一.五『夜を経る。』
目が覚めた瞬間に、全身の血の気がひいた。掛け布団の中、自分の中心がいやに冷たさを帯びている。起き抜けの頭でも、それに気づいてしまったゆえに。
「ッ──!! ぁ、…」
飛び起きた
──大凶だ。
幸喜の中心──腰元と脚の付け根は、〝ある一定の位置からあふれてしまった〟ような染みが広がっていた。
そして、ベッドの上のシーツに、あふれたものの水たまりが、いびつにふたつ。腰の上あたりと、太もものあたり。無論、股ぐらは全く無事なのに。
これがどういう状況なのか、幸喜に理解が及ばないはずがなかった。だからこそ、掛け布団を握る手を離せないまま。背を丸めるみたく、俯いてしまう。じわりと目頭が熱い、のに震えが止まらない。心臓のおくのほうがひどくつめたい。
幸喜の〝夜の〟から溢れてしまった水たまり。それは、現実から目を逸らすな、と言わんばかりに、幸喜の真下にありありと広がっていた。
(……さいあく…ッ)
R四年一月二十四日木曜日深夜。
とうとう、取り返しのつかないことになってしまった。よりにもよって、あんな盛大な失敗の翌日に。また同居人──恭平の迷惑になる事態を起こしてしまうなんて。
だって、と幸喜は心のうちむずがってしまう。
こんな失敗──あふれてベッドまで濡らしてしまうなんてこと、一年に一回あるかないかくらいだったのだ。実の兄・
瞬けば、今にでも熱いものがこぼれてしまいそうだった。喉の奥で押し殺して、幸喜は状況を整理しようと努める。被害を少しでも減らすために、今から何をしなければならないのかを。
──シーツ、はやくはがして洗わないと。
もしマットレスまで染みてたらどうしよう。染み抜きなんて、自分じゃやったことない。どうしよう、どうすれば、いや、とにかく先に〝夜の〟をなんとかしないと。このままじゃ部屋すら出られない──。
掛け布団を隅に寄せてから、幸喜はそろそろとベッドから抜け出す。これ以上溢れてしまわないよう、かける重心に最大限の注意を払って。ぐしゅ、ぐじゅ、そんないやみな音が体づたいに聞こえた気がして、苦虫を噛んだ。
やっとフローリングに両足をつけたとき。幸喜は自分の腰元の不自然なほどのおもさに気がついた。
あふれてしまうほど、一晩中の幸喜のみずを受け止めてくれた〝夜の〟だ。今にも重力に従って、下へしたへとずり落ちてしまいそうなもの。たぷたぷになったそれを直視できないまま、幸喜は固い身体でパジャマごと下ろした。
「……っ、」
見ない、と心に決めて、粛々と処理を行う。きっと目の当たりにしてしまった途端、それさえ見えなくなるほど目の前がゆがんでしまうだろうから。何も考えるな、と自分に銘じて、外した〝夜の〟を大判のテープで密閉する。雁字搦めにしていく。その手つきは、普段よりずっとたどたどしい。
密閉したそれをさらにビニール袋に入れ、消臭と殺菌用のスプレーをかける。最後にもう一枚、真っ黒の不透明ビニール袋に入れて、完全に、空気の分子の一粒も許さないほどに固くきつく締める。そいつは、専用のゴミ箱にぶち込んでおけば、ひとまず完了。
──ここまでは、いつもとおんなじ。
愛翔と生きていたときも、恭平と暮らしはじめてから──二回目の朝も。こうして同じ工程で処理をした。だが、そのいずれのときとも違うのは、パジャマとベッドシーツまで水たまりが広がってしまっていることに他ならない。
(……シャワー、浴びてぇ…けど……)
確かに、家主である恭平は自分に、シャワーやお風呂はいつ使ってもいいと説明されていた。彼の作ったマニュアルには、生活リズムが異なる幸喜のために、家財の使い方やルールなどご丁寧に書かれていた。だから、二回目の朝もこっそりシャワーを使うことができたのだ。
でも今、優先すべきは自分ではない、と幸喜は気持ちに蓋をしてしまう。濡れた下肢のまま、濡れたズボンを履き直す。その惨めさといったらなかった。
マットレスを覆うシーツを、端からおずおず剥がしていく。きっと恭平が、幸喜のために用意してくれたベッドメイキングなのだ。拙い失敗で、台無しにしてしまった自分が情けない。言葉にできない思いは、シーツを握りしめる力に変わってしまう。
シーツを剥がして漸くわかった。
マットレスにこそ染みていないが、その間にあったベッドパッドのような一枚に、じんわり染みが伝ってしまっていた。動かぬ失敗の証拠を認めた幸喜の心は、ぐしゃりと軋む。ただでさえ失敗のあとのさいあくな気持ちに、乗算していく真っ暗な視界。
ベッドパッドも外して、二つを両腕に抱える。なんとかしなきゃ、自分で。俯いた視線を上げられないまま、幸喜は部屋のドアを恐る恐る開けた。
***
つめたい脱衣所の洗面所前。
洗濯機の上に濡れたシーツたちを置いて、幸喜は力なく立ち尽くす。
ここからどう対処すればいいのか、道筋が見えない。洗うにしても、シーツはまだしもベッドパッドはどうする。洗濯機で洗っていいものなのか、洗剤はどれを使えばいいのか。そもそも、乾かすときはどうするつもりだ。物干し竿に干せば、「おねしょしました」と同居人に表明しているようなものじゃないか。
何より、自分の不手際で染みを残してしまったらどうしよう。
恭平の家の物なのに。損壊させてしまったら、どう責任を取ればいい?
