう完璧だった。おれらの重みで馬車は少し軋んだが、運転手にも馬にも気付いた素振りはない。なんとも間抜けなものだ。間抜けで助かった。


 がたり、がたり。


 しばらくしないうちに馬車は動き出した。ときおり石を踏んでがたがた揺れたりと、乗り心地は最悪だが文句は言えない。

 幌馬車の中は見事に光が遮られて真っ暗闇だった。片割れの琥珀の瞳しか見えない。それから――甘い香り? 数多くある木箱から甘い芳香が漂っている。

「お、林檎だ」

 アベルが早々に木箱の一つを開けて中を物色していた。目を凝らすと、暗闇に慣れてきた視界でアベルが林檎を握りしめているのが見える。あろうことか彼はそのままそれを口元に持っていこうとしていた。

「おい、大丈夫なのか」

 おれが声をかけるのとアベルが齧るのが同時だった。しゃくり。馬車ががたがた揺れる合間にみずみずしい音が響いた。「うまい」

 それを聞いたおれの腹がぐうと鳴った。もうすぐ日が暮れるというのに、今日一日ユートピアでちょろまかしてきた硬いパン一つしか食べていないのだ。まだおよそ十代半ばでおそらく絶賛成長期のおれは異様なまでに腹が減っていた。相変わらず正確な年齢はわからないけれど。

 しゃくり。

アベルがもう一口林檎をかじる。囁くような軽快な音、漂う甘い芳香。もう我慢できなかった。おれもアベルのように木箱から林檎を取り出し、迷わずかぶりつく。

 途端、じゅわりと口いっぱいに広がる果汁。それからみずみずしく爽やかに香る甘さ。

 ただただ、とんでもなく美味しかった。飢えた腹にいたく染み渡る。


 ユートピアでは食べるものも時間もすべて制限されていたので、こうやって自由に食物を口にするのは新鮮だった。行動の自由。こうやって罪を犯してもマスターに罰されることはない。

「なるほど、これが自由か」

 意図せず心のうちが声に出ていたらしい。アベルが暗闇の中ではっと風のように笑った。

「大袈裟だな。俺らの目指す未来なら、林檎なんて百個も千個も簡単に手に入るだろうよ」

 それはずいぶんと遠い未来のように思えた。貨幣経済の仕組みすら朧気な自分が、本当に大金持ちとやらになれるのだろうか。昨日まで泥水を啜っていたくらいだ、不可能と思っても仕方ないだろう。

 けれど、だからこそ望みがあるのかもしれない。それにアベルといれば不可能なんてあるはずがないのだから。現に、ありえないと思っていたユートピアからの亡命も果たしているのだ。


 ともあれ、と言葉を続けるアベルに堂々巡りの思考は遮られた。

「享受できるものはできるうちに享受すべきだ、たんと食うぞ」

 まさにその通りだと思った。返事の代わりに林檎を齧る。豊潤な香りがおれの脳内で弾けて麻薬のように作用する。

 じゅわり、じゅわり。これはやめられない。


 そうしておれらは計五個の林檎を消費したのだった。御者には申し訳ないが、世界は不平等なのだ。あのユートピアと違って。ああ、ユートピアも平等ではなかったか。平等なんて所詮幻想だ。人間はみんな違うのだから。アベルによると、多様性の獲得により人類は繁栄してきたらしい。ならば平等を目指すのは本来おかしいのだ。だからユートピアには退化こそあれど、進化はなかった。


 なぜ今まで誰も気づかなかったんだろう。

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