『慣れない痛み』 〜職場でのお話〜


 食後の体温も飽和し始めた午後二時半。

 こぼれそうになる欠伸を噛み締めながら、恭平きょうへいはモニターの電源だけを切る。ちょうど今、機能設計が一つまとまったところだった。

(…コーヒーでも淹れてこよ。)

 ぼんやりした頭のまま、恭平はマグを持って自席を立つ。ドリンクサーバーはシステム室を出たすぐの、休憩スペースにある。

 他の社員の集中の邪魔にはならないよう、静かに歩いて、部屋を出る。午後の日差しがブラインド越しに射し込む休憩スペースは、静まりかえっていた。


(……あれ。)

 静か、すぎて気がつかなかった。

 人の気配が、遅れて感じられた。薄くぼやけかけの視界で、目を凝らす。すると、ドリンクサーバーの更に奥の、部屋の隅に見知った人物が映った。

「……っ…」

 濃紺のマキシスカートに、白いブラウス、厚手のジャケットを羽織っている女性。俯いた顔から、長い髪が揺れている。彼女は、半年ほど前に中途で入社した、尾関おぜきさんだ。

 彼女の研修の際、恭平も何度か講師の担当になった。わずか数回の研修と、別の社員のOJTで業務に取り組んでいる姿を垣間見ることでしか、接点はなかった。ただ、真剣に話を聞いて、ひたむきに業務と向き合っている彼女の姿は、印象にちゃんと残っている。

 その尾関が、休憩スペースの隅で今にも縮こまってしまいそうだった。

 前かがみの顔はやけに青白い。腕は腹部のあたりを恐る恐る撫で擦っているようだった。

 彼女の座る前に設えられたテーブルの上には──紙コップと、アルミのシート。空っぽになった二つの突起が、無造作に転がっていた。


「……尾関さん、」

 彼女の近くへと、恭平はゆっくり歩み寄る。二メートルほどの距離を保ったまま、ほんの少し屈んで目線を合わせた。

「っ……ぁ」

「体調、どうされましたか?」

 そっとやわい声を努めて、恭平は彼女に問いかける。俯いた顔は、はっと目を見開いて、折っていた背を伸ばしてしまった。

「──いえ、あの、大丈夫ですっ……お気になさらないでください…」

 それは、体調のわるさを認めている、と解釈していいのだろう。 現に、彼女の額には脂汗が浮かんでいる。顔色は、チークの紅でも隠し切れないほど青白い。

 きっと、男性に訊かれたり、見られたりすること自体が不本意だし、怖いだろう。そうとは理解しているが。ここで放ってしまえるほど、恭平は他人に無頓着ではなかった。というか、倒れてしまったりしたほうが、たぶん騒ぎになってしまう。

 恭平は言葉を選びながら、尾関に尋ねかける。

「…医務室の場所はわかりますか?」

「っ……いえ…」

「案内しますから、落ち着くまでここで休んでいて大丈夫ですよ。」

 無理はなさらないでください。

 そう伝えると、尾関は細くまっすぐな眉を下げて、きゅっと顰めた。同時に、俯いてしまう。

 体調が何らかよくないのも原因だろうが。明らかに気落ちしているその表情が、恭平も気にかかる。休め、と言われるのがそんなに不本意だったのだろうか。あるいは休んでいられない急務があるのか。逡巡しかけた恭平に、尾関は無理に曖昧な笑みを浮かべて答える。

「っ……そんな、大層なことじゃないので…」

「あまりそうは見えませんが…」

「……ちがうんです。」

 小さく唇を動かす。

 ぼそり。恭平にだけ聞こえる声量で、彼女はこぼした。


「……っ、生理痛なんで。」

 青白いはずの頬に、チークではない赤がじんわりと浮かんだ。恭平から目を逸らして、打ち明けたその様子。やるせなさと、やり場のない苛立ちの宿る、鋭い眼。こんな姿を見られた不本意に、こんなことを言わないといけない不本意が重なっている。


(……それは…)

 どう考えても、恭平に伝えるのは憚られただろう。いくら言葉尻が柔らかくても、目線を低く合わせても、恭平は立派な男性だ。自分も男性である帰属意識に、違和感は別段ない。自認としてシスジェンダーであり──彼女からもそうだと認識されている。無論それは、いずれも間違いではない。


