第5話 名前は記号

「てめぇらは一緒じゃなきゃ死ぬ呪いでもかかってんのか」

 次の日の体技の時間、同じ右頬に痣をこさえたおれらを見たマスターは眉根を寄せた。彼の分厚い皮膚がぐぐっと寄ってまるで山のよう。日に焼けた彼の顔は何とも言えない圧があった。普通の子供なら泣きだしていたかもしれない。そう、普通なら。

「どうせアベルの傷も自分たちでつけたんだろ? 愚かしい」

 はあ、とどこかおれらに見せつけるようにため息をついたマスター。対してアベルは淡々と言葉を並べた。

「ため息をつくと幸せが逃げますよ」

 人を煽るのはおれらの得意分野だった。おれらは人の感情の揺れを見るのが好きだった。目の前にいる、このユートピアに暮らす人間が人形ではなく、正しく生きていると実感できるから。少なくとも感情は平等じゃなかった。


 直接的に刺激はしない。相手の掘った墓穴をほじくるのがおれらの流儀だった。むやみやたらに人を傷つけたい訳ではさらさらないのだ。性質たちが悪いなと我ながら思う。

 しかし、このマスターにおれらの術が効いたことはなかった。しわのある顔で彼は快活に笑って、

「てめぇがそういう迷信を信じているとはなァ」

 逆におれらを軽く煽ってくる。些かむっとした。その言葉にではない、おれらの意のままにならないマスターに苛立ったのだ。

 しかしそれはマスターの術中に嵌っていると同義だったので、意図して無表情をつくる。

「おれらのことどう思ってるんですか、マスター」

「てめぇらが思っている通りさ」

 うまくはぐらかされた。これ以上深入りするとおれらが墓穴を掘る。なぜかマスターの前では何事も上手くいかないのだ。ため息をぐっと堪えた。

 それを知ってか知らでか、なあ、とマスターは真顔で口を開く。


「自分が誰かと同じになれるって、本気で思ってるのか」


 彼の視線はおれらの右頬に注がれている。どこか懐かしむように、どこか咎めるように。どうしてそう思ったのかはわからない。わかるはずがない。わかりたくもない。

 それきりマスターは口を閉ざした。まるでおれらの回答を聞くまで身動ぎ一つしないとでもいうように。

 ぴんと張り詰めたような緊張が走る。そう思っているのはおれらだけかもしれないけれど。吹き抜ける風が生ぬるい。

 ちらりとアベルの顔を見る。きっと考えていることは同じ。だから、おれは重たい口を開いて回答する。

「ええ、思いま――」

「人は同じにはなれない。決してなれるはずがない」

 おれの首肯にマスターはぴしゃりと否定した。平手打ちをした時のように、暴力的に、絶対的に。もしかすると彼は怒っているのかもしれない。悪戯に対して怒った大人たちの雰囲気とよく似ていたから。


 もちろん何に怒っているかは分からない。自分自身に憤っているようにも見えるし、純粋におれら悪餓鬼に苛立っているのかもしれない。とかく、こちらを見据える濃灰色の瞳はひどく冷たかった。

 その凍てつきをマスターは瞬き一つで消し去った。吹き過ぎた風の如く、跡形もない。


「てめぇらは、生きる道を分かつほうがいい」

 世間話をする時と同じ口調で言われたので、おれらの方が混乱してしまった。今、なんと。

「きっとてめぇらはこの平等な世界に飽き飽きしているだろう。……首を振るな、嘘を吐くな、こっちを見ろ。目を逸らすにはまだ早い」

 ぴしりとおれらの首は動かなくなる。この男にはあまりに恐怖を植え付けられすぎたのかもしれない。脳は誤魔化せても身体は誤魔化せないのだ。今後は暴力に隷属しないと心に誓った。


