二『初めての休日を過ごす。』中


 R四年一月二十六日土曜日。

 二人ともに朝食を食べ終えて、出かける支度を進めた。天気予報によると、今日も一桁台の冷え込みだという。屋内は暖かいかもしれないが、万全に防寒の準備はしよう──話の流れによっては、どこか寄るかもしれないし。

 恭平きょうへいの普段の腰丈のピーコートの下には、上着のセーターを一枚重ねて。スクエアバッグの中にはマフラーを忍ばせた。必需品を確認してから、自室から出る。

 時をほぼ同じくして、斜め向かいの部屋から幸喜こうきも顔を覗かせた。彼は、シルエットのまっすぐな、裾の広い黒のワイドパンツに、腰より長い丈のチェスターコートを羽織っている。上着の下は、あったかそうなニットだから、彼も寒さ対策は十分なのだろう。ショルダーバッグに片手を添えて、少しそわそわしている。

「準備できたかな?」

「…ぁ。ちょっ、と…待って…」

 ぼそり、一言だけ呟いた幸喜。彼はぱたぱたと恭平の前を横切って、トイレの個室のほうへ入っていった。

 その様子を見て、恭平は口元に指をふむ、と当てた。初めての二人での外出。移動時間はそこまで長くはないと思うけれど、自由を拘束されるのは違いない。幸喜にとっては、少し緊張してしまうことなのかもしれない、そう思い至る。

(…下調べして困ることはないからね。)

 恭平はスマートフォンの画面を点ける。目的の商業施設のHPを開いて、フロアマップを表示しておく。必要な場所がどこにあるか、恭平はしっかり頭に入れた。


「できる限り丁寧に運転するけど、もし気分悪くなったり、休憩したくなったりしたら…いつでも言ってね。」

「………ん。」

 言外の意味も込めて伝えた言葉。どこまで汲み取っていたかは定かではないが、恭平の斜め後ろの座席の幸喜は小さく頷いてくれた。


 恭平の運転は、幸喜も驚くほど穏やかだった。急な加減速は一切なく、心地のよいスピードで景色を前へと追い抜いていく。車窓にも広がる空は、澄んだ青が続いている。

 ──愛翔まなとの目とおんなじだ。幸喜は鞄を腿の上で抱えながら、内心独りごちた。

 道の混雑もほぼなく、二人を乗せた車は進む。高速道路から国道に降り、まっすぐ進んでいけば、目的地は目と鼻の先だ。

 運転を始めてから一時間足らずで、目当ての場所には到着した。白線に沿って整然と駐車したのち、恭平は車のエンジンを切る。

「着いたね。身体痛くならなかった?」

「…いや。全然…愛翔より全然いい。」

「ふふ、あいつ運転苦手だったからね。」

「……知ってんの? んなこと…」


 駐車場を抜けて、エントランスに来た二人は、付近に設置されたフロアマップを見上げた。

 街より随分と郊外──港沿いに建設されたこの商業施設は、屋内と屋外が入り混じった形相が特徴的だ。吹き抜けの天井から、自然の光が射し込む。見どころだとメディアがよく取り上げるのは、全面ガラス張りの壁が空を映す、開放的なブックカフェ。ドリンクとともに、穏やかな時を過ごす人も多いのだという。そのほかにも、この地方に初出店するショップや名店と名高いレストランも多くあるらしい。

「どこか気になるところある?」

「ん……文房具買いたいから、ここ。」

「あぁ、いいね。行ってみよっか。」

 幸喜が指したのは、雑貨や文具をはじめ、生活用品が充実している著名な店舗だった。

 恭平も快諾して、二人はのんびりと店を散策する。幸喜が探していたのは、自習用のノートとマーカーだった。

 彼の普段の素振り──リビングでも勉強道具を広げて、自学に励んでいる姿を見るに。勉強が苦手な訳ではないのだろう、と恭平は思い至る。学校に行かない、あるいは行けない? 理由は、きっと別の事柄だ。

