短編 ─1か月後の二人─
『ふたりで繋ぐ生活』 〜プロローグ〜
外から鍵が回される、かすかな音が耳に届いた。
きぃ、と控えめな振動と足音が、バイト帰りの同居人の帰りを物語っていた。ソファに腰掛けていた
リビングの扉が開かれると同時に、涼しい外気が混じってきた。連れてきたのは、他でもない──十二歳下の同居人、
「幸喜くん、おかえり。お疲れ様。」
「…ただいま。キョーヘイさん、起きてたんだ。」
鼻の表面がほのかに紅い。やわらかな暗い金色の髪と、少年の肌をもった彼。上着のダッフルコートを脱ぎながら、恭平へと垂れがちな視線を向けていた。
「うん、明日在宅にしたから、たまにはね。」
お風呂上がりのしっとりした烏色の髪のままで、恭平はレンズ越しに微笑んだ。その姿を見て、幸喜も眉を下げる。夜更かしをしないタイプというのは、ここ数週間での生活で見知ってきた。にもかかわらず、自分の帰りを待っていてくれたのだ。フレックス出社や在宅勤務を行使して、幸喜との時間を確保している。ちゃんと、彼に迎え入れられているのだと、幸喜は改めて認識させられる。
もうすっかり、ここが自分たちの帰る場所であり、居場所である。恭平も幸喜も同じ思いを感じていた。
「外寒かったでしょ。今飲み物淹れるね。」
「ぇ、いや、いいのに」
わざわざ大変だろ、と制そうとする幸喜より一秒早く、
「何がいい?」
と恭平は先手を打った。
あぁもう、と髪を右手でぐしゃり、と掻いて。幸喜は答える。
「…ココア。」
「了解。」
言うが早いが、恭平はミルクパンと粉末ココアを用意して、キッチンに立った。すぐさま、ことこととやさしい音がリビングに転がりはじめる。
「手ぇ洗ってくる。」
「うん。いってらっしゃい。」
アウターを抱えた彼が廊下へと向かっていく後ろ姿を、恭平は慎ましくはにかんで見送っていた。
***
二十九歳の恭平と、十六歳の幸喜が屋根を同じくしてから、もう一か月ほど経つ。幸喜の兄、そして恭平のいちばん大切だったひと──
テーブルの上に置かれたマグからは、淡い白の空気がぽかりと浮かび上がる。水面は、香ばしいチョコレート色。ちょっぴりほろ苦めの味が彼のお気に入りだと、恭平は一か月で理解していた。
「…さんきゅ。いただきます。」
「お茶請けもあるよ。」
会社帰りに買ってきたブラウニーをフォークとともに小さな皿に取り分けて、恭平は幸喜の前に置いた。もちろん自分にも、カフェオレとブラウニーを用意していた。幸喜の向かいの椅子に、恭平も腰掛けた。
一口、ゆっくりとマグを傾けた幸喜は、じんわり表情を緩ませる。
「…やっぱ、格別だわ……あったけぇ。」
「ふふ、よかった。今日寒かったからね…」
「ほんとに。熱燗がめちゃ売れてたわ…」
幸喜のバイト先は、居酒屋のキッチンだと恭平は聞いている。身体の体力と手先の器用さが同時に求められる仕事は、自分が触れたことのない世界だ。情報処理の技術一本でやってきた恭平は、感嘆してしまう。
そんな恭平の眼差しなど意にも介せず、幸喜はゆるりと呟く。
「…これ食べたら、べんきょーやろうかな…」
「……学校の?」
「…そうだけど。」
目の前の彼から視線が逸らされる。視線が感情に出やすい子だと、恭平はここのところ思う。
幸喜にとっての「学校の勉強」は、この家の中でしか行われない。毎日行われているであろう授業の進捗を量りつつ、遅れが生じないように、躓かないように、進めている「努力義務」なのである。
恭平と同居し始める前から、幸喜は制服を着て玄関を出ることがほとんどできなくなっていた。
「毎日、昼間してるんじゃなかったっけ?」