 ──自分のからだのこと、誰かに伝えるのは大事なことだ。

 だけど、その重さと同じくらい、本人にとっては難しいことだって、恭平は最近漸く実感を得た。

 幸喜と暮らし始めてから、彼のからだの事情を知ってから、当事者の気持ちを慮れるようずっと気には留めていた。無遠慮や自分の偏見のせいで彼を傷つけたくないし、それでは保護者の責任を果たせているとは言いがたい。そうして信用を積み重ねた先で、事情を教えてくれたとき。本人は何と思っているのか、──あくまで幸喜の場合だが、彼は確かに言っていた。


『怒んねーの…?』

『……んなの、普通じゃないって、わかってる…から……』

 彼はひどく恐れていた。

 恭平から、今までの誰かと同じように、傷つけられるかもしれないことを。


 目の前の尾関も──きっと。

 投げやりに皺を寄せた眉。俯いた首、だからもう構わないでくれ、と唇を噛む姿。幸喜と似た表情の意味を、恭平は知っていた。

(──怖いんだ。)

 〝そんなこと〟って、言われるかもしれないのが。


「……すみません。でしたら──」

「………」

「尚のこと、無理をせず休んでください。もし急ぎの仕事があるなら、僕が代わります。」

「……えっ?」

 ゆっくりと返答を紡いだ先で、尾関は目を瞬く。全く意図していたなかった言葉だと、身開かれた瞳が物語っている。

 目を剥いたまま硬直する尾関に、恭平は丁重に言葉を続ける。

「自分の意思でどうしようもない痛みは…決して、〝ただの〟ではないと…僕は思います。月経痛も、自分でコントロールできるものではないでしょうし、尚更です。」

 事実として、他人の痛みをべつの他人が決めるのは傲慢が過ぎる。

 知識として、女性が生きる上で直面する不都合、不合理も、恭平は見聞きしたことならある。自分のセクシュアリティのコミュニティの傍らには、社会で最も数の多いマイノリティ──女性がいて、彼女たちがどんなことで苦しんでいるか、抑圧されているか、幾多の〝つぶやき〟や訴えを垣間見ることがあった。生理も、その主題の一つだった。


「っ……」

「何か…そうだ、少し待っていてくれますか?」

「え?」

 一言と安心してもらうための微笑みを残して、恭平はおもむろに立ち上がる。足早にシステム室の自分の席に戻る。デスクの上から三段目の引き出しを開けると、箱に入った 包装の束が目に入った。その中の一つを手に取って、恭平はそそくさとまた自席を離れる。

 尾関の前には二十秒と経たずに戻ってこられた。またそっと膝を折って、彼女へとそれを差し出した。

「これ、もしよろしければどうぞ。」

「…カイロ、ですか?」

「えぇ。抽選会で当たったんですけど、全然消費できなくって。」

 そう言うと、尾関はこわごわとカイロの一袋を受け取ってくれた。ありがとうございます、と消え入りそうな声で彼女はささやく。じきに、包装を解いて、熱を持ち始めたカイロを手のひらでくるんだ。青白かった指先に、かすかな肌色が灯るのを見て、恭平は柔らかく微笑む。

「…ほかに、心配なことはありますか? 僕に話せる範囲で構いません。」

 仕事のことも、ご体調のことも。なんでも。

 恭平がやんわりと問いかけたときだった。目の前の尾関はおそるおそる、首をもたげる。


「……どうして、ですか…」

「…?」

「使えない奴だ、とか、思わないんですか」

 はくはくと、彼女は息を継ぎながら呟く。眉を顰めたままなのに、眼は真実を見定めるようにまっすぐ恭平へと向けられている。

 瞬間、切実さを痛感した。

 やはり尾関にとって、これは二重の痛みの記憶なのだ。すべてを言われずとも見当のついた恭平は、自分の価値観を丁寧に言葉にする。そうして、尾関の記憶という抑圧をも解けるように。