「幸喜くんは、好きな科目とかある?」

「えー……数学は苦手だけど…強いて言うなら現代文…」

「そうなんだ…すごいね。僕、学生時代国語すっごい苦手だったから、尊敬しちゃう。」

「あんなん問題文読めば解けるじゃん。」

「うっ…できる人の言い分…」

 恭平は仕事用のメモ帳を手に取りながら、よろめいた。


 会計を済ませたのちに、今度は恭平の目当てであった紳士服の店に赴くこととなった。

 階を上がって、少し歩いた先に見えてきたシックな色調の外装。ウインドウ越しのマネキンを彩る、計算され尽くした形のスーツ。グレーのジャケット、ツータックのスラックス。水晶玉のように磨き込まれた、深い茶色のストレートチップ。素敵だな、と映る恭平と相対して。自分の斜め後ろを歩いている幸喜が、ほんの少し二の足を踏んでいるのが、振り向いたときに一瞬見えた。

「…苦手? こういうお店。」

「……入ったことねぇ。」

 確かに、学生が同年代の人と一緒に入る店ではないのは頷けた。その上、幸喜の兄である愛翔も、興味を示さなかったのを恭平は思い出す。

「キョーヘイさん、いつも服ここで買うの…?」

「んー、そうだね。大抵はこのブランドかなぁ。それか系列のお店。」

「……もしかしてキョーヘイさんって、めっちゃ金持ち?」

 と、幸喜は商品に並ぶスーツのジャケットの袖口──に留められた値札を見て、ささやく。そこには、幸喜のバイト代ではかなり躊躇う金額が記載されていた。

「いやいやいや……確かに可処分所得は人より多いかもだけど…! いつでもスーツ買ってるわけじゃないよぉ。」

 僕がいつも買うのは、オフィスカジュアルのほう。そう言って、恭平が手に取ったパジャマに似た生地のラフなスーツの値札は、先ほどよりもうんと抑えた価格だった。

「ね?」

「あ……ほんとだ。全部が全部だってわけじゃないんだな…」

「…まぁ、値が張るってことは、それだけ長く使えるって事だから…スーツもいつかは新調したいと思うけどね。」

 納得した幸喜に、恭平はほっと胸を撫で下ろした。店の奥のほうを通ってみると、そこには様々なスタイルのスーツが並べられている。その中の一角、真白のネクタイと漆黒のみで彩られた装いが目に入って。ぴくり。と恭平の視線が奪われる。


(………憧れ、だったな。)

 あの装いで、愛する人の隣を歩く日を、夢見ていた。たとえ、この社会で叶うかどうか、未来永劫わからなくとも。その夢は、彼のいなくなった今、過去形になってしまっていた。自覚が、こころに突き刺さる。

「……キョーヘイさん?」

「あ、ごめん。行こっか。」

 視線にくるまれていたのに気づいて、半ば慌てて笑みを返した。なんでもないよ、と取り繕うみたく。

 これだけ買ってくるね、と目をつけていたシャツを手にとって、レジへと向かう恭平。そんな彼の背姿を、幸喜は下げた眉で見つめ続けていた。


 ゆっくりと気になった店を見回っているうちに、時刻は正午に近づいていた。しっかりとした空腹感を覚えていた恭平は、そっと幸喜のほうを見遣る。──そこで、あ、と気がついた。

「……っ…」

 不安なものを抱えているように、心配そうな表情。そわそわ、緩慢に揺れる脚。チェスターコートの腰のあたりの布地を、きゅっとつまんでいる右手。予想が確信に変わるのは容易だった。

 ──確か、レストラン街の手前のあたりにあったはず。この通りをまっすぐ行けば、そこへは至る。記憶を辿りながら、恭平はあえてこのまま歩く選択をする。

「そろそろお昼どきだから、ご飯食べよっか。お腹すいてる?」

「っ! あ、えと……その前に…」

 俯きがちだった幸喜が顔を上げると、視界には彼に今必要な場所のアイコンが入る。そうなることを計算して、恭平は立ち位置を選んだ。

「………」

「…気にしなくて大丈夫だから、行っておいで?」

 周りの人に聞かれないよう、潜めた声で伝える。すると、幸喜の頬はじわりじわりと赤くなっていく。気づかれてた、と驚く顔が正直だった。

「っ、〜〜行ってくる…っ」

「ゆっくり待ってるね。」

 早足でトイレに向かう幸喜の背中を、恭平は暖かい眼差しで見送っていた。



***



 ──愛翔以外に言うの、こんなに恥ずいって知らなかった。

 目的の場所へ小走りしながら、幸喜は唇をきゅっと結ぶ。いたたまれなさで今にも悶えたい心持ちだったが、状況はそれどころじゃない。

 幸い、男性用トイレに幸喜以外の人は居なかった。小便器も個室も、どちらもすべて空いている。一番近い小便器の前に前に向かおうとしたとき。幸喜の脚は止まってしまう。

(……っ、やっぱり…)