「ん…そーだけど、ちょっとわかんねぇとこあるから…」
「僕でよければ、一緒に考えようか?」
なんて口走るものの、恭平は幸喜の高校の学習難易度をさして理解していない。どころか、自身の高校教育ははるか過去の話なわけで。ただ、「教える」とまで断言はできないが、黙って見過ごせない、の思いが勝った。
「まじ? いいの?」
「調べるのは得意だから…うん。自分で言っといてなんだけど、頼りになるかはわかんないな…」
「いるだけでも心強いけどなぁ。」
恭平の心配など他所に、からりと彼は微笑んでいた。
***
二人のマグもお皿も空っぽになった頃、幸喜は教科書とノートなど一式を広げた。付箋の貼られた箇所を、お互いじっくり見ては。こうじゃないか? と話し合い、首を傾げあい。インターネットで資料を漁るのは恭平の役目となって。幸喜が納得できるところまで、疑問を紐解いた。
全ての付箋に完了のチェックがついた頃には、時計はもうすぐ十二時を指そうとしていた。
「わ、キョーヘイさん悪りぃ…めっちゃくちゃ遅い時間になって…」
「いいよ、久々に普段使わない頭使って、ちょっと楽しかった……というか幸喜くんだって、バイト終わりなんだから…そろそろ休もっか。」
「ん……今日はよくねむれそー……シャワー浴びて寝るわ」
くぁ、とあくびをした彼は、眠たげに用具を片づけ始める。恭平もマグ諸々を片しながら、穏やかに彼へと呟く。
「ゆっくりお休み。明日の朝は起こさないでおくね。」
「さんきゅ……じゃ、おやすみなさい」
「おやすみ。」
脱衣所へ向かう背中を見届けてから、恭平も眠る支度を始めたのであった。
***
「──キョーヘイさん、きょーへいさん…っ」
軽く肩を揺さぶられる感触で、視界が開けた。控えめな振動が明らかにしている。今、ためらいとせめぎ合いながら、それでも「起こす」ことに傾いたのだと。
「ん……? どした…?」
「…起こしてごめん、ほんとごめん……その…」
「うん、だいじょうぶだよ。」
肩に触れた手へ、恭平は自分の手を重ねた。彼の肌はつめたい。関節さえ、がちがちに固まっていた。
恭平は上体を起こす。枕元に置いた眼鏡をすぐに掛けると、暗がりの中の幸喜の姿が鮮明になった。今にも消えてしまいそうな、迷子みたいな不安な顔。ぼやけてなくなってしまいそうな、うつろな瞳。
「あの、」
ひゅう、と幸喜の喉に息がからまって、こぼれた。
「……ごめん。掛け布団、ぬらした……」
暗闇の中でも、彼の熱い耳は浮かんで見えた。現実を拒否したい視線が、恭平よりずっと下を見ている。
「“夜の”、穿いてたのに…」
「…あふれちゃった?」
「………たぶん。位置がわるかったのかもしれねぇけど…」
目を凝らすと、彼の寝間着のパジャマは濃い色にいびつな染みが広がっていた。これでは、冷えきってしまうのも無理はない。
恭平はすっとベッドから降りて、幸喜の背中に手を当てた。それだけで、ひどく震えを隠しているのは伝わってきた。
「気にしないで、いいからね。教えてくれてありがとう。」
「……そんな、おれ……っ、ぅあ…」
ぐしゃり、パジャマの濡れていない部分を、きつく握りしめる彼。その拳の上に、いくつも雫が落ちては、伝って新しい染みが生まれていく。そんな姿を目の前に、恭平は痛感する。
きっと、すごく心細かったはずだ。迷ったはずだ。
夜の下着や防水シーツだけでカバーできる失敗なら、幸喜一人でも普段通り対処できていたかもしれない。けれど、掛け布団にまで被害が及んでしまったから。放っておけば、余計処理がしにくくなると十二分に知っている彼は、尚更焦ったのだろう。けれども洗濯ができるかどうかさえ定かではなくて、何を、どうしたらいいのかわからなくて、恭平に助けを求めたのだ。
