『いけない日』 〜不登校のお話〜


「明日、朝から出かける」

 石ころのような、投げ出された言葉だと思った。視線を宙へ浮かせたまま、そう発したのは、ソファに腰かけていた幸喜こうきだった。


 リビングのダイニングテーブルで、ノートPCに向き合っていた恭平きょうへいは。目をぱちくりさせながら、相槌を返した。

「そう…用事?」

「……ん。まぁ、そんなとこ。」

 ぼそり。静かに答えたそれ以上、彼は言葉を続けようとしなかった。

 そんな幸喜の横顔を恭平は茫然と見つめる。自分の視線と、彼の目線が合わない。恭平からそっぽを向いたまま、手元のスマホと睨めっこしている。

 ──妙に、落ち着きがなく見えるのは気のせいだろうか。恭平の心に、薄ら不安がよぎった。

「……何か、僕が手伝えることある?」

 思わず口にしていた問いかけに、目の前の幸喜がびくりと小さく跳ねた。横顔を振り向かせた彼は、恭平を驚いた目で見据える。

「え、」

「いや、ほら。何時に起こしてほしい、とか。いつもより朝ごはん早く用意しようか?」

 誤魔化すのと同義の言葉は、ぽんぽん浮かぶ。この空気感に似つかわしくないくらい、恭平は朗らかな声色になってしまう。けれど、幸喜はかえって申し訳なさそうに眉を下げていた。

「いい、別に。そんな遠いとこでもないし…」

「…そっか。」

「………学校で課題受け取るだけ、だから。……いつも通りで、いい。」

 未だ目こそ合わないが、幸喜は素直な言葉で教えてくれた。どうやら、用事は学校に行くことだという。おそらく学校に行っていない分の課題やら、配布物やらを受け取る必要があるのだろう。


 幸喜とともに暮らし始めて、二週間以上経つ。

 今までの生活の中で、幸喜が学校に出かけていく姿を、恭平は一度も目撃していない。たとえ在宅勤務で、家にずっといるときも。その原因は言うまでもなく、幸喜自身が学校に行かない選択をしているゆえだった。

「わかったよ。ただ…何かあったら教えてね。」

「………」

「僕、明日在宅だから、連絡くれたらいつでも返せるから…ね?」

 眼鏡の奥で、恭平は柔らかく微笑む。穏やかな表情のはずなのに、瞳には真剣な鋭さがあった。深海によく似た、暗いバイオレットの眼。彼に見つめられると、取り繕う言葉は思いつかなくなってしまう。

「……ん…」

 結局、二の次の言葉は浮かばず。幸喜は音だけで頷いて、恭平に背を向ける。会話を止める意思だ、と理解すれば、これ以上何を言う事もできない。恭平が視線を手元のPCに落とすと同時に、リビングは夜の静寂に容易く包まれた。



***



 幸喜がいわゆる、〝不登校〟という状況なのは知っている。

 同時に、学校へ行かない分の学習を、昼間一人でじっくり進めていることも、同居人の恭平はちゃんと知っている。外界との接触だって、幸喜はバイトをしているから決してゼロではない。

 不登校という現状に、別段恭平は心配している訳ではない。将来的にどうとか宣うのは、大抵当事者以外の部外者だとよく知っているから。

 ただ──心配していないのは、彼のに着目してだけの話だ。


 ──なぜ、学校へ行かないという選択をしているのか。

 あるいは、そもそもそれは「〝行かない〟選択」なのか、「〝行けない〟限界」なのか。そんなを、恭平は知らない。

 学校には行こうが行くまいが、恭平にとってはどちらでも構わない。ただ、不登校の原因がもしあるとして、それが幸喜のこころに傷をつけているのなら──。

(……心配だなぁ…)