 ──もしも、同じクラスの誰かが来たら。からだを、見られてしまったら。何かを言われたら。ゼロに近い可能性が、浮かんでは消えずに頭へと居座る。やっぱり、やっぱり。怖い。ここじゃ、できない。

 方向を百二十度変える。先は、個室のほう。

 慌てて入って鍵を締めて。ベルトを緩めてから一緒くたに下ろした。

 誰にも見られない、そんな安心のおかげか。からだの緊張はするりとほどけた。ぱしゃぱしゃ、水をうつみずの音が聞こえてくる。


(………はぁ…)

 間に合ってよかった、と思う裏腹。

 そんなことで安心している自分が、情けない。いくら最近、失敗が続いているとはいえ。

 恭平と同居を始めてから、──いや、愛翔がいなくなってから。幸喜のからだはそれまで以上に不安定になってしまっていた。緊張や不安に比例して、我慢できなくなってしまうおしっこ。三日前の夜、恭平の前でしてしまった盛大なおもらしは、そのさいあくの結果だった。加えて、念のためとほぼ毎晩穿いている夜の下着も、ここ数日で何度か「着けててよかった」の結果になってしまっている。確率的には、まっさらなまま捨ててしまうほうが多いとしても、実際あふれていまった日もあったのも事実だ。今までは、月に数回あるかないか、という頻度だったにも関わらず。

 ただ、たったひとつ、心の底から安堵したのは──同居人である恭平が、幸喜のどんな失敗や事情にも否定せず向き合って、寄り添ってくれていること。おしっこの失敗、排泄の事情、なんて嫌がられて追い出されてもおかしくないのに。恭平は呆れたり邪険にしたりすることは一切なく、気遣ってくれていた。実の兄・愛翔ともちがう別の優しさをもって。

 しょろしょろと勢いは弱くなって、次第に小さなお腹はすっかり空っぽになる。

(…はやく、戻ろ…)

 帰りが遅くて、またあの目に心配されるのは──迷惑をかけるのは。できれば、もうないようにしたい。幸喜は服を整え、手を洗いながら、一人思いを新たにした。


「あ、おかえり。」

「………」

 恭平はちゃんと、別れた場所で待っていてくれた。彼はスマートフォンを片手に、こちらに気づいてふわりと微笑む。返す言葉がうまく見つからなくて、幸喜は黙って頷いた。そこには言及せず、恭平は何事もなかったかのように幸喜へと話しかける。

「今ここのレストラン調べてたんだ。何があるかなって。」

「……ふーん。」

「幸喜くん、食べたいものある? 僕好き嫌いないから、合わせるよ。」

 そう言いつつ、レストラン街のマップの前へ移動する。リーズナブルな洋食屋やめん処、最近話題のぼる屋号のラーメン、名の知れたファストフードも揃っている。数々の店が並ぶ中、幸喜の目に留まったのは──それらのいずれでもなかった。

「………ぁ…」

「…気になるのある?」

 レストラン街のマップには、別のエリアの飲食店の情報も、片隅に添えられていた。幸喜の視線の先は、その中の一つ。一棟全体が本屋になっているフロアに併設した、カフェ。店の名前とともに記されている店の画像には、シロップできらきらコーティングされた、パンケーキのワンプレートが写っている。

「へぇ、いいじゃない! 行ってみる?」

「……いいの? 飯に、なんねぇとおもうけど…」

「たまにはいいと思うし、僕は気にしないけど。幸喜くん気にするタイプ?」

「………いや。」

 幸喜の食べたいものが知れた。そんな喜びで、恭平はにこにこ笑っていた。

 本屋の棟に向かって、お目当てのカフェに入ってみる。お昼の時間を迎えたからか、二人の入店で、席はちょうど満員になった。周囲を軽く窺うも、客層は懸念していたほど偏ってもいない。恭平と幸喜という男性二人でも、居心地はわるくなかった。