今の幸喜にとって、どれほど勇気や迷いを要したことなのかは──想像に難くない。
「幸喜くん、大丈夫だよ。」
だからこそ、応えたいという意思が恭平にはある。幸喜の背中をさするのをやめず、彼は落ち着いた声色で伝えた。
「うちの掛け布団、洗えるものだから…ちゃんと元通りになるはずだ。」
「っ、……」
「幸喜くんは、シャワー浴びてさっぱりしておいで。掛け布団は僕がやっておくから、部屋入ってもいいかな?」
「………ぅ…」
「…嫌かな。」
「……っ、いやじゃ、ないけど……でも、疲れてんのに、キョーヘイさんだって…」
しゃくりあげながら、幸喜は力なく抵抗する。
彼はあくまで、処理の方法さえ教えてくれれば、自分でどうにかする気だったらしい。でも、彼一人にすべてを背負わせることを、恭平が選ぶはずもなかった。彼の今の保護者は、紛れもなく自分だ。
途切れ途切れの呼吸を、普段と同じリズムに導くみたく、恭平は彼の背を撫で続ける。
「洗濯なんてすぐだよ。僕にとっては大したことじゃない……任せてくれる?」
そう、恭平にとっては大したことではない。
自分よりも、幸喜の持つ苦しみのほうが、痛みも、抱えるものの重さも、全部が大きく感じられるのだから。十六歳で、唯一の保護者の兄を亡くして、学校という場からほぼ断絶されて、──思うように動いてくれないからだと向き合いながら。それでも懸命に生きようとしている彼だ。
(…パートナーを亡くした自分より、もっと。きみの不安は比べものにならないはずだから。)
震えている背中が、かたく、ゆらいだ。首から動かして、彼はこくんと頷いてくれた。
「…ありがとう。…立てるかな、ゆっくりでいいよ。」
「ん……っ、だいじょうぶ…」
恭平の手を少しだけ借りて、幸喜はちゃんと一人で立ち上がった。涙をパジャマの袖でぐしぐしと拭う横顔が、その長い睫毛が──彼の兄を錯覚させる。一瞬、呼吸を忘れた恭平に当の本人は気づく由もなく。いたたまれなさそうに、恭平のほうへと振り向いた。
「…キョーヘイさん。」
「……うん?」
「………つきあわせて、わりぃ。…でも、ありがと…」
真っ赤な目元でも、ちゃんと伝えてくれた思い。姿かたちはまるでちがうのに、そのまっすぐさは生き写しのようで。じわり、と恭平のなかにも熱いものが広がる。
「…いいんだ。行こっか?」
咽喉の奥から絞り出した言葉の震えに、どうか彼が気づきませんように。そう祈りながら、恭平は彼とともに寝室を出た。
***
ガラス戸の向こうではためく真白なシーツと、掛け布団。今日は快晴との予報が、スマホの通知に残っていた。だから、きっと大丈夫。
このリビングのカーテンの間際には、小さなラックが備わっている。まだ幸喜がバスルームから出ていないことを確認して、恭平は、上から二番目の引き出しを開ける。
木製のフォトフレームに収められた写真。そこに写る金色の髪の青年──自分がいちばん愛した愛翔と、視線は合わない。写真の中の“彼”は、同じく写真の中にいる過去の自分と笑いあっている。
愛翔はもういない。
けれど、自分には託された存在がある。愛翔の言葉によって、遺された責任という希望とともに、今を迎えている。
「…ちゃんと果たせてる?」
小さく囁いた言葉が、空気に溶ける一秒前。
ガラスの向こうで、朝の風鳴りが大きく唸った、気がした。
了
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