 心配という二文字では収めきれないほど、胸がざわついてしまう。保護者という立場も無論だが、恭平の場合、きっと半分以上はそれだけじゃない。

 自分も学生の頃、努力しても変えようのない事で、同級生から傷を負った。自分の尊厳をずたずたにされた経験は、十年以上経った今でも恭平の心で膿み続けている。

 学校へ行かない幸喜の姿に。まるで自分の傷であるかのように。否、間違いなく、恭平自身の傷が共鳴している。──自分のように、傷ついてほしくない。そんな思いは、間違いなく恭平の中にあった。


 だとしても。

 こころに土足で踏み込んでまで、──彼を傷つけるリスクを犯してまで、聞く事でもない。

 だからこそ。

 傷ついてまで、話してくれなくていい。


 話したくないことを内側に守っておく権利は、誰の心にも確固としてある。たとえ保護者でも、他者である限り侵犯してはならない領域なのだから。

 きみのこころを守るために、胸にしまうことを僕は選ぶ。

(…きみにとっての、学校って場所は…どんなふうに映っているんだろう。)

 問いを抱いたまま、今はまだこの距離で接するほかないのだった。




 翌朝。

 普段と同じ時間に起きて、朝食の準備を進めていたところで、廊下の方から機械的な水流の音がした。先ほどから物音と気配を感じていたから、おそらくトイレを使っていたのだろう。その数秒後、リビングのドアが軋みとともに開かれた。やわいきんいろの髪が、ほのかな暗闇から覗いた。

「おはよう。」

「…はよ。」

「もうじきご飯できるからね。…あれ、」

 リビングに入ってきた幸喜の姿を見て、恭平は目を奪われた。何故なら、今まで見たことのない装いをしていたために。


 テーラードカラーのジャケットの胸元にあしらわれたポケットと、校章らしきピンバッジ。第二ボタンまで留めたシャツの襟は、新品くらい形が整ったままだ。脚も、タックの山折りが真っ直ぐなままのスラックスを纏っている。初めて──いや、正確には、二回目に見る彼の制服姿だ。

 恭平のまじまじの視線に気付いたのか、幸喜は所在なさげに、恭平をじとりと見遣った。

「……なに?」

「いや…新鮮だな、と思って…」

「…俺が制服着てちゃ、おかしいのかよ。」

 ぷい、と横顔を向けてしまう彼に、恭平は苦笑しながら言葉を紡いだ。

「おかしくはないよ……幸喜くん、フォーマルな格好も似合うじゃない。」

 将来スーツ選ぶときは、僕も同席させてね。

 わざとぽわぽわした声色で、恭平は提案する。一応、実際そんな日が来たら全力で協力するつもりだけど。

 しかし、当人のそんな未来への実感はないようで。幸喜の横顔に反応はなかった。


 恭平お手製のベーコンエッグと味噌汁、小鉢一個分のサラダ。お茶碗一杯ぶんのご飯。二人とも残さず完食して、各々今日の支度を始めた。

 恭平が後片付けと並行して在宅のPCのセッティングを進めていたとき。幸喜が、廊下の個室に入っていく姿が垣間見えた。そこまで時間はかからず。ほどなくして彼は、水流の音とともに出てきた。その様子を目撃した恭平の旨には、漠然とした「大丈夫かな」がちらつく。

 ──緊張、してるのかな。

 不安が著しいとき、トイレの心配も同時に増えてしまう彼だ。ただ頻度が増えているだけなら、こまめに行く、の対処ができるけれど。公共交通機関ともなると、行けるタイミングも限られてしまうだろう。

 悶々と、自分ではないひとの心配を募らせている恭平なんて知る由なく。幸喜はショルダーバッグを肩に掛けて、リビングのほうを覗いた。

「…行ってくる。」

「あ、うん。気をつけてね。いってらっしゃい。」

 首もとに巻いたグレーのマフラーに、顔を埋めるみたいにしながら。恭平と一瞥を交わした幸喜。その背中は、玄関のほうへと遠ざかっていく。ローファーを履くために屈んだ背中が、小さく見える。

