『眠れない夜に手を当てて。』


 ──だめだ、と諦めた視界に、随分見慣れた天井の闇が映る。

 ぼやけることもない世界。この暗さに順応しきった眼。それまで自分が、全く睡眠に同化できていなかったと突きつけられる。目は、完全に冴えていた。

 寝返りをうつと同時に、ベッドのスプリングがきぃ、と小さく音をこぼす。かすれた、今にも静寂のなかに消えゆきそうな音色は──まるで自分のようだった。

(………ぜんぜん、眠れねぇ…し……)

 くるりと見回したとき、勉強机の上の置時計が目に入った。時刻は既に十二時半を過ぎている。ベッドに入って、横になったのはおよそ一時間前。それからずっと、何をするわけでもなく──ただ眠ろうと努めていた。瞼を閉じ続けていた。だのに努力は、結果へと導かれず、とうとう一時間が経過した。

 思わず、幸喜こうきは枕に預けた頭の額に、手の甲を充てる。そしてただ、仰向けのまま項垂れた。

 ──なんで。

 心当たりがなかった。

 今日は寝る前に勉強机に向かっていたが、それが原因で入眠できなかった経験は、幸喜にはない。カフェインの類も、今夜は摂っていない。バイト終わりに軽く夕食を食べて、それきり何も胃には入れていないのだから。

 だとすれば?

 幸喜は静まり返るこころに問いかける。心拍は、絶えず身体の芯から聞こえてくる。その鼓動が、いやに煩わしく感じられてしまう。そんな自分に、幸喜は漸く気がついた。目だけじゃない。頭が、こころが、妙に冴えているのだ。

(………おれの、きもちの…問題…?)

 思えば、今までだってそうだった。

 幸喜のからだは、こころが原因で不調と苦しさを生じてしまう。実の兄──愛翔まなとがいなくなってから、もっと酷くなったこれは、未だに無くなる気配を見せない。同居人の恭平きょうへいの前でも、何度このせいで迷惑や心配をかけてしまったか、両手ではたぶん数え足りない。

 こころのせいなのか。今、眠れないのは。そう仮定しようとして、幸喜は首を傾げた。

 ──でも、そんなん、おかしい。

 いったい何に、そんなにおびえているんだ。自分を脅かすものなんて、この部屋──この家にはない。同居人の恭平は、何度だってその安全を幸喜へ伝え続けてくれた。実感は、今この胸の中にちゃんと根を張っているはずなんだ。だから、自分が今抱えているもの。感情の名前、正体。見当もつかない。


(………とにかく、何にしても…なんか、切り替えねぇと。)

 このままでは、朝日が昇るまでの数時間さえ簡単に無駄にしてしまう。幸喜はゆっくりと上体を起こした。シーツの布擦れの音だけは隠せず、ベッドから脚を降ろす。裸足に、冷え切ったフローリングがじくりと沁みる。

 ──水でも、飲もう。

 それか、夜風にでも当たろう。

 そうすれば多少は気分が落ち着く、はず。そう希望を抱いて、幸喜は音もたてずに寝室のドアを開けた。



***



 リビングは、至極当然だが誰もいなかった。踏み入れた瞬間に、部屋中に浸透した二月の冷気が首筋を撫でる。間接灯だけをつけて、幸喜は水切り籠の中の自分のマグを手に取った。

(…………)

 水、飲もうかと冷蔵庫を開けようとした左手が、ぴたりと止まる。わずかによぎってしまった躊躇いは、幸喜の腕を下ろさせてしまう。

 ──どう、しよう。

 空っぽのマグを両手で抱えながら、幸喜はソファの傍らに歩み寄る。行く当てもない。普段は明るいこもれびみたいな部屋なのに、今は氷の城のようで。幸喜はあちこちへ冴えた視線を這わせた。