ぐるぐると視界が回る。真っ黒い翳りが胸の中で蹲る。小さなお腹が、──あんなに出したのに、もうかじかみはじめる。なんで。
「……っ…」
こぼれそうな目の前を、際で押しとどめる。パジャマの上着の袖口で、目を覆う。
だめだ。
下を向いていたら、そのうち勝手にこぼれてしまう。第一、感情に振り回されている場合じゃないのだ。はやく、この状況を解決しないと。シャワーも浴びれないし、体を綺麗にしなきゃトイレにも行けない。
(っ…洗い方…マニュアルに載ってるかもしれない。それしか…)
脱衣所からふらりと身体を翻して、幸喜はリビングへと向かおうとする。きぃ、と廊下が小さく悲鳴をあげた瞬間、前方から扉の音が聞こえた。
──え?
人の気配が闇の中で動いた、空気の揺れを感じた。同時に、向こうも幸喜のほうに気づいたようで、暗がりに浮かぶ瞳が瞬いた。──深海色の瞳だ。
「…幸喜くん?」
「……っな…」
彼以外いるはずがなかった。
寝間着のパジャマ姿の同居人──恭平は、弧を描く眉を下げて、目を丸くしていた。起き抜けだからか、眼鏡はかけていなかった。
恭平の視線が瞬く。
その矛先が、一瞬幸喜の腰元を向いているとわかったとき。幸喜の顔は耳まで赤く染まった。
「──っなん、」
「あっ……いや、ちょっと目が覚めちゃったから、水でも飲もうかなって。」
動揺で言葉を失う幸喜へ、焦り混じりに恭平は話す。彼が言うには、夢見が悪かったのだとか。
けれど、あわあわしていた表情は、次第に落ち着きと保護者の顔を取り戻していく。
「……幸喜くんは、どうしたの?」
まっすぐに見つめられる。柔らかく細まった目と拡大した瞳は、自分を映している。
思わず、目を逸らした。
「…………別に…っ」
明かり一つない暗がりでは、幸喜のパジャマの染みは見えにくい。恭平なら尚更、眼鏡すらかけていないのだから、見えているはずがない。はずなのに。
「……幸喜くん。」
「ッ……なに、」
「…今、困ってることがあるの?」
恭平は、透き通った深い色の瞳で、疑いなく問いかけてくる。幸喜に何が──あるいは何かが起きたことを見透かしていた。困り果てた幸喜へ、手を差し出していたのだ。
「……なん、で」
真冬の深夜の空気ごしに、恭平の体温が伝播している気さえする。ぬくい温度が、幸喜のつめたいところをあたためようとしていた。じわり、起きてから力を入れっぱなしだった心臓の緊張がほどけようとする。だめだ、そんなことをしたら。
幸喜の一メートルほど前で、恭平はそっと膝を折っていた。視線が、幸喜よりも下へと変わる。
「僕に、何か手伝えることあるかな?」
その声色は、穏やかで際限なく優しく聴こえてしまう。この人に任せれば、すべて解決すると知らしめられるみたいに。
悴んでいた小さなお腹が、ぼうっとあたたかくなる。それに気づいた瞬間、目頭が一気に熱を帯びた。
「──ぁ、…」
ぽたり、頬を伝ったしずくが、廊下に落ちた。
自分で、自分の顔に触れて、そうして気がつく。あふれてしまった、こっちまで。
「っ、ちが……」
「あ………ごめん。やっぱり、訊かれるの嫌だった…?」
「……っちがぅ…」
拭う手の甲がびしょびしょになりゆく。
流れつづける幸喜の涙の軌道を目の前に、恭平は裸眼を丸くして、そっと幸喜の隣に歩み寄った。背中に、彼の体温が触れた。
「いじわるな聞きかたしちゃったね。ごめんね。…気づいてたんだ。」
「っ……」
やっぱりそうだ。恭平は、ぜんぶわかった上で、幸喜に尋ねかけていた。
柔らかな手の感触が、自分の背中で上下している。呼吸の速度を、彼は教えてくれていた。ちがう、以外の言葉を見つけられずにいる幸喜へ、恭平は殊更に優しく語りかけた。
「洗濯は僕がやっておくから、シャワー浴びてきていいんだよ。」
「ッ、なに言って、」