 がちゃり。

 がちゃん。

 玄関のドアが開いて。一瞬流れ込んだ冷たい空気は、ひやりと恭平の首筋にも届いた。その冷気に振り向いたときにはもう、幸喜の姿はなかった。



 随分静かになってしまった家の中で、恭平は在宅勤務の支度を進める。PCとモニターをダイニングテーブルに設営しながら、ふと先ほどの幸喜の背中が頭をよぎる。

(そうだよね。確かに、子どもではあるけど……十六歳だ。)

 恭平から見れば、幾分小さく見える背中だけれども。

 自分で決めた選択を、自分で貫ける子なのだろう。廊下で、立ち止まらなかったのも、後ろを振り向かなかったのも、その表れだ。

 ──僕が心配する必要なんて。

 心配性でおくびょうすぎる自分に苦笑が漏れる。今自分にできるのは、彼が帰ってきたときの昼食の献立を考えるくらいだ。そう認めて、自分の仕事に専念しようと気持ちを切り替えた。


 モニターのHDMIを在宅用PCに差し込んでから、もう片端の電源プラグを差そうと、テーブルの下に屈んだ。壁の隅っこのコンセントを見つけて、左右を正しく挿れた。立ち上がろうと、テーブルに手をついたとき。もたげた視界に、椅子の上に置かれた何かが見えた。機械的な反射の艶と、黒い十六対九の画面。よく見慣れた物体で、見覚えのある持ち物だ。──自分ではなく、幸喜の。

(──スマホ。)

 確かに、その椅子は朝食のとき幸喜が座っていた席だ。

(え? 忘れた…ってこと?)

 何らか、ポケットから滑り落ちるとかして、気づかなかったのだろうか。──とにかく、このご時世スマートフォンがなければ大変に不便な事態に陥ってしまう。職業柄、デジタル機器に身を委ねている恭平にとっては、それは非常事態に思える。

(忘れてるよって、メッセージで……いや、意味ないじゃん!)

 普段連絡を取り合っているメッセージアプリを起動しようと、自分のスマホを開きかけて、思いとどまる。焦り過ぎだ。彼が持っていないスマホに、連絡をかけてどうする。


 ええと。ええと。ままよ。恭平は幸喜のスマホを手に取る。自分のスマホと合鍵だけは携帯して、リビングのドアから廊下へと駆けだした。

 ──まだ近くにいるかな?

 モンクストラップを忙しなく履いて、勢いよく玄関戸を開けた。


「………えっ、」

 エレベーターへと続く、マンションの廊下の半ばに。

 腹部を押さえてうずくまる幸喜の姿があると気づいたのは、直後だった。



***

 


 『課題と配布物を受け取りに来てくれないと困る』。担任からかかってきた電話口で、開口一番そう告げられた幸喜は、その時点で顰めた表情をしていた。

 幸喜の担任は、なんだかんだで幸喜の不登校を──いい意味でも悪い意味でも甘く見ていた。授業の出席の代わりに、課題やって成績さえキープできてるなら、今のところはお咎めなし。次の定期試験が来るまでは、差し当たりこの状態でも別にいいと放任されている。あくまで、今のところは。

 ただ、担任の言う事は極力のんでおかないと、後々どうなるかわからない。そんな不安は間違いなくずっとあって、幸喜は担任からの要請を断れなかった。──行ける気がしないんですけど。なんて、とても言える台詞じゃなかった。


 でも、今。

 玄関の敷居の踏み越えた瞬間。

 「行けない」と言えなかった自分に、深く、後悔した。


 昨日の夜、恭平に出かけることを伝えたときから。幸喜のお腹は軋みはじめていた。きゅう、とつねられるみたいな違和感に気づいてしまった時点で、もう、だめだと幸喜にはわかっていた。それでも、担任へ「やっぱり行けません」と居直るなんて到底できそうになかったから。気づいていないふりをした。普段通り次の朝を迎えた。恭平の作った朝食も、ぜんぶ食べた、のに。