「わぁ…! 凄いねぇ。どれにするか決めかねるなぁ…」

「こんなん一生迷えるじゃん…」

 思いの外、幸喜は甘いものへの関心があるらしい。微笑ましく思いながらも、恭平は自分の注文を決める。カフェラテとダークモカショコラのクラシックパンケーキ。

 一方の幸喜も、メニューと睨めっこしながら決めた。メープルシフォンパンケーキ。バニラアイス添え。名前だけであまさが滲み出ている。

「飲み物はどうする?」

「え……いい。金あんま持ってねぇし…」

「えっここは僕が出すよ。保護者なんだから…」

「……でも…」

「じゃあ、今日一緒に来てくれたお礼ってことで! …それならいいよね?」

 殆ど有無を言わさぬ恭平の詰め方に、幸喜はおずおずと頷く。その指で指したミルクティーを、恭平はオーダーに加えた。こうして、大人の財布に頼ることを、少しずつ幸喜に覚えさせていくのであった。


 待ち望んだパンケーキは、どちらも目を見張る完成度だった。チョコレートソースとコーヒーシロップが格子状にかけられた、深いチョコレート色のパンケーキ。重みのある厚さの生地は、思っていたよりほろ苦い。シロップたちとの相性が抜群だ。

 幸喜のメープルシフォンパンケーキは、かろやかなきつね色で彩られている。上に降り注いだ粉雪のシュガーと、隣にまあるいバニラアイス。惜しみないメープルシロップが、てらてらあたたかい照明に照りかえっている。一口、運んだだけで。ことば通りふわふわの、素朴な甘さが口いっぱいに広がった。

「………めちゃうまい…」

「ほんとに。幸の味だねぇ。」

 はふはふ、小さな口で幸喜はパンケーキを頬張る。垂れ下がった瞼をやわく細めながら、ほんの少し口角を上げている。とびきり安らいだ表情に、恭平も心が穏やかになる。

 同時に、彼が自分の前で率直な顔を見せてくれている事実に、胸が打たれた思いだった。じんわりゆるむ視界とともに飲み込んだカフェラテは、なぜかちょっぴりしおからい味がした。


「…キョーヘイさん。ごちそうさま、でした…」

「ん! おいしかったね。機会があったら、他のメニューも食べに行きたいなぁ」

 食欲も満たされた二人は、腹ごなしに歩きながら、これからの予定をしばし考えることにした。店や買い物はあらかた済んでしまったし、そろそろ帰っても問題はない。

 ふと、帰ってきたはじめのエントランスには案内板が立てられていた。恭平の視線は、それをぼんやりと眺める。気づけば、情報として頭の中にインプットされていた。

「…海近いんだ。ここって…」

 隣から聞こえた声に、恭平は瞬く。幸喜もどうやら同じ情報を目に入れていたらしい。

 案内板には付近の観光場所として、名前のついた「岬」が紹介されていた。広大な海原を見渡せる地点であり、撮影スポットにも多用されている、らしい。ここから三十分ほど車を走らせれば、そこへは辿り着く。

「……幸喜くんは、海好き?」

 恭平の、どこか静かな問いかけに、幸喜は若干首を傾げる。

「……行ったことねぇかも。もの心ついてから…」

 でも、と幸喜は続ける。

「…愛翔はよく行きたがってた。」

「──そっか。」

 平坦な声色で返したはずだが、うまくできていただろうか。恭平は胸の中でざわめく自分を、咽喉の奥で押さえつけながら、囁いた。

「…行ってみる? 僕も気になってたからさ。」

「………」

 暫し、幸喜は視線を落とす。返答を恭平はじっと待った。

 躊躇いを抱いたまま、彼は小さく、頷きを返した。



***



 ドアを開けた瞬間に、潮のかおりが鼻腔に伝わってきた。

 海の気配を運ぶ風は、昼間の太陽に照らされているはずなのに、かなり冷たい。恭平は鞄にしまっていたマフラーを取り出した。そして、自分の首に巻こうとして──今しがた車を降りた彼のほうが、よっぽど首元が開いているのに気づく。

「寒くない? マフラー、僕のだけど使う?」

「……別に。あんたのが寒そうだけど。」

 と返されたので、恭平はおとなしく自分で用いることにした。

 

 六色岬むついろみさきは、空から射す光と海水の反射の加減で、六色の虹のように見えることがあったから、付けられた名称だという。駐車場の出入り口に設置された看板には、そう記されていた。

