『おやすみの選びかた』 〜夜の心配のお話〜


 がさり。ビニールの中を手探る音が、やけに大きく聞こえてしまう。壁を隔てた廊下や、他の部屋にまで届いているんじゃないか。そう錯覚するほど、わずらわしいくらいの音。

(……今日、どうしよ…)

 袋の中の“数”を、手探りで確認する。

 コンパクトなのに、妙にふかふかな白は、残りあと三つ。それきりで、ビニールの中は空っぽになってしまう。まっすぐ見つめられなくて、幸喜こうきは目を逸らした。

 ──これを着けないと、安心して眠れない夜がある。そんな自分が、情けなくて仕方がないのだから。


***


 今年で十六歳になった幸喜。世間から見れば、彼は高校一年生という身分。体格は同じ十六歳男子の中では、平均の域を出ない。少々、痩せ気味かと思うくらい。

 けれど、他の高校生と決定的に“ちがう”ことが、一つ。二つ。…実際、数えだせば切りがなかった。その一番初めにカウントできるのが、今自身の目の前にある光景なのだ。

 クローゼットの一番下の引き出しに、幸喜の秘密はたいせつに隠してある。パッケージを隠すための、カモフラージュのタオルの壁の奥だ。

 ちらりと垣間見えるのは、「中高生用」「夜用パンツ」の文字。

 不安なときの、幸喜の夜の下着だった。



「………あぁもう、」

 迷っている自分にさえ腹がたつ。耳が熱い、きっと今鏡を見たら、もっと泣きたくなってしまうに違いなかった。

 一週間の半分は、こんな気持ちで夜を迎えている。起こるか起こらないかの二分の一の確率を心配して、対処できる材料を増やそうか思案する。

 絶対にだめそうな日、──例えば嫌なことがあった日や、身体と心がとことん疲れきっているとき。ならば、“使う”ことを選ぶ。それでも運が悪いと、受け止めきれずにあふれてしまうけれど。大洪水になるよりは、幾分ましだ。

 調子がいい日や、不安の少ない日は、“使わない”を選べる。そういうときは、自分の心が納得できているのだ。もし、が起きても防水シーツに任せてしまおうと、自分で決められる。

 ゆえに、どちらともいえない日が一番判断に困る。

 念のためと言って毎日使っていたら、あっという間に無くなってしまう。そうそう一人で買いに行けるものではないし、そのためにバイト代が消費されるのも、本心ではくやしい。

 何よりも、「これがないと安心して眠れない」がデフォルトになってほしくなかった。



「──幸喜くん、いる?」

「…っ!」

 ノックの音、三回。静まり返っていた部屋の空気が、ぶわりと震えだした。すぐに腕を引き抜いて、クローゼットを元に戻した。足早に、扉へと近づいて、ゆっくりとドアを開けた。

「…何?」

 思いのほか、冷たく零れてしまった声。すぐにしまった、と幸喜は後悔する。当然だが、別にこの人は何にも悪くないのに。

 扉の前に立っていたのは、紛れもなく同居人であり──今の自分の名目上の保護者、恭平きょうへいであった。

 寝間着のパジャマ姿の彼は、四角い眼鏡の奥で、バイオレットの瞳を瞬かせていた。普段は弧を描いている穏やかな眉が、八の字に下げられる。

「あ…ごめん。取り込み中だった?」

「…そゆうわけじゃ、ねぇけど…」

 彼と暮らしをともにし始めて、数週間で幸喜はなんとなく理解していた。

 ──この人は、すごく、気を遣うのがうまい人だ。

 特殊な環境や事情を持つ自分への配慮も、自分を慮ろうとするこころの動きも。何に基づいての行動なのか、幸喜にはまだわからない。けれど、天性のもののように、自ずと感じられる。それくらい、自然に幸喜へと振る舞っているよう見えるのだから。

「えっと、洗濯物渡すの忘れてたから。用件はそれだけだよ。」

 彼の手には、綺麗に畳まれた幸喜の衣類諸々があった。差し出されたそれを、幸喜はこわごわと受け取った。

「あ……わり。」

「ううん。それじゃ、おやすみなさい。」

 恭平はそのまま、自分の部屋に踵を返そうとする。幸喜に気を遣って、簡素な言葉だけを残して。

 その優しさに、じくりとこころが悴んでしまった。

「っ…キョーヘイさん、」

「…うん? どうしたの?」

 呼び止められるとは、彼も予想していなかったのだろう。振り向いた顔の瞳は真ん丸だった。深海のような瞳孔に、自分が映って見える。


 あまりにまっすぐすぎる視線に、二言目を失った。


「…………ぁ…の…」

 なにを言うつもりだったんだろう。幸喜は拳を、ちいさく握り込む。

 きっとこういうとき、相手が兄だったら──愛翔まなとだったら。よく言えばおおらか、わるく言えば大雑把な口ぶりで、彼のほうから言ってくれただろう。

 『心配しなくても、だいじょーぶだって』

 幸喜が俯いて、何も言えなくても。抱えている不安を言い当てて、ぐしゃりと髪を撫でてくれた兄。艶やかな金色の髪が乱反射するせいか、彼の笑みは文字通り光に満ちていた。不安で俯く幸喜へ、愛翔はこともなげに言うのだ。

