第7話 外の世界の音

 おれが手足で、アベルが頭脳。そう決めたが、特に生活が大きく変わることはなかった。この平等な集落では訓練も講義も平等に与えられるので。

 一番の変化は、入れ替わりをしなくなったことだった。


「あーあ、退屈」

 おれはごろりと黴臭いベッドに寝転がりながら呟く。天井のシミを数えるくらいしかすることがない。あとは筋トレをするくらいか。最近背がぐんと伸び始めたから鍛え甲斐があるというもの。

 ぐっぐっと上体を倒しては起こしながら、やけに静かな片割れに同意を乞う。

「なあ、アベル?」 

 けれど片割れから返事はなかった。ちらりとそちらを伺うと、アベルは黙って一冊の本を読んでいた。やけに熱心な様子で、その視線は忙しなく上下運動を繰り返している。


 静かな部屋に、おれが上体を起こすごとに軋むベッドの音と、アベルが頁を繰る音だけが響く。

 ぎし、ぎし、ぎし、ぺらり。

 おれの腹筋とアベルの視線だけは忙しそうだったが、おれは酷く退屈だった。退屈に殺されそう。とはいえこれ以上訓練やら当番やらが増えるのは好ましくない。はっきり言って嫌だ。他人に生き方を定められるのは嫌いだ、反吐が出る。現状そうなってしまっているのだけれど。


「アベル」

 先程よりも声量を上げて片割れの名を呼ぶ。ぱたん、本が閉じられた音がした。

「なんだ」

 おれと同じ顔がこちらを見た。いつも通りで何だか安心する。安心?

「いや、何の本を読んでいるのかなと」

 おれが率直に問うと、アベルはどこかはにかむように笑った。よくぞ聞いてくれましたと顔に書いてあるような気がする。

「これはな、外の世界の本だ」

「外の世界?」

 それは考えたこともない話だった。否、少しは考えたことはある。ただし漠然と。


 外の世界にも、このユートピアみたいな社会が点々と広がっているのだと思っていた。平等を規律として、人々は集団のために生きる。そんな夢のない世界。それ以外の世界は講義でも語られていない。

 ああ、それから。御伽話に出てくるような王子様とお姫様の住んでいる世界がほんの少しあったらいいな。平和でのどかで、町の人も王子様もお姫様も、王様もお妃さまもみんな幸せ。ハッピーエンド。そんな暮らしが実在すれば少しはこの世界にも救いがありそうで。

 否、これはただの願望だ。幼稚で醜い願望。でも少しくらい夢を見たっていいじゃないか。ここには夢もへったくれもないのだから。

 哀しいことに空想の世界でさえ、おれの見てきた世界が基本となっている。


 アベルはゆっくりと頷いた。

「そう、このユートピアの外の世界。外の世界は、このユートピアとは全く違った社会構造で動いているんだとさ」

 ふうん、と曖昧な返事をした。社会構造なんて難しいことはよくわからない。それにしても外の世界か。……待て。

「それって禁書じゃないのか」

 アベルの口元が悪戯っぽく弧を描いたのでそれが正解だとわかる。

 このユートピアは平等を守るために多くのことを隠していた。講義でユートピアについて触れられることはない。他の国も然りだ。読み書き、数学、地学、生物学、物理学の初歩しか学べない。不自然に歴史の講義だけごっそりと省かれているのだ。だから何故そんな本が残っていたのか甚だ疑問だった。触れられたくない内容なら本も処分されているはずだから。

 しかしアベルはそれには答えず、

「なあ、カイン。かねって知ってるか?」

 静かに琥珀の目を輝かせて問うた。どうせ知らないだろ、とそのにやついた顔に書いてある。少し腹が立ったがその通りだったので首を振った。

 きっとそのかねとやらは『鐘』のことではないのだろう。おれらを縛る時報の鐘。

「知らね」

「だろうな、俺もこの本を読むまで知らなかったから」

 最近、アベルの知識量がおれよりも遥かに上になってきている。まあ、おれの力もアベルを凌駕しているのでお互い様なのだけれど。これが頭脳と手足の差。少し寂しいと言うか、何とも名状しがたい感情が胸にわだかまる。

 おれの心中なんてきっとわからないのだろう、アベルは淡々と説明を始めた。

 おれもアベルの心中がわからない。以前とは違って。


「金っていうのはな、外の世界じゃどこにでも流通しているんだと。大体はこれくらいの円板で、使われている金属によって金貨、銀貨、銅貨にわかれるらしい」

 アベルは自分の親指と人差し指で小さな輪を作った。その先にアベルの琥珀の瞳が見えて、なるほどこれが金貨というやつかとぼんやり思った。

「外の世界はな、ここみたいに平等じゃないんだ。金は労働の対価として貰え、貰える量は労働の種類に依る。そして得た金は、食糧や家を買うために使うらしい」

 変なの、と直感的に思った。だってここにいれば労働は当たり前だが、その代わりに食糧や住むところは平等に与えられる。何のために金を用いているのか、わからなかった。これがおれにとって普通だから。

「……それならここの方が良くね?」

 そう呟いたおれを、まあ待て、とアベルは言葉と視線で制した。

「俺も初めはそう思ったんだがな、金って仕組みは意外と複雑で簡単なんだ。金を多く持っている方が身分が高くて、金が少ない方が身分が低い。否、逆かもな。身分が高い奴は金を多く持っていて、身分が低い奴は金をあまり持っていない」

 複雑で簡単。一体どっちなんだと問いたくなるが、アベルはこういう言い回しを好んでいた。おれも嫌いではないけれど、どっちかはっきりしてくれという気持ちにはなる。

 とにかく、とアベルは話を続けた。

「金が沢山あるとな、贅沢ができるんだ。こんな訓練なんかせず、こんな黴臭い部屋に押し込められることもなく、こんな質素な食事をせず、望んだものは全て手に入るのさ」

 贅沢。それは夢に出てくる光景かもしれない。ふわふわのパン、具沢山の温かいスープ、ふかふかのベッド、きれいな服、広い部屋。訓練も、体罰も、当番もない。

「それ、いいな」

 おれらに決して与えられるはずのない、贅沢という代物。手に入らないと思えば欲しくなる。物欲とは噛み砕くとそういうものだ。

「だろ?」

 悪戯っぽく笑ったアベルは立ち上がって、ベッドにやって来た。そのままおれの隣に雑に寝転んでうん、と伸びをする。ぎし、と古いベッドがやはり軋みを上げた。お互い背が伸びてきて、ベッドも限界に近づいてきている。

 壊したら新しいのが支給されるのだろうか。それとも床で寝る羽目になるのだろうか。支給された毛布は擦り切れて襤褸布と化している。寒い。もうすぐ冬が来るのだ。

「外、行きてえな」

 ぽつりと零された言葉は、果たしてどちらのものだったのだろうか。


 外の世界。金がすべてを言う世界。それは幸せなのだろうか。自由なのだろうか。ちゃり、と見たこともない金貨の鳴る音が聞こえた気がした。


 がらん。がらん。

 鐘が鳴って、おれは訓練のために外へ出る。

 アベルはそのまま本の続きを読んでいた。すでに彼は知識によって平等の環から一歩外れていたのだ。


 おれらはもう同じではない。

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