 ふと。ドレープカーテンが重ねられたその隙間から、月の光はじんわりこぼれている。そんな光景が映る。目を奪われた刹那、そうっと、足は踏み出していた。

「………」

 ドレープの奥、レースカーテンまでもほんの少し捲った先。ベランダのガラス戸の向こうに、宵闇が広がっている。住宅のわずかな電光以外は、濃紺の中に世界ごと沈んでいる。

 ──俺だけ、だ。

 ガラスに映ったのは、張り詰めた顔をした自分。自分だけが、この景色から──「正常」な眠りから、取り残されている。

 くたりと幸喜は膝を折った。カーテンの前に三角座りをして、ぼんやりと月光に照るガラスを向こうを見つめる。


(………ひとり、だ。)

 そう自覚した瞬間に、ずくんと胸の奥が重たくなった気がした。

 自分以外の誰が、今の自分の視界の中で、実在する証明などできるものか。闇と無機質の光と冷たさだけが、目の前にある実感で。自分の指先すら温もりを持っていない。自分の実在すら怪しいとおもえる。

 冷え切った肌。

 かたい指の、骨と関節。

 動かないひとのつめたさ。

 それは、誰だ。知っているはずだ。知らないはずがない。金色の艶やかな髪、長い睫毛、今尚瞳の透明な青さは自分の目に焼きついている。それらすべてが──あっけなく骨と灰になった、あの日。

 ────忘れられるはずが、ないだろう。

 こころの奥底に沈めて、奥へ奥へと追いやったはずの感覚が、脳裏によみがえりかける。だめだと、脳は危険を信号する。思い出してしまえば、自分は息さえできなくなってしまう。無意識のうちに、ぎゅう、と膝を抱く両腕にちからが増える。

 そんな暗闇の中、だった。

 かたん、と背後から音が聞こえたのは。


「……あれ?」

 消し忘れたっけ。そう聞こえた。

 若干普段よりもとろけた活舌の小声だった。思わず振り向くと、廊下と隔てるリビングの扉の摺りガラスには人影が映っていた。

 そうだ、キッチンの間接照明は消していなかった。これでは、同居人からすれば、廊下に出た瞬間に異変に気づくだろう。幸喜が何かを発する前に、ドアはゆっくりと開かれた。


「っ──」

「……えっ、」

 暗がりのなかで、深海の瞳が浮かぶ。

 ばちりと視線がぶつかった瞬間、相対する彼は大きく肩を飛び跳ねさせた。

「ひゃあぁっ…!! え、あ…! なんだ幸喜くんかぁ…!」

「………驚き、すぎ…」

「ご、ごめん。…眼鏡してないからかな…。」

 そう言って頬を掻くのは、同居人の恭平。セットしていない烏の濡れた色の髪に、まだ見慣れない裸眼。彼はいたたまれなさそうな顔を浮かべながらも、幸喜に向き直った。

「…えっと、ところで幸喜くんは…どうしたの?」

「………」

「…眠れない?」

 彼の問いかけに、観念して頷いた。幸喜もよく知っての通り、いとも容易く察しをつける彼だ。隠す意味も、もはや隠したいきもちもない。

 幸喜の首肯を認めた恭平は、そう、と一言こぼす。リビングのドアを静かに閉めて、彼はそのままゆっくり歩み寄る。幸喜の隣で、彼もまた三角に膝を折った。

「あるよね、そんな夜も。」

「……あんたにも?」

「うん。寝ないと、って思うのに、全然寝つけないこと…ときどきあるよ。」

 にじんだわずかな月光に、恭平の顔が照り返っている。柔和に微笑む表情が、隣の幸喜にはやけに鮮明に映る。優しい笑みは、記憶の中の誰かとよく似ていた。

「だから、ひとりじゃないよ。大丈夫。」

「っ……」

 彼の言葉が、胸の奥のもろいところにじくりと沁みた。

 「ひとりじゃない」。

 その一言に、どれほど今安堵したのか、隣の彼は知っているのだろうか。

 気づけば、冷え切っていた指先は、次第に温度を取り戻しはじめている。まるで、彼の体温に触れたように。否、きっと空気を伝って、今自分は彼のこころに触れている。隣あっているのだ。

