第12話 さようなら

 世界はいつだって突然である。それが世界の理。

 片割れのアベルも御多分に洩れず、いつも突然だった。彼は予想調和という錆びたレールからあまりに足を踏み外しすぎている。踏み外すも何も、初めから掠りもしていないのだろう。

 おれはアベルのそういうところが好きだった。


 アベルが緩慢に口を開く。いつもと同じ、他愛ない世間話をする調子で。いつもと同じ、あどけなさを残すまろい笑顔で。そうして災厄にも近い突然は今日もおれに降り注ぐのだ。

 ほら、こんなふうに。


「なあカイン。ユートピアを出よう」


 ユートピアを出る。それはあまりにも目から鱗だった。

「……気でも触れたか」

 はは、とアベルは黄金のバターがじゅわりと蕩けるような笑みを浮かべた。

「お前だって考えたことあるくせに。なあ、カイン?」

 腹立たしいことにそれは図星だった。勝ち誇ったような琥珀の瞳を前にして言い返すことができない。

 そう、ユートピアからの脱出は何度も考えたことがある。訓練で地面に這いつくばった時、折檻されている時、朝夢から醒める時。何度もユートピアを呪った。『ここから出たら』、なんて理想を何度夢見たことか。


 けれど脱出なんて夢のまた夢だと思っていた。夢にも思わなかった。お伽話と同じくらい現実離れしていたものが、今くっきりと輪郭を持って目と鼻の先に顕現する。大きすぎて手に負えない。

「ユートピアを出るって……そんなの可能なのか」

 可能と知っていれば、とっくの昔に脱出していたのに。そして他にも脱出者が何人も出ていただろう。そんなの知らない。


 アベルはにやりといたずらっぽい笑みを浮かべた。やけに自信満々に、どこか傲慢に。そしてそれらをすべて収斂させて静かに言葉を置く。

「俺たちは捨て子なんだ。ここで生まれたんじゃなくて、『捨て子』なんだ。その意味がわかるか」

 ユートピアで生まれた者に親という概念はない。生みの親より育ての親とでもいうように、交代でいろんな親に平等に育てられる。しかし彼等をわざわざ『捨て子』とは呼ばない。なのに、カインとアベルは捨て子だと告げられている。それが意味することは一つだった。

「別のところから、ここに捨てられた……」

「その通り」

 アベルがにんまりと笑った。

「人が幼子を抱いて移動できる距離に、他の集落がある。そう俺は仮定した。それから文献を漁って調べ、地図を見て、この近く――半日歩いて行ける距離に町があることがわかった。古い歴史のある町だ」

 おれが訓練で泥水を啜っている間に、優秀な片割れはそこまで調べていたらしい。やはり『頭脳』はアベルに任せて良かったと思った。それとも、実際におれが『頭脳』ならもう少し頭を働かせていたのだろうか。ああ、こんなたらればは無意味。


「……ここを出てどうするんだ、アベル」

 とはいえ、外の世界を知らない自分たちがここを出て生きられるとは到底思わない。だからこそ思ってもいなかったのだ。しかしアベルの返事はひどく簡潔なものだった。

「その町で暮らすんだ」

 どこまでも現実離れしたことを、さも簡単なことのように言う。まるで五歳児が事の重要さをわかっていないような、そんな危うい無邪気ささえも孕んでいた。

「そんなことができるのか」

「できるさ。町には多くの人が暮らしている。こことは比べ物にならないくらいの、沢山の人間が。だから新しく二人紛れても誰も気づきやしない」

 そんな都合のいい話があるものか、と頭痛さえ覚える。ありえない。

 けれど、『頭脳』のアベルが言うなら大丈夫なのだろう。『手足』は『頭脳』の指示を仰ぐのみ。そうしておれらはお互いに補い合って生きていくべきだ。それがきっとマスターの言いたかったことだから。


「……計画は?」

 端的に問うと、アベルは一層声を落として話し始めた。

「朝、日の出と同時に出発する。起床の鐘が鳴る前は誰も起きていない。起きていても精々数人、そこが抜け時だ。必要最低限の物を持ってCルートを通り、ユートピアの外れまで行けば、森に出る。その森を抜けたら一つの町があるんだ。移民が多く、人種のごった煮の比較的大きな街だ。そこまでいけば俺らの勝ち」