 『オムツでも、パンツでも、どっちだっていーじゃん』

 あっけらかん、という言葉がよく似合う兄だった。

 『幸喜が、ちゃんと眠れれば、それでいいんだよ』

 いくら字義にデリカシーがなくても、根底には兄の絶対的な愛情があった。無条件かつ、無償の愛。その眩しさに目を逸らしそうになる視線さえ、彼は幾度となく掬い上げてきた。

 愛翔の笑顔に、彼のなんの根拠のない言葉に、幸喜は確かに安堵していた。事実を認める前に、愛翔は自分の前からいなくなってしまった。


「……幸喜くん?」

 今目の前にいるのは、兄じゃない。

 濡れた烏のような黒い髪。角張った銀縁の眼鏡、愛翔よりもっと大人らしい大人。いくら書類上の権利が愛翔と同じになろうと。恭平は、決して愛翔にはなり得ない。

 だのに、自分は何を期待して、彼を呼び止めたのか?


「……なんでも、ない」

「………ほんとうに?」

「……」

 恭平の眼差しから、目を外した。戸惑いへと変わっていく表情を、とうとう見るのが耐えられなくなってしまった。

 俯いて、拳すらほどくこともできない子どもを目の前に。それでも恭平は、決して距離を詰めることはしなかった。彼はおもむろに、膝をちょっぴり曲げた。幸喜と同じ目線になって、囁いた。

「…なにか、不安なことがあるの?」

 じわり。

 恭平の問いかけは、ひどく優しく胸に沁みる。

 こんな言葉、きっと愛翔は言わない。兄は、いつも幸喜の気持ちを見通していたから。──けれど今、恭平に言われて実感として湧き上がる。自分が今、不安と向き合っている事実に。

 これは、愛翔の優しさではない。

 彼なりの、恭平なりの優しさだ。彼が生きてきた上で培ってきた言葉と態度で紡がれた。そんな問いかけに無視はできなかった。

 幸喜の首は、かたく、縦に沈む。

「………部屋、」

「うん。」

「……はいって。」

 上げられない顔のまま、視線だけ彼を盗み見る。恭平の表情に、すでに戸惑いは残っていなかった。



***



 きぃ、と小さな音を軋ませて、二人はベッドの片隅に腰かけた。幸喜と恭平の合間には、拳みっつほどの間隙がある。

 ほんの少しだけ、体を幸喜のほうへ向けている恭平。穏やかに細められた視線が語る。彼は、幸喜が口を開くのを待っていた。待つことに、躊躇いも心配もないようだった。

「…………笑わねぇ…?」

「うん。笑わないよ。」

「………」

 聞くまでもない問いだった。

 恭平は幸喜の事情を、決して貶めることもない──どころか、どこまでも自分を尊重してくれている人なのだから。踏み切りをつける、最後の一手になって、幸喜は漸く言葉を絞り出す。



「……“夜の”、やつ…つけるか、迷ってて…」


 小さな小さな声だった。

 それでも、隣の恭平の耳にはしっかり届いたようで。彼は静かに、うん、と頷きを返す。

 にわかにぬくい頬のまま、幸喜はさらに続けた。自分を伝えるための言葉だ。

「…毎晩、使うのはやだけど……その、もし、し、たら……って思うと……」

 膝の上に置いた両手の力は、徐々にほどけていく。自分のうちがわの気持ちをこぼせばこぼすほど、やわい綿に力が吸い込まれていくみたいだった。最大の理由は、きっと──隣で見守ってくれる人がいるからな気がした。

 兄ではない、のに。

 今の自分は確かに、恭平の優しさに繋がれていた。


「…そっか。それは、すごく不安だよね。」

 ゆっくりと、恭平は頷く。視界の端に見える彼は、幸喜の真摯な視線を決して逸らしてはいなかった。

 言葉になった事実は、また幸喜のこころに芽生える。自覚として、自分の中に溶け込んでいた。

「……ん…」

「眠るの、心配になるよね……言ってくれて、ありがとう。」

「…べつに。」

 彼はよく、幸喜へそんな返答を付け足す。聞くたび、心臓の奥のほうがこそばゆくなる言葉だと思う。頼ったのは自分のほうなのに、そんな幸喜のじっとした視線を知ってか知らずか。恭平は問いかけを続ける。