「そういう酷い言葉を、僕はどなたに対しても使いたくないですね……それに、僕だって体調が悪いときは休みます。」

「……」

鎌田かまたさん…課長に言いにくければ、村上むらかみさんに伝えてもいいと思います。…彼女ならたぶん、上手いこと根回ししてくれますから。」

 無遠慮なこともまあ言うが、立ち回り上手の上司を思い浮かべながら、恭平は告げた。

 セクシュアリティ含め恭平の隠している事情はさておき、少なくとも真正面から悪意や暴言で攻撃してくる社員は、このシステム室には──今のところいない。小さな偏見の数々の棘は、事実として自分に突き刺さっているが。それは、恭平から尾関に対しても起こりうる事だ。

 僕は女性ではない。

 月経の痛みもわからなければ、心身が原因の腹痛だってほぼ経験がない。

 ならば、配慮が不可能なのか。

 この問いに、恭平は首を横に振る。


「…ですから、尾関さんはご自分の体調のことを最優先して考えて、いいんですよ。…傷つけてくる言葉を真剣に聞き入れる必要なんて、どこにもありませんから。」

 すべてを理解して分つことなどできない。それでも、ある側面、部分の類似を認めて共有することはきっとできる。現に自分は、〝傷つけられるかもしれない〟恐れを尾関と同様に知っている。

 彼女をこれ以上傷つけない言葉を選んだ上で、今彼女に必要な助けを提示する。それこそが、当事者でない自分ができる〝配慮〟だと理解して、恭平は尾関へまっすぐ伝えた。


「………っ、すみません」

 わずかに洟を啜りながら、尾関はこぼす。眉間にあった顰められた眉は、次第に元の曲線を取り戻している。目元を何回か指の関節で拭った彼女は、か細い声で恭平へと打ち明けた。

「… 中継サーバの申請書…っ、今日までに出さないと間に合わないんです…」

 お願い、しても、いいですか。

 実務に就いてからの経験が少ない尾関にとってその仕事は、少々手間取る作業のはず。しかし勤続七年になる恭平であれば、三十分とかからず終えられるだろう。

 彼女の切実な頼みと信用を、恭平は聞き逃さず、しっかり頷いた。

「──はいっ。任せてくださいね。」

 頼ってくれて、ありがとうございます。そう恭平が返せば、尾関は眉を八の字に和らげて、静かに頭を下げた。


 その後、尾関と意思の確認をして、村上さんには体調が優れないと伝える運びとなった。結果。村上さんの巨大な世話により、医務室へ行くことになった尾関と、付き添いの村上さんを見送り。恭平は尾関の仕事の一部、頼まれた急務を無事遂行した。尾関がシステム室へ戻ってきたのは、定時直前の頃だった。



