第6話 人生の分岐点

「頭脳か、手足か、それが問題だ」

 アベルがどこか愉しそうに、まるで科白をなぞるが如くうたった。元ネタは”To be, or not to be, that is the question.” だろう。大して教養のないおれですら知っている、あまりにも有名な台詞だ。生きるか死ぬか、それが問題だってやつ。

 アベルはあくまでふざけているが、これは至極真面目な問題だった。頭脳を使って生きるか、肉体を使って生きるか。


 マスターに言われたこともあり、おれらは生きる上で役割を分担することにしたのだ。一人にできることは限られているが、二人で一人を創り上げたら強い。だから、分担。

 そう、同じ人間は二人要らない。人類がどうしてこんなに多様性に溢れているかって、それは種の存続のため。理にかなっている。

 だからおれら双子は別々の道を選択することにしたのだ。それは正しく分岐点だった。人生の岐路。


「カイン、どっちがいい?」

 世間話をするようにアベルが問う。さながら、「今日の夕餉は肉と魚、どっちがいい?」とでもいう具合に。実際は頭脳か肉体、どちらを使って生きるかという人生の在り方に対する質問だったが。

 しかしおれの中で答えは決まっていた。アベルと同じように、気軽にいらえる。さながら、「肉がいいな」とでも答える具合に。

 とはいえ、このユートピアでは夕餉のメニューに選択権はなかったのだけれど。


「じゃあ、おれが手足になるさ」


 さらりと言うとぱちりとアベルは琥珀色の目を瞬いた。いつもしたり顔をしているアベルがこんな顔をするなんて珍しい。全く、おれの顔で阿呆面を曝さないでほしい。

「なぜ、その選択を?」

 そんな真剣そうな顔をするなんてアベルに似合わないな、と思った。おれらに似合わない。

 それに選択の理由もそんな大層なものじゃない。ちらりと読んだ旧約聖書だ。

 図書館の隅に置かれていた一冊の旧約聖書。日焼けして、ぼろぼろで所々頁が欠けていたが、CainとAbelの文字に惹かれて読んでしまった。自分たちと同じ名前だから。

 もう死んでしまった誰かがつけた記号なまえだから真偽は闇の中だが、きっとあれが由来なのだろう。覚えやすいし。


 聖書の中で、Cainとは人類初の殺人者らしい。脳裏で読んだ情景を再現する。あれはAbelを殺したんだっけ。不吉だからそれは口には出さないけれど。


 おれはよく知らねーけど、と敢えて間抜けな声を出して話を切り出した。真面目なトーンはおれらに似合わないので。

「Cainて初めて人殺しをする人間なんだろ? なら、その名を貰ったおれが適任だろうと思って」

 殺人。下手人。人殺し云々はおいておいて、手を下すのは手足の役割だろうと思ったのだ。だからカインが手足。しかしアベルは大袈裟に首を振った。真っ直ぐな黒髪がぱさぱさと揺れる。

「それは関係ねぇよ。だって、名前は記号で、カインがそれにとらわれる必要なんてどこにもない。お前だって荒事を引き受けるのは嫌だろう? お前はどうしたいんだ。おれは何かの引用じゃなくて、カインの意思を知りたい」

 何故かアベルは狼狽していた。少なくともおれにはそう見えた。けれど、どうしてかは理解しかねた。手足でも、頭脳でも、おれらの進む道は地獄に変わりはないのに。

 おれがどうしたいか。そんなの、わかるわけがない。アベル自身だってわからないだろうに、どうしてそんなことを問うのか。嗚呼、わからないから問うのか。


「……いいや、意思なんてないさ。正直おれはどうでもいいんだ。きっと自分の感情で選んだら後悔する気がする。だったら、旧約聖書や名前の所為にしたほうが楽だろ?」

 それは紛れなくおれの本心だった。責任転嫁をしてしまいたいという醜い本心。おれの心の内を読めたのか、ようやくアベルはいつもの真顔になりすとんと頷いた。

「なるほど、じゃあおれもそれにあやかるか」

 先程の真剣さはどこへやら、すぐさまにやりと悪戯っぽい笑みを浮かべて、

「おれらは悪くない、恨むなら運命をってやつだな」

「その通り」

 アベルと拳を合わせる。ぱちん、軽やかな音が狭い自室に響いた。

 我ながらひどい責任転嫁だと思う。でも、背負うものは少なければ少ないほどいい。それが賢明に決まっている。


 拳を合わせたまま、アベルが口を開いた。

「じゃあ、俺が頭脳で――」

「おれが手足だ」

 そうして『カインとアベル』を創り上げるのだ。


 ぱん、と手のひらを合わせるのと同時におれたちは笑った。拳を合わせ、それから手のひらを打ち合わせる。これは悪巧みをする時の仕草。二人で一つになる儀式みたいなものだった。

 でも、今日のこれはお互いが別々の道を歩き始めるための儀式。二人三脚の紐は自分から解いてしまうのだ。そして並走する。より強く狡猾に生きる為に。


 おれたちは、強い。そうあらねば生きてゆけない。

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