「っ………く、っ」

 歩かなきゃ、進まなきゃ。ここで行かなかったら、担任の機嫌と自分への風当たりはきっと最悪になる。

 そう自分を律して両脚をそろそろと踏み出す。お腹をかばうように、左手で押さえながら。けれども木枯らしと、当てた手の冷たさに、さらにきゅっと痛覚がかじかむ。次第に痛みはじくじく身体のおくへと響きだしてしまう。

 ──課題受け取るだけだ。何も教室に行く訳じゃない。すぐ帰ってこればいいだけ。できるだろ、行くだけだ。できなきゃだめだ。たったそれだけのことが、できなくてどうするんだ。

 でも、途中で──同じクラスの誰かに遭遇したら? 

 『せっかく来たんだから授業受けてけよ』と担任に言われたら? 教室に連れていかれたら? と同じ空間にいたら──。


 一度芽吹いた不安は土に還らず、幸喜のこころとお腹を占領する。お腹は雄弁に、ぎゅうっと心臓ごと掴まれた痛みに唸りはじめる。

 ──前のときより、もっと痛い。

 恭平と暮らしはじめるより前、愛翔まなとが、いた頃の同じ状況より。ずっと、ずっと。

 お腹が、食べたものが入るところと違う〝どこか〟が痛い。

 きゅっと締めつけられる痛みは、昨日の夜よりはるかに強い。立っているのも限界で、くたりと膝を折った。同じマンションの人の通行のじゃまになってしまうから、廊下の壁にしゃがんだ身体をもたれかけた。粒状にコーティングされた壁に、スラックスの繊維が、ざり、引っかかってちぎれた。そんな光景を、眼球はストップモーションのように捉える。視覚の刺激すら、お腹の痛みに変わる。

「──っ、ぁ、う…っ」

 ぐわりと壁の乳白色に目が眩む。

 折り込んだ両脚が、薄い身体を圧迫する。息が詰まって、不快感がこみ上げる。


 ──痛い。

 それ以外に形容しようがない。

 目の前がゆがんでいく。このまま、ここで気を失って、もう家に帰れないんじゃないか。死んでしまうんじゃないか。──愛翔、みたいに簡単に──そう思えば忽ち、きゅうきゅうお腹の軋みはひどくなる。

 ──つらい。

 いけない。行けるわけがない。ちがう、行けないのはお腹のせいじゃない。

 おなかは、幸喜のほんとうのきもちを、ただ代わりに訴えているだけなのだ。この臓器は、こころとつながっているのだから。

 だから、嘘をつくことも意味がなくて。

 自分の本心が自分に突き刺さって──ただただ、つらくてたまらない。

 きつく目を閉じたとき。目の縁の冷たいものが、目頭に流れ込んできそうになった瞬間。



「──幸喜くん!?」



 やさしいひとの、慌ててるのにあったかい声が。背中のほうから聞こえてきた。



***



 見間違えるはずもないかった。暗いきんいろの長い襟足、先ほど見送ったばかりの小さな背中が、今はより小さく見える。廊下の壁にもたれて、片手を壁に、もう片手を自分のお腹に当てている幸喜。恭平はたった二十メートルほどを駆けて、彼の傍らで屈んだ。同じ目線で、真横から尋ねかけた。

「──どうしたのっ…!? 動けなくなっちゃった…?」

「っ…きょーへい、さ…」

 彼の赤い目元に浮かんだ涙は、今にも輪郭を失ってこぼれてしまいそうだった。本当につらいのだと理解して、恭平は「背中、さすってもいい?」と問いかける。間髪入れず、幸喜は頷いた。