「…やっぱり、着けてると寝心地ってあんまりよくない?」

「……ん。割と気になるし、その、暑かったりかぶれたりすんの…困る…」

 身体自体もそうだし、気持ちの面でも負担があるのは否めない。十六歳という年頃で、他者とのこんな差異を受け入れろ、というのはあまりに酷だ。

「あぁ…そうだよね。」

「…でも、着けてると…いざというとき安心だし…」

「うん。確かに、それじゃあ迷うよねぇ…」

「……だからって毎日だと…無くなるし、費用もばかになんねぇし…」

 幸喜の声は、次第にすぼんでいく。口をもごもごさせるみたいになってしまうのに。隣の恭平は依然と真剣に、頷きを返してくれていた。

 

 幸喜がすっかり口を結んでしまったのに気づいた数秒後。恭平は平穏な声色で、丁寧に言葉を繋いだ。

「…僕は、幸喜くんが安心して眠れるのなら、どんな方法でもいいと思うよ。」

 ──兄の言葉に、似ているようでちがった。

 根底にあるのは、幸喜を慮る優しさそのものだ。

「そのためにできることも、僕は協力する。必要な物は、足りなかったら買えばいいし……お金のことも、心配しないで。」

 しかも当たり前のように、恭平は幸喜の事情の物的支援まで引き受けると言う。確かに、立派な社会人として生計を立てて、こうして自分まで養ってくれている彼だ。経済的に、幸喜の何倍も余裕があるのだろう──といって、幸喜が素直に首を縦に振ることは、まだ当分できないけれど。

 ただ、「幸喜が困ることのないように」という思いは、恭平の言葉のすべてから伝わってきた。


「…だから、幸喜くんがどうしたいか、で決めていいんだよ。」

 そう言って、恭平はほんのり微笑む。その視線は、しっかりと幸喜へと向けられていた。紫色の瞳はやさしく、あたたかく、自分を包み込んでいる。

「俺が……」

「そう。もしも何かあったら、僕もいるから。ちゃんと助けられる。」

 確かに、恭平の言う通りだった。

 今までも、彼の前で失敗をしてしまったとき。幸喜が心の傷を残してしまわないよう、恭平は常に助けてくれていた。数週間でも、その経験は積み重なって確証に足りていた。

「……ん。」

「…幸喜くんは、どうしたい?」

 問いかけの視線と、目が合う。

 恭平の瞳から逃げたい気持ちは、今の幸喜にはもうなかった。


「…キョーヘイさんと話、したら…」

「うん。」

「なんか、ほっとした、かも。…だから──」

 一度、呼吸を整える。

 幸喜の選択に心配などしていない彼の穏やかな顔へ、答えを出した。

「…今日は、だいじょうぶな気がする。そっちを、信じてみる。」


 実直な言葉と、曇りなき瞳が教えてくれる。不安よりも、信じられるものをちゃんと見つけることができたことを。

「そうだね。幸喜くんの選択、いいと思うな。」

 恭平は優しく微笑んで、彼の背中を押す。幸喜の表情は、数十分まえよりもずっと落ち着いていた。

「ん……キョーヘイさん、話聞いてくれて…ありがと。」

「ふふ、何か役に立てたのならよかった。」

 ゆっくりと恭平はベッドから立ち上がる。

「それじゃ、僕はそろそろおいとまするね。」

「…ん。おやすみ。」

「うん。おやすみなさい。」

 ドアを開けて、廊下へと出ていく背中を見送る。

 ぱたん、と自分の部屋の扉を閉めて。幸喜は再びベッドの隅に腰掛ける。そのまま、ベッドへ仰向けに背を預けた。


(…キョーヘイさん、ちゃんと聞いてくれた…)

 抱きしめられたわけでも、頭を撫でられたわけでもない。

 なのに、今の自分はすごくあたたかい心地だ。かつて、愛翔にそうされたときと同じくらい。

 安心できたんだ、俺は。

 恭平に、自分の気持ちを受け止めてもらえたから。彼の、恭平なりの優しさに繋ぎ留められたから。少なくとも今夜は、迷いを拭えたはずだ。

 そっとベッドから起き上がる。寝る支度、済ませておこう。思い立って、幸喜は部屋を出た。

 ──今日はきっと、よく眠れそう。

 そんな確信に似た予感を、胸の内で感じながら。



 翌朝の幸喜のベッドの上がどうなっていたか。それは、幸喜と恭平、二人だけの秘密であった。



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