***



 数日後。端末の整備のために作業室へ赴いていた昼下がりだった。

 淡々と作業を進めていた最中、ふと、持ち込んだマグに淹れたコーヒーを飲もうと、口にしたとき。

 隣の部屋──休憩スペースから談笑の声が漏れ聞こえてくるのに気がついた。耳をそば立てるつもりなどなくとも、聞き慣れた声色は鼓膜に突き刺さってきた。


「──そりゃあ、橋口はしぐちくんはシステムの男子の中でいちばんからねぇ~」

「っ゛────」

 思わず咽せそうになる、のをよく堪えた。

 誰、と考えなくてもその声の主は間違いなく、あの村上さんだった。仕事の話から一線を引いた、世間話のときの朗々とした調子。

 口を右手で覆いながら、恭平は明後日の方向を睨む。

 ──なんだ、なんでそんな話題に。ていうか〝女々しい〟って、何──? それ、もしかしてカマくさいって意味じゃ──。

 困惑が頭を駆け巡る恭平をよそに、壁一枚向こうからは会話が絶えない。どうやら村上さんのほかにも女性社員がいるらしい。声の数からすると、村上さん含め四人ほど。

「あ〜、たしかに。橋口さんて、語尾の跳ねかた女子っぽいですよねぇ」

 庶務の女性の声。いやそれ女性にとっても偏った見方すぎないか。

 けれども「そう、それ!」と村上さんは軽やかに笑って返す。悪口でも悪気でもなさそうな、賑やかな笑みの輪の中に、

「……そうなんですか?」

「───っ」

 どうやら、先日の尾関もいるようだ。

 硬めの低い声色から察するに、村上さん含め彼女たちの言うことすべてを真に受けていなさそうなのが、唯一救いだと思った。

「そもそも、なかなかいないわよ〜、生理のことそんなストレートに気遣える〝男〟って。」

 しかしどうも話題は、先日の尾関との一件についてらしい。そう悟って、恭平は内心汗まみれになる。いや、別に誰も悪くないし、尾関を責めるつもりは毛頭ないけれど──村上さんはそういう〝世間の話題〟が大好きな人だから。

「いいなぁ〜、絶対に優しくできるタイプですよ」

「えっ」

「んにゃ、彼そのへんは何回聞いても教えてくんないのよ。トップシークレットってヤツね。」

 ──こうして、当たり前のように女性が恋愛対象だと思われてしまう。

 実際、その配慮や尊重──彼女たちの言葉で言うなら〝優しさ〟が向けられる相手は──決まっているのだが。恭平のセクシュアリティどころか私生活を知らない人たちにとっては、その人にとっての理想と〝普通〟を当てはめる装置になってしまう。

 音にはできないため息を漏らしつつ、恭平は端末の手前でおもむろに顔を伏す。作業が手につくはずもない。僕がここにいると知られたらたまったもんじゃない。やり過ごそうと、気配と息を必死で潜め続けた。

「尾関ちゃん、そんながっかりしないの!」

「なっ…何がですか…! 私は別に……」

 尾関の急に慌て出した声はこちらにも届いてしまう。回避しようのない盗み聞きの罪悪感が募る。いっそ耳を塞ごうかと、思った矢先。壁の向こうの彼女が、ぽつりとつぶやいた。

 その声は、ひどく、あまい響きだった。


「──ただ、優しい人だなって、思っただけですから…」


(────それは……)

 純粋な好意なのか。

 あるいは、別種の感情を含んでいるのか。

 一歩、考えようとしてやめた。僕は優しいわけじゃない──自分が傷つくのが嫌なだけ。だのに、もしこの予想が後者で正解なら、どのみち彼女を傷つけてしまうだろう。自分は、どう考えても何を間違っても、彼女の望む結末は起こり得ないのだから。


 尾関の一言に、向こうの世界では微笑ましそうな声が色めいている。

 だがそんなとき、別の足音が休憩スペースへと向かうのが、恭平には聞こえた。

「村上さーん、営業からお電話ですー」

「あっはーい! ごめんね、じゃ私はこれで〜」

 そうしてパタパタとシステム室へ戻っていく足音。それから程なくして、休憩スペースにいた気配と声も、散り散りになる。


 やっとがらんとした隣の部屋の空気を察して、恭平は顔を上げた。ひどい疲労感が身体を支配している。

 さいあくだ。

 そう約数分間項垂れてから、恭平はデスクに置いていたマグを持った。ぬるくなってしまったコーヒーを飲み切って、作業席を立った。今なら誰もいないはず、と扉を開けて、ドリンクサーバーのほうへ向かった三歩目だった。

 システム室との通用口の途中で、──自分ではない誰かの足音が止まった。


「………ぁッ」

 尾関だった。

 手には白のハンカチを持っている。大方、休憩スペースを抜けた先の、トイレにでも行くつもりだったのだろうか。

 目がばちりと合った瞬間。彼女の頬はみるみるうちに紅く染まっていく。

 その反応に顔では動じず、恭平はにこりと笑んで会釈をする。まるで、何も知らない顔。自分の表面を取り繕うことには、もう随分慣れているのだから。

「──お疲れ様です。」

「あっ、すみません…お疲れ様ですっ」

 そそくさと恭平の隣を抜けていく尾関。振り向くまいと小走りのその姿。背恰好に覗く、耳の紅色。不自然なほど焦った様子は、普段の冷静な彼女には考えられない。僕が、そうさせてしまったのだ。


(………まずい事になったんじゃ…)

 つぶやきを胸の内側に秘めて。

 恭平はドリンクサーバーの前で人知れず、頭を抱えたのだった。



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