 ──実在だ。そう感じた。

 この心の能動と、彼が灯してくれた体温。何よりも、真横で微笑みかける恭平がいること。それこそが、自分と彼が今ここにいる証明だった。

(おれは、今、ほんとうにひとりじゃないんだ)

 夜闇に呑まれそうだった幸喜なのに。いつしか、信じることができていた。


 潤みかけた眼を見られるのはいたたまれなくて。幸喜は口を真一文字に結んだまま、正面を見つめていた。月の光は、等しく二人を照らす。恭平も、無遠慮に幸喜の顔を覗き込もうとはしなかった。

 ただ、その代わりとでも言うように。彼はひっそりと言葉を紡いだ。

「…ねぇ、幸喜くん。」

「…ん?」

「マグ、僕に貸してくれる?」

 そう言って恭平は、大きな右手を幸喜へと差し向ける。突然の問いかけに若干たじろぎながらも、幸喜はからっぽのマグを恭平へと渡した。

「いいけど……」

「ありがとう。…幸喜くん、ホットミルクは好き?」

「……飲んだことねぇ。」

「そうなんだ。…じゃあ、お試ししてみない?」

 ふふっと彼は幸喜へ微笑みかける。真夜中のティータイム、ってことで。そう付け足した彼は、ちょっぴりいたずらっぽい笑みだ。

 恭平なりの、打開策としての提案だとなんとなく幸喜にもわかる。けれど、頭のなかによぎった躊躇いが、彼の誘いへ頷かせてくれない。

「……でも、…のんだら……」

「…心配?」

 きっとそれさえ彼はわかっている。

 恭平は世界で幸喜にだけ聞こえる声量で、優しくささやく。

「ちゃんと寝る前に済ませて…それでも、だったら──僕のせいにしていいんだよ。」

「っ…」

 そもそも、誘ってるのは僕のほうだからね。と彼は付け足す。

「それにね、たとえ失敗しちゃっても…ぐっすり安心して眠れるならそのほうがいいって、僕は思うよ。…寝不足はなかなか治らないけれど、洗濯はすぐにできちゃうから。」

 そう伝える恭平の視線は、ひどく優しくて。彼が今何を一番大切にしたいか、痛いくらいに幸喜にも感じられた。

 失敗よりも大切な、からだとこころのこと。

 安心して、からだとこころを休めること。

 その後ろ盾を、恭平は引き受けようとしているのだ。

(…どんだけ、やさしんだよ。)

 またじわりと目の前がゆがみかけた。ほんの少し下を向いて、幸喜は涙をのみ込んだ。声の震えが知られてしまわないように、ゆっくりと返答を口にした。

「………キョーヘイさん…」

「うん。」

「…おためし、してみたい。」

 そう勇気を出して呟いた一言へ。

「ふふっ、もちろん。」

 恭平はやわく微笑んで、頷いてくれた。



***



 彼に促されて、ソファに腰かけてから数分後。白いふわふわの湯気を浮かべるマグが二つ、恭平の手によって運ばれてきた。ローテーブルには白いまんまるの水面が並ぶ。

 そうして、拳三つほどの間隙を空けて、恭平もソファに腰かけた。たおやかに微笑みながら、彼は一つを手に取った。幸喜ももう一つに手を伸ばす。

「うまくできてるかなぁ。…いただきます。」

「…いただきます。」

 ゆっくり、おずおずと一口目を含んだ。

 途端に、じんわり口の中に温もりが伝った。ほのかでやわらかい甘みも次いで広がっていく。風味の豊かな香りが、わずかに鼻腔に伝わる。これは──蜂蜜だと、すぐに理解できた。幸喜のバイト先のデザートでも、蜂蜜を使った商品はあるから。ただ、飲食店向けに甘めに調整している商品の使用量よりも、ずうっと微々たる量だとわかった。

 あぁ、キョーヘイさんらしーな。と思わず笑ってしまいそうになった。

「……うん。…もうちょっと甘いほうがよかった、かな…?」

「…はは、いんじゃね? …俺はこっちのが好み。」

「そう? なら…よかったぁ。」

 不安そうだった恭平は次第に、じんわりと眉を弧に下げる。切れ長の目を細める彼は、隣の幸喜をそっと見つめていた。その視線のあたたかさは、手の中にあるホットミルクと変わらないように思えた。

