第11話 死ぬなら即死がいい
――それは、月がきれいな夜のことだった。
窓から空を見ると、三日月よりも細い月が繊細な光を薄く放っていた。あと少しで消えてしまいそう。
冬の、しんとした空気がおれらの部屋に張り詰めている。一本の蝋燭が照らすこの部屋は薄暗い。片割れが本を読むために使っているため、ベッドに寝そべっているおれの近くはもうほとんど真っ暗だった。
「なあ、カイン」
アベルが琥珀の瞳をこちらに向けて囁いた。それはあまりにも唐突だった。
「ここから逃げよう」
その時ひゅうと隙間風が吹いた。寒い。ふっと蝋燭の灯が揺らいで、そのまま消えてしまった。あ、と声を洩らしたのはおれとアベル、どちらだったのだろうか。
すぐさま夜の帳が落ちて、濃密な暗闇がおれらを包み込んだ。心地よい。
「ここから逃げるって──」
どういう意味。そう訊ねようと思ったのに、しっとアベルが口元に人差し指をやったものだから、語尾が尻すぼみに立ち消える。
きろり。
琥珀色が暗がりで動いた。アベルもいつの間にかベッドに潜り込んでいたようで、琥珀の瞳が至近距離からこちらを射貫いている。何だかとてもきれいだった。
「カイン、逃げよう」
アベルはまた同じ文言を繰り返した。まるで魔法の言葉みたいに。
「ここに居ても、俺らは駒のように使い捨てられるだけだ。お前も気付いているだろ?」
彼の言いたいことが手に取るようにわかった。でも現実は見たくなかった。せっかく月が綺麗なんだ。せっかく夜がやって来たんだ。とぼけて、目を逸らす。
「何のこと、」
「誤魔化すなって」
けれどアベルは目を逸らすことを赦してくれなかった。きっと、アベルにはおれの気持ちが筒抜け。彼はカインとアベルの『頭脳』なのだから。
「訓練が厳しくなってきているの、お前にもわかるだろ」
それは心当たりがないとはいえないくらい、あまりに明確な変化としておれらに降り注いでいた。特に、おれに。集団戦における銃の扱い方なんていつ使うのだろうか。その答えは痛いほどわかっていた。
「近い将来、戦争が起こるんだ」
マスターの葬式の時にも口にしていた言葉。あの時と同じで、アベルの声は確信に満ちていた。そしておれの脳裏でも同じ言葉が再生されていた。銃をなぜ使うか。戦うため。そんなこと、ずっと前からわかりきっていた。
戦争。
声に出されたその言葉は、存外おれら二人の胸にずんと重くのしかかってくる。
「その時、俺らは使い捨てにされるだけだ」
アベルが言うならそうなのだろう。おれらは、このユートピアにいる者は全員、平等に駒として生きているのだ。けれどそれは――
「一体誰の為に?」
おれの疑問は口に出ていたらしい。アベルはついと視線をそらした。
「いないんだよ」
強いて言うなら、集団のためだろうな。なんて囁いてみせるが、その声はどこか空虚だった。
「戦争とは本来、王様やら皇帝やら頂点を守るために戦う。それが国を、集団を守ることになるからだ。けれど俺らは、存在しないリーダーを守るために戦争をしなければならない」
ひゅうと寒い風がまた吹いた。
「……今のマスターは、指導者じゃない。そうあってはならない」
おれが低い声で言うと、アベルは知っているというふうに頷いた。
「あれに統率の才能はない。良くて二番手だ。指導者もいないのに、どうやって戦うっていうんだろうな」
そのままアベルは何かを読み上げるように滔々と言葉を紡いでゆく。
「そう、今のマスターは指導者ではなくお飾りだ」
それは『手足』であるおれが一番よくわかっていた。だって今のマスターよりおれの方が強いから。今のマスターなんてすぐに倒せる。でも、その上で暴力を甘んじて受け入れている。それが『平等』で『正しい』からだ。そうしないと生きてゆけない。無理に平等を引っ掻き回して得られるのは混沌と更なる暴力だけなのだから。
尚もアベルは言葉を続けた。
「じゃあ、その『平等』に幸せはあるのだろうか」
待って、その先は言うな。そうおれが口に出す前に、アベルが先に口を開いた。
「このユートピアは、一体誰のために存在しているんだろうな」
それは同時に、ユートピアの駒として生きているおれらの存在価値を透明にしてしまう言葉だった。それはあまりにも虚しい。息を吐きだすだけなら、環境を汚すだけなら、泥を啜るだけなら、おれらは何故生きているのだろうか。
嗚呼、だから人は神に縋るのか。だからこの集落は平等に縋るのか。そこに幸せがなくとも。
「神様なんていねえよ」
おれの思考を読んだかのようにアベルは言った。おれも頷いた。
「当たり前だ、どうせいても役立たず」
おれの言葉にはっと嘲るような笑みを浮かべたかと思うと、アベルはそのままついと視線を逸らした。表情を消して、ぼんやりと窓の先を見つめている。片割れが何を考えているのか、わかりそうでわからなかった。
沈黙がうるさい部屋で、アベルがぽつりと呟いた。
「死ぬなら即死がいいな」
それはおれらの切実な願いだった。
「本当に。死ぬ間際くらいは幸せでありたい」
細く消えそうな月がおれらを見ている。見つけないでほしい。なんて。女々しい思考は嫌いだ。願いとは願うものではなく叶えるものなのだから。アベルだってそう言うはずだ。
でも、もし神様がいるというのならこの不条理を何とかしてほしかった。このままではおれらは金持ちの贅沢とやらを知らず、平等という環に縛られながら、戦争の駒として死んでいくだけ。残念ながら、どうしようもないのだ。逃れられない。
どうせなら、平和な世界で農夫やら羊飼いやらとして生きていたかった。好きなものを好きな時間に食べて、好きな時間に寝る。ただそれだけでよかった。
でも、とアベルは再び口を開いた。片割れの声におれの現実逃避という名のふわふわとした思考は遮られる。
「俺らは生きてやる。生きて、幸せになるんだ」
それは誓いだった。カインとアベルの誓い。細くちぎれてしまいそうな月が証人だ。
「ああ。……でもどうやって」
そこでしぃ、とアベルは口元に人差し指を立てて息を洩らした。
「俺は外の世界について大抵のことは書物で学んだ。社会の仕組みも、どうしたら俺らが生きていけるかも」
自信満々な声だった。そういえば貨幣経済とやらの仕組みをちょうどこの前話していたっけ。知らない単語ばかりで半分も理解できなかったけれど。
それからアベルはもっと理解不能な言葉を発する。
「なあカイン。ユートピアを出よう」
それは、あまりにも現実離れした話だった。まるで宝石の散りばめられた御伽話。
なのに、アベルの表情も琥珀の瞳も真剣そのもので。
そこでようやくおれは、アベルの「逃げよう」という言葉が冗談ではなかったことを悟ったのだった。
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