第10話 酷い現実

「起きろ、カイン」


 朝、アベルに起こされて目を覚ます。

 正直もう起きたくなかった。別に起きてもいいことがないから。訓練、暴力、訓練、暴力、その繰り返し。何ら変わらない平坦な日常に辟易してきていた。

「おい、起きろ。カイン」

 次の瞬間にでも片割れがヘッドロックをかましてくるような気配がして、渋々身を起こす。彼のヘッドロックはかなり乱暴で、下手をすると三途の川が見えるのではなかろうか。起きたくはなかったが、決して希死念慮があるわけではない。

「……おはよう、アベル」

 また平等に変わらぬ一日を過ごす。地獄との狭間でタップダンス。今日は雨らしい。ああ憂鬱。


 ♢


 このユートピアは相も変わらず平等だった。人々は決められたスケジュールをこなし、決められたように過ごす。だから発展も衰退もなかった。人々が思考を止めだしたから衰退はしているのかもしれないけれど。

 先人たちが決めた平等のための『ルール』が正しいと誰も信じて疑わなかった。そうして平等は保たれていた。表向きは。


 さあさあと雨が降っている。ばちゃり、泥の中に勢いよく倒れ込む。

「はあ……」

 マスターが死んでから、訓練は日に日に激しさを増していた。殴られ、地に這いつくばり、踏みつけられる。ぬかるんだ泥が口に入って不快だ。

 そう、これは訓練。だからこれは平等。

 この大義名分を得た大人たちがこぞっておれを踏みつける。こんな訓練は要らないだろうと思う。でも口答えしたらもっと酷いことになることはわかっていた。以前口答えしたからこそ、このような待遇になっているのだから。

「くそったれ」

 口の中で悪態をつきながらようやく立ち上がる。服はどろどろで湿って気持ちが悪い。でも死にはしない。だから生きている。


「次、銃の準備!」

 前のマスターとは似ても似つかない、ぎょろぎょろ周りを伺ってばかりの神経質そうな男が声を張り上げている。彼が次のマスターだ。おれを殴り始めたのも彼。折檻がマスターの役割であると言って、おれを数人がかりで殴って蹴った。

 曰く、マスターとは出る杭を打つための存在らしい。誰かを率いるためではなく、均等にならすための存在。いかにもユートピアらしいと思った。


 ――マスターなんざ、なるもんじゃねぇよ。

 つい先日旅立ったマスターの声が蘇る。あと少しでマスターに勝てそうになった試合の後のこと。「マスターになる気はあるか」という質問に対して是と答えると、マスターは表情を歪めたのだった。「絶対になるな、利口ならな」と吐き捨てて、去っていった。それから間もなくして彼は死んでしまった。

 あの言葉の意味をもう少し問いただしておけばよかったなと思う。マスターの死の真相がそこにあるような気がして。

 けれど死人に口はない。だから死にたくないと思った。


「A隊、構え!」

 当代マスターの、無駄に張り上げられた甲高い声が耳障りだった。口の中は未だに泥臭くて気分が悪くなる。全く、集団戦における銃の使い方なんていつ使うんだ。

 なんて考えていると、構え遅れたらしい。これを好機とばかりにマスターがこちらにやってきて、鳩尾を足蹴にした。息が詰まったけれど決して頽れないようにする。倒れ込んだが最後、勝手に座るなやらなんだと言ってまた蹴ってくるのだ。良いことがない。

 先代のマスターとは大違いだった。


 ――そこ、座るな。Aルート五周!

 座り込んだことの罰として走り込みをさせるマスターは、たぶんどこまでも優しかったんだと思う。きっとおれらの思惑にも気づいていて、その上であの罰を出していたのだ。あの人は賢かった。どうして死んでしまったんだろう。


 正直、この集落は限界に近づいてきているのだと思う。少なくとも健全な『ユートピア』なら、無理やりおれの身体を泥に押し付けて暴力を振るうことが許されるはずがなかった。

 マスターは統率者ではなかったけれど、ユートピアに必要不可欠な人だった。

 マスターが死に、その均衡が崩れる。否、均衡が崩れていたからマスターは死んだのか。

 とかく、反抗的なおれは殴られる。蹴られる。大半の人間は見て見ぬふり。だって、これは『平等』だから。


 これは訓練を免除され、ずっと書物に耽っている片割れが知るはずもないことだった。知られなくてよかったと思う。こんな情けない姿は見せられない。

 けれど賢いアベルは薄々気付いているのだろう。この集落が限界であることを。


 ざあざあ。ざあざあ。地面がぬかるむ。草木が揺れる。花が散る。

 雨はまだ止みそうになかった。

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