第4話 痛くない痛み

「顔を上げろ。――『カイン』」


 はっとして顔をあげる。上げてしまった。なんで、今はアベルの番なのに。今のおれはアベルのはずなのに。

「どうして、」 

 思わず口から疑問が溢れる。そして口をつぐんだ。それは肯定に他ならなかったから。しかしもう手遅れだった。当たりか、とマスターは呟くとゆっくりとしゃがみこんで、

「老いぼれを舐めてはいかんな」

 マスターは手を振り上げたかと思うと、おれの頬を平手打ちにした。分厚い打撃におれはまた地面に倒れ伏した。

 土のじゃりじゃりした感触が不快だ。冷たい。殴られた頬は熱い。

 痛みについ声を漏らしそうになったが、すんでのところで堪えた。弱音は人を弱くする。悲鳴は弱者のもの。

 おれは、おれらは、生き延びるために強くあらねばならなかった。


 地面に倒れてじっとしているおれを一瞥すると、マスターは何も言わず立ち去って行った。次の男の相手をするのだろう。誰が老いぼれだよ、この体力お化けが。

 とはいえ、周囲は驚くほど殴られたおれに無関心だった。それくらいおれらは問題児だったのだ。誰も彼も厄介事に巻き込まれたくないのだ。おれの周りで彼等は淡々と自分に課された作業をこなすだけ。まるで泥人形のように。

「カイン、」

 ただアベルの顔が揺れる視界にぼんやりと映っていた。おれも同じような顔をしているのかもしれない。

 じんとした頬の痛みがじわりじわりと広がって、熱くて、とかく不快な気持ちになった。

 もちろん今まで殴られたことがなんてない、なんて恵まれた暮らしはしてこなかった。しかしやはり顔は群を抜いて痛い。神経が多く通っているからだと何かの本で読んだ。

 深呼吸、深呼吸。それから意識して無表情を浮かべる。痛みを忘れるように。痛みに一刻も早く慣れるように。

「カイン」

 もう一度おれの名を呼んだアベルが無表情でおれの目を覗き込んでいた。アベルの白い頬の斜め上に嵌められた琥珀色の瞳におれが映っている。右頬を赤くしたおれの顔。

「アベル」

 おれの呼びかけに彼は返事をしなかった。おれもそれ以上何も言わなかった。


 痛みより、もっと鈍く重たいものがおれらの胸に立ち込めた。空を見上げると曇天。本当についていないと思う。湿気がおれらに重く纏わりついている。雨が降るのかもしれない。

 殴られた頬は訓練後もじくじくと熱を持ち続けた。


 ♢ 


「カイン」

 夕餉の時間、アベルがぽつんとおれの名を呼んだ。振り向くと、アベルが無表情で傷一つない顔をこちらに向けていた。だらりと身体の緊張を解き、どこまでもリラックスしているように見える。

 彼が何をしてほしいかすぐにわかったし、おれもしなければならないと思った。すうと静かに息を吸って、


「アベル」

 ばちん。


 おれの声とともに肉が肉を打つ音が狭い部屋に響いた。おれの右手がアベルの右頬を打ったのだ。昼間、マスターにおれがされたのと同じ場所、同じ強さで。

 アベルも昼間のおれと同じで、声は漏らさなかった。代わりに晴れ晴れしたような顔を浮かべていた。


「殴られて喜ぶな、マゾヒスト」

 アベルが喜んでいるわけではないのは明白だったが、この神妙な空気がおれらにあまりに似合わなかったものだから敢えて茶化した。

「殴って喜ぶな、サディスト」

 アベルがにやりと笑ってこちらを見ている。右頬を赤くして。

 きっとおれも先程のアベルと同じ顔をしていたのだろう。おれらは双子だから。



「ああ、口の中が切れて痛いな」

 食事中、アベルがカトラリーをくるくる回しながらぽつりと呟いた。なるほど、彼の言わんことを理解した。わざと痛いと声に出してみせたことには意味があるのだ。

「おれもだ」

 おれの返事にアベルはによりと笑った。

「じゃあ二人とも同じなんだからこれは普通だな。決して痛いわけじゃない」

 おれも頷いた。

「そう、これは痛みじゃない」

 はは、と二人して笑った。頬がひりひりする。これは痛みではなく痒みだ。

 あはは。笑いながら、平和だなと思った。


 スープはいつもどおり薄味、パンはいつもどおりカチカチ。目の前には同じ顔をした、同じ右頬を赤くした片割れ。

 おれらはひとに殴られても、ひとを殴っても平気でいられるくらい強くならなければならない。


 そして、おれらはどこまでも同じでなければならない。

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