 震える背中を、人より大きな手でゆっくりと撫でながら、恭平は努めて優しい声で訊く。

「…お腹の調子、よくない?」

 幸喜の左手は、衣服もくしゃくしゃにして、お腹を守るみたいに全体を押さえていた。原因があるとすれば、そこだと検討をつけて、恭平は問いかけた。

 彼の薄い背中をさすり続ける。

 詰めていた彼の呼吸は、次第に恭平の手の動きと同じ速度へ変わる。その一拍の間隙で、幸喜は声を絞り出した。


「……っ、…おれ…」

「うん。」

「…おなか、いたぃ……っあるけな、い…」

 ぎゅうっと目蓋を閉じて、幸喜は眉を痛みで歪ませる。目尻に浮かんだ雫もこぼれ、ぽたぽたと床のコンクリートに痕を刻む。背を丸めて、身体を抱くように縮こまってしまう。

 ほんとうに限界なひとのかたちだ、と恭平は思った。俯いてしまった顔を覗き込みながら、そっと言葉をかける。どうすれば、彼のために最善なのか、頭をすべて駆動させて。

「お腹が痛かったんだね。…教えてくれて、ありがとう。」

 痛みが落ち着くまで、ここにいても──と言いかけるが。こんな寒空の下にいたら、体調が悪化するのは火を見るより明らかだから、提案した。

「──僕の背中、乗れる?」

「…っえ?」

「家に戻ろう。おぶっていってあげられるから…僕にもたれてくれる?」

 そう言って、恭平は自らの背中を幸喜へと広げて見せる。大きな、がっしりとした厚みのある背中。

 頷くのの代わりに。今持ちうる最後の力を振り絞って、幸喜は自重ごとを恭平の背中に寄りかかる。ふらついたその両脚を、恭平は両腕でしっかりホールドした。よっと、徐々に体勢を整えてから、幸喜を背負ったまま重心を前へずらして、恭平は二本足で立つ。幸喜は思っていたよりずっと軽かった。

「しっかりつかまっててね。あとちょっと、だからね。」

 温もりの消えない声が、わずか二十メートルほどの距離を励ましつづけてくれていた。冷えきった汗の乾いた手で、恭平につかまったまま。幸喜は、振り返らないはずだった道を引き返すことになった。



***



 リビングのソファに幸喜をゆっくりと降ろす。くたりと力を抜いて浅い呼吸する幸喜を認めて、恭平は「ちょっと待っててね。」と裏地にボアのあしらわれたブランケットと、今日使おうと思って充電していた湯たんぽを、恭平は自室から持ってきた。背筋を丸める幸喜の腕へ湯たんぽを預けて、背中にブランケットをかぶせる。

「外、寒かったよね……家までよく頑張ったね。もう大丈夫だよ。」

 彼の真正面に恭平は屈む。そして、ブランケットの上からゆっくりと、幸喜の背中を撫でた。


 じんわり。恭平の手のひらはあたたかい。

 何も言われず、何も問われず、ただただ背中をやさしくさすられる。自分よりずうっとあったかい体温と、大切なものに触れるときの手つきが、布越しでも伝わってきた。

 ぶわり、と堪えていたあついものが溢れるのに、そう時間はかからなかった。


「…………っ」

「──幸喜くん…からだ、しんどい?」

 ぼろぼろ、幸喜の目から雨が降り出す。

 止めるすべなく溢れ続ける涙。懐からハンカチを取り出して、恭平は幸喜へと差し出す。おずおずと受け取ってくれた右手は、ずっと震えていた。

 恭平の問いに、首は縦に振れなかった。

 だってもう、お腹の痛みは幾分と和らいでしまっていた。恭平と自分の家という馴染んだ匂い、木漏れ日みたいなリビング、自分を受け止めてくれるひとの温度。ぜんぶに、「ここは安全だ」と知らしめられたから。恭平に、「ここにいていいよ」と言われたみたいだと、感じてしまったから。