 見守られている、そんな実感が胸にじんわり沁み入った。

「……キョーヘイさん…」

 呼びかけに、彼はうん、と頷いて待ってくれる。

「…………ありがと。」

「ふふっ、いいんだよ。僕が、一度これ作ってみたかった、ただそれだけだから…」

 気を遣わせまいと、そんなふうに言うのは彼のいつものこと。わかった上で、幸喜はもう一言付け足す。思いはちゃんと伝えたかった。ちらりと恭平のほうへ視線を向けながら、幸喜は小さな声でも告げた。

「…だとしても。おかげで、ちょっと…ほっとできた。」

 夜の闇にしがみつかれそうだった自分に、手を差し伸べてくれたのは。暗い夜の魔の手をほどいてくれたのは、紛れもなく恭平なのだから。

 幸喜の言葉に、隣の彼はほんの少し目を見開いた。

「…そっか。幸喜くんの役に立てたんだったら、嬉しいな。」

 そう言って、柔らかく微笑んだ。


 二人ともに、マグの底が見えるようになるまで、ソファに身を寄せていた。最後の一口の前に、恭平は穏やかに幸喜へと問いかけた。

「…もし不安があったら。このあいだみたいに、リビングで寝てもいいよ。布団敷こうか?」

「…そこまでは、いいよ。だいじょーぶ。」

 だって。幸喜はわずかに口角を上げて呟く。

「ひとりじゃないってわかったから。だから、きっと、大丈夫。」

 凛と恭平を見やる、垂れ目の視線のトパーズ。もう彼の色は、不安の闇に取り込まれてはいなかった。

 そんな幸喜の姿を見て、恭平は思わず苦笑した。心配性だね、僕。目を糸みたいに細めて、彼は頭を軽くかいた。



***



 寝る支度をすべて終えて、自分の部屋へと戻っていく幸喜を廊下で見送ってから。恭平は寝室に入る。後ろ手に閉めたドアの真ん前で、暫し立ち竦んだ。その頭は、──先ほどの幸喜の前とでは程遠いほど──重く、下を見つめている。

 四十九日は数日後に迫っている。

 他でもない、幸喜の実の兄であり──自分の誰にも明かせない恋人であった、春日愛翔。彼が亡くなってから、四十九日がじきに経つ。

 彼の遺骨と遺影を預かっている隆司が、気持ちの節目として、小さな法要の場を設えてくれた。都合が合えば、ぜひ参加してほしい。そう恭平に連絡が来たのは、先日のこと。

 もちろん、幸喜にも同じ連絡が隆司から来たようで、彼は行くことを既に決めていた。恭平と、ともに。


(……きみも、…なんだろうな。)

 たぶん、自分の予想が正しいのであれば。

 きっと無意識のうちに、幸喜は恐れていたんだ。夜の闇だけじゃなく、〝独り遺される〟恐怖について。だから今夜、その不安が〝眠れない〟という形で具体になった。幸喜の姿に気づいた瞬間、恭平は思い当たっていた。

 ──何故なら、自分こそがそう、だったから。

 未だに、思い出しただけで目頭から熱いものが溢れ出しそうになる。恋人の夢を見て目覚めた朝、現実に頭を殴られて打ちひしがれる。──この世界のどこかで、愛翔は生きているんじゃないか。そんな虚構を勝手に抱く自分を、もう一人の自分が鼻で嗤っている。今夜だって、週末の法要が恐ろしくて、寝つくことさえできなかった。そんな恭平の実態は、幸喜には決して見せることはできない。何よりも、ただでさえ不安でいっぱいな幸喜の拠りどころとして、僕は揺らいではいけない。そう思う。

 だからこそ、項垂れた。

「………僕がこんなんじゃ、だめだなぁ」

 込みあげた涙の息で、小さく小さく、恭平はささめいた。


 僕たち二人とも、きっと。

 あいつを喪った傷は、四十九日で塞がりそうもない。



 了

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