第3話 入れ替わりごっこ

 この世界は碌でもないと思う。この、大した意味もなく人が人を暴力を振るう世界は。

「碌でもないのは今に始まった話じゃないって」

 片割れのアベルがこめかみに流れる汗を袖で拭いながら笑った。そう、今は訓練の時間だった。


 ばちん、ばちん。

 目の前で二人の男が拳をぶつけ合っている。訓練だ。肉を打つ音があちらこちらからする。見るからに暑苦しい、そんな昼下がり。眩しい日の光が宿舎の白い壁に反射しておれの目を焼こうとする。


 このユートピアがいつからあるかは知らない。十歳以上の男女全員に義務化された講義は幅広い知識を授けてくれるが、このユートピアについてのみ語られたことはなかった。まるで何かを隠すように、しかしごく自然に。

 だから誰も疑問の声を上げなかった。

 だからおれらの目にはそれが不自然なものとして映った。

 このユートピアは謎だらけで、物心ついた時には既にあったということしかわからない。けれど、その歴史は浅いんだろうなと思う。だって宿舎も鶏舎も時計台も全て漆喰が白いままだから。真っ白。

 光の反射が眩しいので視線を落とす。視界いっぱいに茶色が広がった。

 そう、茶色い土はいつだって優しい色合いをしている。やわらかくて、つめたくて、あたたかい。


「なあ、見ろよ。あそこ、今回は長いぞ」

 隣にしゃがんでいたアベルがぼんやりと言った。アベルの顎からつと汗が垂れて土に色の濃いシミをつくる。おれも汗を拭いながら視線を上げた。


 土埃を立てながら、白髪交じりの初老の男と若い男が死闘を繰り広げている。安全のため武器はない。殴って、避けて、殴り返す。その繰り返し。これこそエネルギーの無駄遣いだとつくづく思う。

 かれこれ二分くらい過ぎたころ、若い男の鳩尾にマスターの鋭い拳が入り、ようやく勝敗は決した。

 これは訓練なので歓声は一つも上がらない。そもそも許可なしに大声を上げてはならないのだ。何の面白みもない、退屈な時間。


 マスターはこの集落で最も体技に優れた者だった。だから訓練として彼に一人ずつ挑むのだ。おれが生きている間、マスターに勝てた者はいない。


「アベル!」

 片割れの名前を呼ぶマスターの声がびりびりと空気を震わせてここまで届く。訓練の順番が回ってきたのだ。素早くおれはアベルと目配せした。爛々と光る琥珀の瞳に悪戯っぽい色が滲んでいる。それはおれもきっと同じだろう。アベルの瞳に映る少年はアベルと同じ顔をしていたのだから。

「はい」

 最低限の声量で返事をして、おれは立ち上がった。今だけおれはアベルだ。

 要するにこれは入れ替わりの遊びである。「やってやれ」、声のした方をみるとアベルがひらりと手を振っていた。おれも同じ所作で振り返した。


「始め!」

 審判役の男の声が戦いのゴングだった。ちなみにこの審判も当番制だから平等に順番がやってくる。

 なんて悠長に構えている暇はない。すぐさま鋭い拳が空を切る音がして、おれは反射的に避ける。当たりどころが悪くて炎症を起こして死んでしまっても、平等に決められた手順で埋葬されるだけ。

 死にたくないのでおれは死にものぐるいで動く。避けて、避けて、殴る。見事に空振り。

 目の前のマスターがひどく大きく見えるので、身長には早く伸びてほしいと思う。正確な年齢はわからないがまだ十歳くらいだろうから仕方ないのだけれど。

「……ぐっ」

 おれらは最年少の子供だったけれど、手加減されたことはなかった。今日も呆気なく地面に転がされておしまい。土の匂いが直接鼻腔をくすぐる。優しいのに冷たい香り。

 毎日の出来事だが、どっと疲労が押し寄せてくる。そこに漂うのは無力感か。はやく強くなりたい。ならなければならない。不条理を変えるにはいつだって力が必要なのだから。


 白髪交じりなのに、マスターの体力は底無しらしい。涼しい顔をして日の中に佇んでいる。白い壁の反射光が彼を惜しげなくぎらぎらと照らし、その表情は靄がかったように見ることができない。このまま彼を見上げていると目が焼けてしまいそう。遠い。

 ──いつまで寝そべっているつもりだ。

 そんな怒号が今にも聞こえてきそうで、鉛のような身体をやっとのことで起こす。マスターはゆっくりとこちらに歩いているところだった。泰然とした、強者の余裕の歩み。そして一言、

「顔を上げろ」

 その言葉に怒気が一抹滲んでいて、おれはまたお説教かと辟易した。

 おれらはユートピア随一の問題児だ。平等から外れるために、好奇心を満たすために、おれらは何でもしてきたから。


 マスターの説教は子供にとってはひどく恐ろしいものだった。厳めしい顔、自分より大きな体躯、鋭い口調、それからごく稀の折檻。けれど、それももう慣れた。

 慣れとは強さであり弱さである。


 すぐさまおれは今までしてきた悪戯を思い浮かべる。

 遊んでいるうちに箒を追ってしまったこと、落とし穴を掘ってそのままにしたこと、公共の物である壁にこっそり身長記録をつけたこと。

 本を一冊ちょろまかしたしたことだと罰が軽そうだからいいなあ、なんて現実逃避の思考を巡らせる。 

 心当たりがありすぎるほど、おれらは悪いことをしてきた。きっと今から楽しいお説教の時間だ。


 マスターへの反抗の証として、決して顔を上げなかった。完全なる無視の姿勢。

 これはマスターの怒りの沸点を見極めるためでもある。おれの、おれらの好奇の対象。だから悪戯はやめられない。

 しかし、マスターは決して怒りはしなかった。今日だってそう、いつもどおり穏やかさを纏っている。

「返事は?」

 そう、マスターの全てには余裕があった。声音、仕草、佇まいの全てに余裕という余裕が滲んでいる。ここでむやみやたらに殴り飛ばすような野蛮な教官ではなく、だからこそ手強いのだ。

 俯いたまま思考を巡らすおれにマスターはまたもや口を開いた。


「顔を上げろ。――『カイン』」

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