二『初めての休日を過ごす。』上


 今週の残務をすべて終えて、恭平きょうへいは晴れた心持ちで会社を出た。同じ金曜日の退勤後でも、キリよく終われるのとそうでないのでは、休日へのモチベーションがちがう。今宵のモンクストラップは、足取りがやけに軽かった。

 帰りの道すがら買い物を終え、足早に自宅へ帰ると。リビングの照明がぼんやりと廊下の奥に見えた。


(…あれ? 幸喜こうきくん、いるのかな。)

 ただいま、と声をかけると。数秒後リビングのドアが開かれた。

「…あ。おかえり、なさい。」

 暗いきんいろの柔らかな髪を揺らして、彼は頭を覗かせた。たれ目をぱちくりさせる同居人──幸喜。

 恭平は靴を脱いで、内鍵を締めてから。リビングへと歩み寄った。

「バイトお休みだった?」

 不思議に思ったのはそこだった。日曜日に生活をともにし始めてから、平日四日間、幸喜はいつも夜バイトに出かけていた。恭平が帰宅しても、家で居合わせることは一度もなかった。

 問いかけに、幸喜は横眼だけ投げかけて、答えた。

「…週四だから。月から木。」

「あぁ、そうだったんだ。」

 納得して、恭平は頷く。同時に、まだまだ知らないことだらけだと痛感する。

 そして、ふと彼が立つ奥のほう──キッチンを見ると、ことことと火におどる鍋。蓋の被ったフライパンからかすかにこぼれる湯気。しかも、コンロの向かいの炊飯器は既に保温状態になっていた。恭平の視線に気がついたのか、幸喜はおずおずと呟く。

「…夕飯、つくった。」

「えっ。わざわざやってくれたの…? ごめん、大変だったでしょ…」

 食事を作るのは恭平の務めだと、生活を始めた日に伝えたはず。何か、自分の料理に不満があったのだろうか。心配しかけた恭平に、幸喜は釘を刺すように言う。


「…違うから。俺は…」

「…うん。」

「……昨日もあんた、寝坊…してたし、その…俺まじですげー迷惑かけたし……疲れてると思って…」

 ──どうやら、恭平を気遣ったゆえだったらしい。特に、幸喜本人はここ二日の粗相をいたく気にしていた模様だ。自分のせいで、恭平を煩わせてしまったと。当然恭平自身にとっては、大した手間でも何でもなかった。むしろ、あれがきっかけで壁を一つ越えることができたとさえ思う。

「そっか。」

 僕にとっては迷惑ではなかったけどね。一言だけ付け足しておく。

 そこには反応を返さず、幸喜は恭平に横顔を向ける。

「……厨房はいつも立ってるし。時間あったから…別に俺だって大変じゃない。」

 目を逸らしながら、コンロの前へ戻っていく幸喜を見て、恭平はほわぁ、と固まる。なんというか。彼が生活をともに協力してくれている、そんな実感がぽわぽわと胸に広がったような、感覚。

「…ありがとう。楽しみだなぁ。」

 手、洗ってくるね。と彼の横顔に向けて告げた恭平を。幸喜は横目でわずかに見つめていた。



***



 幸喜の作ってくれた夕飯は、恭平にとって目を見開く出来栄えだった。お吸い物は、限られた食材で構成されていたのに、ぐっと確固たる深みを感じた。率直に、おいしい。魚の煮つけなんて、自分では滅多に作らないものだった。これも、目が剥くおいしさで、箸が止まらなかった。

 自分が作る料理と比べて、全体的に味の重みのような何かが段違いだった。コク、とか旨味、というのだろうか。

「幸喜くん、めちゃめちゃに料理うまくない…? びっくりしちゃった。」

「…そう?」

「こんなに凄いと、バイトでも重宝されてるんじゃない?」

「……わかんね。でも店長からは…」

「うん。」

「補導されたらやべーから、十時で絶対帰れって言われる。」

「…それはまぁ当然かなぁ。」

 その後も、たくさんお礼を言って、たくさん褒めた。彼は悪い気はしないみたいで、くすぐったそうに頬を掻いていた。


 後片づけもすっかり終わった頃。食後のコーヒーを淹れようとした恭平は、少し手を止めた。──コーヒーって、カフェイン多いよね。僕は慣れてるけど、トイレ近くなっちゃう人も多いし。日曜日は飲んでくれたけど、本当はちょっと躊躇っていたのかも。はたと思い至って、ソファの前のローテーブルで問題集を片づけていた幸喜の近くに、恭平は歩を進めた。

