『不安へのお薬』 〜おなかのお話〜


 鍵を回した瞬間に、あれ、と違和感に気がついた。

 いつもと同じ方向に回した鍵が、動かなかった。すぐに引き抜いて、ドアを引くと。すんなりと開いてしまった。

(…鍵、開いてたって事?)

 おかしいな。恭平きょうへいは首を傾げる。

 自分がかけ忘れていた可能性もなくはない。けれど、時間的に考えればバイトに出かけた同居人・幸喜こうきが鍵をかけているはずだ。予定が変わって、家にいるとしても──そもそも二人は合鍵を常に携帯するよう決めているので、「内鍵をかけること」がルールになっているのに。

 怪訝に眉を顰めたまま、恭平は玄関を見下ろす。そこには幸喜のブラウンのスニーカーが、紐まで乱雑に脱ぎ捨ててあった。思わず、恭平は目を瞬かせた。

 彼にしては、珍しいなと思った。

 普段の幸喜なら靴を脱ぎ散らかしたりはしない。大抵、ちゃんと玄関の端のほうに揃えて置いてあったと記憶している。その、普段とちがう「異変」が、恭平の胸に小さな翳を落とす。

 すぐさま恭平はモンクストラップを脱いだ。廊下どころか、奥に見えるリビングにも明かりは見えない。念のため、リビングのドアを開けて、中を覗く。幸喜の姿も気配もない。血の気が引きそうになるのを肌で感じる。

 そうだ──彼の部屋は。思い至った可能性に、踵を返した。

 扉は、よく目を凝らすとわずかに半開きになっていた。気づけなかったのは焦りのせいか。

 その隙間に、そうっと身を寄せた。


「……幸喜くん? …いる?」

 確認を急かす気持ちを喉の奥で押さえつけて、恭平は小さくささめいた。

 数秒間が沈黙で埋まる。けれど、かすかな衣擦れの音が、恭平の耳に届いた。


「………きょーへいさん…っ」

 呻くような応答だ。彼に異変が起きているのは、低く地を這うような声だけで察しがついてしまう。

「…何かあった? 入ってもいい?」

「……ん…っ、」

 彼の、息だけで返したような肯定が聞こえた瞬間に。恭平は扉に手を掛けた。同時に、彼の部屋を見渡した。声の在り処、部屋の主──幸喜は、ベッドに横たわっていた。それも、掛け布団とくしゃくしゃになりながら、頭を沈めるみたいに。普段の彼だったら、まず自分に見せるはずもない姿だった。

「──どうしたの?」

 言いながら、ベッドの隣の机が目に入った。グラスの中に、わずかな水が残っている。そのすぐ傍らには──二つの突起がついた、中身が空っぽのアルミのシートがひとつ。認識した途端に、確信した。

「…どこが、調子よくない?」

「…………おなか……」

 首筋に伝う脂汗が、耐えている現状を鮮明に表している。ベッドに埋もれた片手は、ずっとお腹のまんなかのほうを押さえていた。

 丸くなっている幸喜の背中に、恭平は大きな手を回す。ゆっくり、刺激になってしまわないように撫でた。

「どんな感じか、言えるかな…? くだしてる、とか」

「……そーゆう系じゃ、なぃ……」

 熱もない、きもちわるくも、ない。

 途切れ途切れに、幸喜は掠れた声で教えてくれた。その間も、じっとすることのほうが難しいらしく、また身体をくねらせる。痛みの波がわずかに引いた一秒の合間に、彼は息を継ぐ。

「…がっこ、いけないときのに…似てる……」

「それ、もしかして…」

「ん……きゅっ…って、する……痛い……」

 彼の状況を総合して、漸く把握できた。

 幸喜が直面しているのは、どうやら「こころが原因の腹痛」らしい。


 口ぶりから察するに、今までにも何度か経験があるのだろう。

 けれど、その回数と実際の苦しさが反比例するはずもない。痛みの数だけ強くなる、なんて言い分は打ち勝った者にしか許されない言葉なのだ。

 汗ばんだ背中を、恭平は彼の呼吸と同じ速度で撫で続ける。先ほどよりも、さらにやわく、温もりを与えることを目的に変えて。

「…教えてくれてありがとう。…つらいね。薬、はやく効いてほしいね…」

「……っ、ぅう…」

「何か、僕にできることあるかな? なんでも、言ってほしい。」

 薬は飲んだ。痛みが引くには、時間が経過するしか方法はないのだろう。

 となれば、今の自分にできるのは──幸喜の心に寄り添うこと以外になかった。あるいは、彼が望むこと。放っておいてほしいならそうするし、毛布やブランケット、あたたかいものがほしいなら用意する。できることはすべて叶えてあげたい、その思いで問いかけた。