「っがっこ、いけなぃ……」

「…ん?」

「いつも、こう、なんだ……」

 ぽつり、ぽつり。本当のきもちは、涙と一緒に零れ落ちていく。

「おなか、いたくなって……っ、いけない…ッ」

 休むって決めたら、痛くなくなるのに──。

 目の前の恭平にだけ聞こえる声量で、幸喜はつぶやく。恭平の顔は、見れなかった。視線を合わせる勇気なんてなかった。

 だとしても、彼は幸喜の背を撫でる手を止めなかった。


「……そっか。」

 柔らかく、落ち着きを残した声が、幸喜を包む。

「大切なこと、教えてくれて…本当にありがとう。」

 まっすぐな視線と言葉が、幸喜をまるごと肯定していた。思わず、視線を掬われた。ようやく見ることのできた彼の顔は──真剣な眼で、優しく笑んでいた。

「…前にも伝えたかもしれないけど、僕は幸喜くんのこころや、からだの安全が一番大切だと思ってる。」

「…っ……」

「行けないときも、──行きたくないときも…無理して行く必要なんてないんだ。」

 幸喜くんがいいなら、課題は僕が受け取ってきてもいいし、郵送してもらってもいい。連絡なら僕が代わったっていい。選択肢は、存外多くあるのだと恭平は教える。

 だから。

 恭平は彼を守るための言葉を繋いだ。

「大丈夫だよ。何があっても、僕は幸喜くんの味方だ。」

 それが、今の彼を守ること。保護者たる自分のすべきことだ。恭平は、大切な人から託された覚悟とともに、そう伝えた。

 おおきく見開かれた目が瞬く。

 トパーズ色の瞳に、ほのかな光が射す。ぽたぽたこぼれる涙が、二人の手を濡らした。涙の雨は、今の幸喜のこころと同じで、じんわりあたたかかった。


「………っ、きょーへいさん…」

「うん。」

「…やすみたい。いきたくない。っ、やすんで…いい…?」

 やっとまっすぐ合わせられた視線の中で。幸喜は恭平へ自分の気持ちを露わにした。

 決して蔑ろにはされないと、恭平の眼差しは背中を押してくれていた。

「もちろん。いっぱいがんばったんだ。元気になるまで、ゆっくりおやすみ。」

「…ん……」

 たおやかに笑いかけられる。恭平の笑みで、がちがちだったこころはするりと解けた。詰めていた息を、ゆっくりと解放していけば。からだいっぱいのぽかぽかと疲れは、幸喜を〝おやすみ〟の世界へと誘っていった。

 意識を手放したのは、わずか数十秒経たない頃だった。



***



 寝息が耳に届いたとき。恭平はずっと撫で続けていた彼の背中から、そうっと手を離した。

 湯たんぽとブランケットにくるまって、幸喜はソファでくったりと眠っている。睡眠の呼吸は先ほどより随分と穏やかで、恭平も少なからず安堵した。

(……そろそろ時間か。)

 ソファから、ダイニングテーブルのほうへ移動して、在宅のPCを起動させた。彼の睡眠を邪魔しないよう、タイプ音すらひっそりと制御した。


 リビングの壁を背にしたこの席からは、ソファで眠る幸喜の背姿が目に入る。やっぱり小さく見える背中だ。

 痛感すると同時に、彼が打ち明けてくれた言葉を思い返す。

 『いけない』

 『いきたくない』

(……あんなに、苦しそうな姿。)

 ──きみにとって学校とは──こんなにも〝安心できない〟場所なんだ。

 そんな窮地にいた幸喜に、少しでも手を差し伸べられたのなら。自分には、ここにいた意味があるといえよう。愛翔から託された責任だけじゃない。過去の自分のように、これ以上傷ついてほしくない。そんな──彼の尊厳を守りたいという恭平の意思だ。

 彼の目が覚めたら、あたたかなお昼ご飯とココアを作ってあげよう。仕事の手を進めながら、恭平はそう心に決めていた。



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