「幸喜くん、コーヒーか何か飲む? 牛乳あるし、ココアもできるよ。」

「……じゃあ、ココアで。」

「了解。」

 選択肢を提示してよかった。

 これからは、ちゃんと本人に聞いてみよう。そう恭平は改めて気に留めた。

 二つのマグがローテーブルに並ぶ。チョコレート色の水面に、白く芳しい香りが浮かぶ。幸喜も、こうして飲み物を淹れたときはリビングに腰を据えてくれる。ココアの温かさに、ほうと息をつく彼の表情に、数日前のような張り詰めた緊張は感じられなかった。


 誘ってみるなら、今かな。恭平は昨日から思案していたことを口にした。

「幸喜くんって、土曜日…明日空いてる?」

「え? ……ん、別に予定ない、けど。何。」

 彼の瞳が、不安に瞬いた。その曇りを払拭するために、恭平は朗らかな声で告げる。

「買い物でも行こうかなと思ってさ。一緒に来る?」

「……買い物…」

「そう、春物見たり、入り用な物があったら、買いに行こっかって。」

 詳細を足すと、じきに幸喜は目を伏せてしまう。口を開かず、視線を手元のマグの水面に落とした。押し黙る横顔は、何やら神妙そうに眉を寄せている。

 沈黙が、十秒ほど続いた頃。無理にとは言わないけど、と足そうとした恭平よりも先に。


「…車、出してくれる?」

「ん? あぁ。勿論。」

「…俺も買いたいもんあるから、行く。」

 素直な首肯が返ってきたので、恭平はほんの少し拍子抜けする。てっきり、思い詰めていることでもあるのかと憶測してしまったからだった。もし、この家での生活で要る物が用意できていなかったのなら、家主の自分に非がある。そう受け止め、恭平は彼にまっすぐ伝える。

「何か生活で必要だったもの、あった? お金出すよ。」

「──や、それは……」

「…うん?」

「バイトの給料、あるし……」

 隣の幸喜の顔を、そうっと覗くと。彼は耳を普段の目元以上に赤く染めて、恭平と反対の方向を向いていた。

 その様子に、あぁ、と腑に落ちてしまう。幸喜の兄──愛翔まなとも、自分の〝失敗〟について言及されたら、こんなふうにそっぽを向く癖があった。どうやら幸喜が入り用なのは、彼の〝事情〟に基づくアイテムらしい。


(気にしなくていいのになぁ。なんてのも、酷か。)

 当事者でない自分は、どうとでも言えてしまう。それは、とても傲慢だ。

 とはいえ、あまり自分一人で負担を抱え込まないでほしい。の思いも事実だ。幸喜ひとりでドラッグストアに買いに行くとして、それは──彼にとって大きな試練であるように、推察できる。だって、恭平の前でさえこんなにいたたまれなさそうなのだから。

 もし彼が困っているのなら、解決か、不安を軽減できる策は検討したい。恭平はそう思って、躊躇いを一つ越えて訊く。


「…それって、ネットで買ってもいいんじゃない?」

「………ネットで?」

 思いがけない言葉だと言いたげに、幸喜は恭平のほうを向く。点にさせた彼の目は、ぱちぱちしている。もしかして、ネットショッピングとか使ったことないのだろうか。彼、というか保護者の立場だった愛翔も含め。

「商品選んでくれたら、買ってあげられるよ? 置き配に設定しておけば、受け取るときも人と会わなくていいし。」

「…!! なにそれ、…めっちゃ、便利じゃん…」

 幸喜の瞳がトパーズの輝きを取り戻す。新しい発見を得たときの、きらきらした表情。幸喜にとっては間違いなく、一人で店に買いに行くよりも革命的な選択肢だった。

 はじめて目の当たりにした気さえする、幸喜の少年らしい顔に、恭平は思わず微笑みがこぼれる。

「やってみよっか。」

 流れに乗って発した誘いに、幸喜はおっかなびっくり乗じる。

「……いいんか?」

「幸喜くんがよければ、僕は構わないよ。名前も僕のにしとくね。」

「………たすかる。」

 愛翔、ネット音痴だったから。幸喜はぼそりと呟く。

 肩の大きな荷が下りたみたく、安堵した顔つきで。彼はココアをこくりと飲んだ。

「それじゃあ明日は、気兼ねなく買い物行こうっか!」

「…ん。」

 恭平の一言に、幸喜も合意して頷いた。



 ─〈中〉へ続く─

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る