 ベッドにうずめた横顔が、ちらりとこちらを見た。彼の長い睫毛には水滴が滲んでいる。そして、彼の視線は珍しく自分から逸らされなかった。

「………手ぇ…」

 ぼんやり、幸喜の深い色の瞳が恭平を捉えていた。

「うん?」

「……にぎって…」

 お腹を押さえているのと反対の手は、ベッドの上で力なく投げ出されていた。

「…僕でいいなら、もちろん。」

 恭平は、おもむろに自分の右手を重ねた。触れた瞬間に、気づかされる。指先から氷のようだ。同時に、骨の角張りも、肉付きもまだまだ成長しきっていないと知る。守られるべき子どもの手だと、恭平は何度だって痛感する。

「…他には?」

「…………」

 シーツがぐしゃりと寄れた。彼が首を振ったからだった。

「……なんにも、いらない…キョーヘイさん、いてくれたら、それで…」

「…そっか。」

 ぎゅっと手を繋ぐ力が強くなったのは、どちらだったのか。

 重ね合わせた両手と、彼の背中を撫で続ける手。恭平の体温は、次第に幸喜へと伝い広がっていく。あたたかさは、幸喜のおなかとこころへの二つ目のくすりとなっていた。

 リビングの時計の秒針の音が、耳に届く。

 恭平が問いかけに切りを着ければ、静けさは容易に部屋を満たした。自分が帰宅する数分前と同じ。けれど、彼と繋がる温度だけは、決定的に違う。その存在に身を委ねるように、幸喜は瞼を下ろしていた。

 彼の寝息が聞こえたのは、それから間もない頃だった。



***



 思えば、学校に行けなくなったとき以上に、彼が抱える不安はいっそう大きくなっているのだろう。

 幸喜の不登校の原因も、彼が何を思っているのかも、恭平は知らない。しかし、言葉にすら出せないような事情や理由があったのだろう。彼はその秘密を抱えて、愛翔まなとと暮らしていたのだと、恭平は推察している。

 ただ、そんな最中に実の兄──愛翔が亡くなってしまった。それから間もなくして、恭平との生活が始まったのだ。受け止めきれないものなんて、いくらでもあるに違いない。パートナーを亡くした自分でさえ、未だにそうなのだから。


(……からだに出てしまっているんだろうな。誰にも、言えないぶん…)

 力の抜けた小さな手から、するりと恭平の右手は離された。

 音をたてないよう細心の注意を払いながら、恭平は自分の部屋からブランケットを持ってきて、幸喜へと掛けた。彼の寝顔は、先ほどよりもずっと和らいでいた。

 部屋を出て、ふと、自分たちの脱いだ靴のことを思い出した。

 自分のモンクストラップは横にひっくり返っていたし、幸喜のスニーカーもそのままだった。内鍵を締めるのと序に、ふたつの靴を整頓する。

 ──靴を整える余裕さえないほど、お腹、痛かったんだろうな。やっと理解した彼の状況に、恭平は眉を下げるほかなかった。




 約一時間半ほど経った頃、ゆっくりとリビングのドアが開かれた。空気の混じりに気がついて、恭平は片手鍋から視線を上げる。振り向くと、ドアとの隙間からこちらを窺っていた幸喜と目があった。やわい髪に、小さな寝癖が残っていた。

「おはよう。…目が覚めた?」

「……ん、…はよ…」

 IHコンロの火を保温に変えて、恭平はお玉を置いた。ほんの少し屈んで、幸喜と目線を合わせながら尋ねる。

「お腹、具合どう?」

「……ひとまず治まった…っぽい。」

「そっか。薬がちゃんと効いて、よかった……そうだ、食欲はありそう?」

「……つくってくれたん…?」

「簡単なものだけどね。」

 小鍋からは、出汁の優しい香りがふわふわのぼっている。こころよいにおいだと思うと同時に、幸喜の空腹感もぴくりと反応した。小首を傾げると、恭平は微笑しながら答えてくれる。

「玉子のおかゆ。無理にとはいわないけど、もしお腹空いてたら。」

「…少し食べていい?」

「あぁ、勿論。今よそうね。」

 座って待ってて。と促して、恭平は茶碗諸々を用意し始める。

 その姿を横目に入れながらも、幸喜はおずおずとテーブルへ足を勧めた。ぽつり、彼が小さな口を開いた。


「…キョーヘイさん……」

「うん? なあに?」

 カウンター越しに、彼の横顔を見つめた。幸喜の視線は、俯いていた。

「……靴、あと鍵も……ごめん…」

 バイト、早退したってのも、連絡できなかった。

 幸喜は目を伏せながら呟いた。どうやら、自分でもひどく気にしていたらしい。生活の風紀やルールを守れなかったことを。

 しかし言うまでもなく、恭平にとっては些末な問題だった。

「幸喜くん。それは、謝ることじゃないよ。」

「……」

「調子が良くなかったこと…教えてくれて、ありがとう。おかげで僕も、ちゃんと気づけた。」

 長い睫毛の横顔に、恭平はそっと微笑む。彼がこちらまで視界に入れているかこそわからないが。ただ、自分を責める必要なんてない、の思いが伝われば、恭平はよかった。

「……ん。」

「じゃあ、夕ご飯食べようか。」

 彼の首肯を認めて、恭平は二つの茶碗におかゆをよそった。

 あわいしろの湯気が、ふたりの空間にふわりと満ちていた。



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