 静かにマスターは言葉を続ける。どうしてか今の彼はいつもより若々しく見えた。マスターにも正しく青年だった時代があるんだな、と当たり前のことを思った。


「てめぇらは年の割に賢い。……自惚れるな、もしこれを褒め言葉と受け取るのならば、てめぇらは救いようのない愚か者だ。そう、その目だ。従順な子供ではなく隙あらば急所を突こうとする目。かつての俺と同じで、狡猾に生きようとしている目だ」

 おれらの間に風が通り過ぎる。生ぬるい風がたまらなく不快だ。

「――だから、一つ忠告しておく。てめぇらは別々に生きた方がいい。いや、はっきり言う。入れ替わりをやめろ」

 それは『マスター』からの命令だった。この平等な集落で、何故かマスターの命令だけは絶対だった。

「なぜですか」

「弱くなるから」

 マスターは即答した。そしておれらは少なからずその言葉に動揺した。動揺してしまった。だって理解の範疇を超えている。なぜ、入れ替わりで弱くなるのだろうか。これは強くなるための儀式だというのに。

 反論しようにも、おれらはどうしてか口を開くことができなかった。開くべきじゃないと脳が警鐘を鳴らしている。なぜ? 


 目の前にいるのはただの人間だというのに、その濃灰色の瞳を覗き込んでいると、とんでもなく大きな怪物と対峙している気分になる。いったい彼はおれらをどこまで見透かしているのだろうか。灰色の目が恐ろしい。でも目を逸らしたら負けだ。だからおれらは逃れられない。


「いいか、同じ人間なんてこの世に一人もいやしないんだ。居てはならない。だからドッペルゲンガーに会ったら死ぬ。ここは誰もが平等に扱われるから忘れがちだがな、人は誰もが違うんだ。同じ箱に縛ろうって方が間違っている」

 それは言外に、おれらがおれらを縛っていると雄弁に物語っていた。それからユートピアに対する非難。だからこれまでこの歪なユートピアが回って来たのだ。その事実がすとんと腑に落ちる。


 マスターはおれらを順番に見た。たっぷりと時間をかけて、まるで猛獣が獲物を確認するように。おれらは身動き一つとれない。どこで間違えた? どこからおれらは劣勢になった? でもそれすら考えさせる時間を与えてくれなかった。

「勿論、てめぇらも違う。同じ人間じゃないんだ。成りえない」

「――おなじです」

 即答したのはどちらだったか。

 それをマスターは鼻で笑い飛ばしたが、その灰色の瞳は笑っていなかった。

「強情だな。聖書のCainとAbelだって別の人間だろうに」

「それは無関係ですよ」

「まあな、名前は記号だ。しかし同時に役割でもある。俺らは役者で、その役の名前が俺らの名前」


 何だか謎かけみたいだった。劇なんて、知識としては知っているが見たことはない。このユートピアに観劇なんて娯楽は存在しないから。役者という単語も書物で読んだことはあれど、おれらと無縁のものだと思っていた。


「じゃあ、『マスター』も役の名前だっていうんですか」

 アベルが問うとマスターはまたもや笑った。

「はっは、これが本名だと思っていたのか? 俺の名前は別にあるさ、Masterは役割の名。マスターなんてダサい名前、本当はゴメンだったんだがなぁ」

 若々しく見えたその顔に、年相応の憂いが浮かぶ。マスターも人だったんだなとぼんやり思った。

「人は誰もが演者だ。お前らの名前がCainとAbelだっていうのも役の名だ。それが聖書のCainとAbelとは限らない。お前たちの演じるようにCainとAbelが生きるんだ」

 だから、とマスターはまるで台本を読み上げるように続ける。


「『その名を演じろ。其の人生が終わるまで。幕が下りるまで。決して演者交代は許されない』」


 その時ちょうど雨が降り始めた。ぽつり、ぽつりと乾いた地面に水滴が染み込んでゆく。言葉がおれらに染み込んでいくように。それを拒むことすらできない。耳にまぶたはないのだから。


 次に顔を上げた時には、マスターはもうどこかへ行ってしまっていた。

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