 アベルの言葉は簡略化されたものだったが、きっと彼の頭には綿密なルートが描かれているのだろう。そしてその後の暮らしについても。だってアベルは『頭脳』なのだから。

「わかった。おれはアベルについて行くさ。ピッキングやら脱出の技術は任せてくれ。それが『手足』の役割だからな、完璧に演じるさ」

 そう言うと満足げにアベルは琥珀の目を細めた。蜂蜜が蕩けて滲むような、艶やかな瞳。普通の環境にいればさぞかしモテただろうなと思う。そも普通って何なんだ。おれらは何も知らない。

「ああ、任された。そして任せた、カイン。俺たちはここを出て、幸せに生きるんだ。舞台はハッピーエンドじゃなきゃな」

 アベルは幼稚だけれど、おれらはそれしか幸せという形を知らなかった。物知りなアベルですらそう言うのだ。きっとそれが幸せなんだろう。幸せ、しあわせ、幸福。そう信じるしかない。

 少なくとも、ここに残って犬死にするよりは幸せだ。

「もちろん。その為におれらは生きている」

 存在価値が無いのなら、自分で価値をつけたらいいのだ。


 Q.何故生きるのか。

 A.幸せに生きるため。


「完璧な答えじゃないか」

 からからと、二人でわらった。この災厄のような片割れといれば何でもできる気がした。生きるために生きる。それで十分。

 アベルがいるなら、カインがいるなら。この世の全てがたのしいのだから。

「おやすみ、アベル」

「おやすみ、カイン」

 幸せな夢を、と言ったのはどちらだったか。ここはどこまでも息がしやすかった。


 ♢


 思い立ったが吉日。

 翌日の未明、おれらはユートピアから逃亡した。


 月を映していた窓をこじ開け、必要最低限の食糧を盗み、足跡一つ残さず完璧に。あんなに牢獄だと思っていた宿舎は、アベルの頭脳とカインの肉体にとっては取るに足らないものだった。

 脱走者の先例がないのだ。警備という警備すらないユートピアからの脱出は存外容易かった。それに未練だってすこしもなかったし。

そうしておれらは風の吹き込んでくる窓から勢いよく飛び出した。いつもと同じ風なのに心地よく感じる。振り返ろうとも思わなかった。



 建物を離れて、木の生い茂る森へと足を踏み入れた。さくりさくりと緑の香りが鼻腔を擽る。それから濃密な土の香り。ユートピアにありそうでなかった、自由という自由があちこちにちりばめられていた。

 さくりさくり。さくりさくり。

 道なき道をおれらは歩いた。歩いて、歩いて、時折足跡を消して。皮肉なことに、これも訓練の賜物だった。二人ぶんの足音だってやがて風にたゆむ草木の音に掻き消える。蝋燭ひとつない森は濃密な闇を抱えていた。暗くて、気配もなくて、だんだん自分の輪郭が薄れる感覚が湧き上がってくる。それに身を任せるのはさぞ気持ちの良いことだろうなと思った。

「なあ、カイン」

アベルの声に意識が一本の糸へと編まれる。

「これが現実だと思うか?」

 暗闇ではアベルの表情はおろか、いつもの爛々と輝く琥珀の瞳も見えなかった。人体は発光しない。いくら輝く宝石のような瞳でも、光のないところではみな等しく陰になるのだ。

「そうだな、現実さ」

 ばかだなとおれは思う。そんなの、疑うまでもないのに。

「だってアベルの手があたたかいから」

 濃密な闇の中ではぐれないように繋がれた右手は、きちんと片割れの体温を感じていた。同じ手の体温。それがあるというのに、どうしてこれが現実でないというのだろうか。

「はっ、くせえ台詞」

「……くそ。アベルが言わせたんだろ」

 腹いせに力の限り手を握ってやった。お返しに握りつぶされそうになって勝敗は引き分けになった。手がじんじんする。暗闇で見えないが、おれの手もアベルの手も赤くなっているだろう。お揃いでよかった。なんて陳腐で幼稚な思考が頭をよぎる。


 そうして、とうとう振り返ってもあの白い無機質な建物は見えなくなった。

「さよなら、ユートピア」

 もう当番をすることも、訓練をすることもない。泥を啜ることも、折檻を受けることも、マスターの墓に摘んだ花を添えることもない。

「……自由だな」

「ああ、そうだな」


 そうしておれらは平等の環から外れた。もうまわらない。

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