 ざり、と砂と砂利に靴が絡み取られる。ここに来ることは想定していなかったから、革靴が痛んでしまいそうだが、致し方なし。恭平は前方へと歩を進めた。

 岬の向こうに広がる海は、二人を容易く飲み込んでしまえるほど、大きい。自然との力の差を痛感して、畏れるきもちが湧き上がる。──愛翔が簡単にいなくなってしまったように。僕たちは、自然と大きな権力には成すすべがない。

(…あいつ、海好きだったよなぁ…)

 恭平も、知っていた。

 愛翔、寒がりのくせに。身体冷やすとすぐ催してしまうのに。たとえ真冬でも、どんな季節でも、愛翔は海が好きだった。恭平に事あるごとに、「海行きたい」と持ちかけていた。結局、彼と一緒に行くことは叶わなかった。自分が、出し惜しみして渋っていたのが原因だった。

「…キョーヘイさん、あいつが海好きだって、知ってたんじゃないの。」

 幸喜は慣れない砂浜に目を向けて歩きながら、呟いた。

「………どうして?」

「……めちゃ、しんどそうな顔してた、から。さっき。」

 案内板の前で話をしていたときだろうか。気づかれないよう、動揺を隠していたつもりだった。恭平のそれ以上に、幸喜は目敏かった。

 肯定も否定も、声には出さず。恭平はかすかに微笑する。ずるい大人だと、もう一人の自分が内側で責め立てた。

「もっと、やりたいこと叶えてあげたかったなって…思っただけだよ。」

 本音だった。海に行くことも、あいつが行きたがってた遊園地だの水族館に行くことも。お揃いの指輪を買うことも、何らかのパートナーたる証明を認められることも。──そして、式を挙げることも。ちっぽけで壮大な願いは、社会とか権力とか関係なく、もう永久に叶わなくなってしまった。

 ──後悔なんて、いくら数えてもたりないほどたくさんある。けれど、後ろにだけ目を向けていては、僕たちは明日を生きていけない。

「……あんたも、つらいんだな。」

 恭平より前方で、海を見つめる幸喜の後ろ姿が呟いた言葉。潮風の唸る音に掻き消えて、聞こえなかったふりをした。

 互いの表情など見えないまま、二人はしばらく立ち竦んでいた。



 淡い水色の空に、薄ら橙色が霞み始めてきた頃。二人は車に戻っていた。随分と海風に体温を奪われてしまっていたから、恭平はエンジンをかけるとともに、暖房の温度を上げた。後部座席の幸喜が、両手の平をさすったのがバックミラー越しに見えて、次に助手席のグローブボックスを開けた。

「暖房、回るまで時間かかるから…ブランケット使っていいよ。」

「あ……さんきゅ。」

 差し出したベージュのブランケットを、幸喜は素直に受け取ってくれた。

「家まで一時間半くらいかな。疲れただろうし、眠ってても大丈夫だからね。」

「……ん。」

 ブランケットを膝にかけて、すでにゆるりと目を細めている幸喜の姿を認めて。恭平はゆっくりと、アクセルを踏んだ。



***



 愛翔が、実の弟と二人で生活をしていると、恭平はかすかに知っていた。というのも、実態を垣間見たことはなかったゆえだ。彼の自宅に赴いた経験は恭平にはなく、彼の弟とも面識は一切なかった。

 ただ、時折愛翔の話に出てくる──恋人と同等、あるいはそれ以上──すごく大切にしている存在なのだと、恭平は認識していた。第一、「弟の生活のためにまだ同棲はできない」とかねてから言っていた愛翔だ。そこに差異は間違いなく在ったのだろう。



 愛翔の葬儀のあと、数日経たず。恭平はあの日の電話の主、隆司たかしのもと──三宅みやけ法律事務所に招かれていた。

『紹介が遅れてしまい、申し訳ございません。…私は、愛翔さんの遺言執行人の小暮こぐれ隆司たかしと申します。』

 この法律事務所の司法書士だという彼の話によると、彼は正式なる遺言執行人として、愛翔から選定されていたらしい。つまり、愛翔は「遺言」を遺していたのだという。


 信じられないくらい、目を剥いた。

 自分は何も聞かされていなかった。

 ゆっくりと丁寧な、隆司の説明を耳にしながらも。その一言一句を疑わざるを得なかった。


 遺言には、春日愛翔の保有する財産の半分を橋口恭平へ。

 もう半分を実の弟・春日幸喜へ渡すこと。

 そして、春日幸喜の「親権」を橋口恭平に譲渡すること。

 以上が明記されていた。



─〈下〉へ続く─

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