「濡れたままだと、身体冷やしちゃうでしょ? ちゃんとあったまっておいで。」
微笑む息づかいが、隣で聞こえた。彼は、やわくじんわりと目を細めて、幸喜の涙でびしょ濡れの目と視線を合わせる。
そして一言、確かな輪郭を有する声でささやく。
「大丈夫だよ。」
昨日の夜とおなじ──いや、昨日以上に、彼は確信を持っている声色だった。微笑みと、言葉、背中に伝わる温もり。それらすべてが、幸喜の緊張をひとつひとつほどいていく。涙の勢いが、同時に強くなっていく。
(いみ、わかんね)
──おねしょした挙句、子どもみたいに泣き出すなんて、もう子どもとなんにも変わりない、のに。
──現に今、あんたに、迷惑かけてんのに。
──昨日も、今日も、こんなの、〝普通〟じゃないのに。
(なんで、そんなにやさしいんだよ)
自分を見る視線は、幸喜の今をまるごと受け入れている。逸らさず、隣にい続けてくれている。涙でしゃくり上げる音以外出せない幸喜の背中さえ、恭平は優しく撫で続けていた。
彼に脱衣所にまで連れ添われて、やっと幸喜はあついシャワーで身体を綺麗にできたのであった。
***
明かりの灯ったリビングのドアを、おそるおそる開けた。ベランダのガラス戸の傍で、眼鏡をかけた同居人の横顔が見える。彼の腰元あたりには、小さな物干しとそこへ掛けられた幸喜のパジャマがあった。ベランダの柵よりちょっと低いから、外から見られる心配はなさそうだ。
くるりと振り向いた恭平と、ばっちり目があった。
「あ、おかえりなさい。」
「…………」
「パジャマ、サイズ大丈夫そうだったかな?」
シャワー上がりの幸喜が着ているのは、恭平が用意してくれていた、新品のパジャマだった。薄いベージュに黒のラインが入ったデザインで、少し厚手だから寒さを感じずに済んだ。
あんなことがあっても、朗らかな微笑を崩さない恭平へ。何を言うべきか、言わないべきか、幸喜は何度も逡巡する。ゆえに言葉が何一つ浮かばず、黙りこくってしまう。
そんな俯く姿に目を細めて、恭平は尋ねる。
「ベッドのシーツなんだけど…」
「っ……」
「一番上のシーツは、買い置きがあるから渡すね。あとベッドパッドの代わりに、防水のシーツがあるから…それでもいいかな?」
「──そんなん持ってんの…?」
なんで、と思わず幸喜のたれ目が見開いていく。失敗と縁遠い恭平の家に何故。怪訝な顔をしはじめる幸喜に、内心大量の汗をかきながら恭平は弁明する。
「え、あぁ、ほら、汗かいてもマットレスに染みないし…何かと便利だからね。」
──真相は決して彼には言えない。まさか──購入の当初の目的が、愛翔と情事に及ぶときのため、とは。幸喜は、自分の実の兄・愛翔と恭平が恋人関係であった事など知る由もない。カムアウトなんて、少なくとも恭平は誰にもできなかったのだから。
ただ、愛翔の夜の失敗からマットレスを守れた試しは、過去数回あったのも事実だった。数枚セットの残りを捨てないでよかった。と恭平は汗だらけの心でおもう。
ええとね、と気を取り直した恭平は言葉を繋ぐ。
「だから、…難しいかもしれないけど、気にしなくていいんだよ。僕にとっては、洗濯やちょっとの片づけで解決できることだから。」
手間でも、〝迷惑〟でも、決してないんだ。
恭平は確固たる声で、そう伝える。まっすぐすぎる言葉と視線が、彼の思いがほんとうだと証拠づける。
「っ……」
「幸喜くんの事情も、ちゃんとサポートしていたい。…少しずつでいいから、僕のこと信じてくれたら嬉しいな。」
幸喜への意思を残して、恭平はふっと微笑んだ。
シーツ、持ってくるね。と幸喜の隣をおもむろに通り過ぎようとした。その瞬間に、幸喜は咽喉をこじ開ける。
「っ、まっ……て」
恭平はぴたりと足を止める。
幸喜のちょうど真隣。自分の横顔を、恭平が窺うのが視界の端に映る。
「……うまく、いえねーんだけど、…」
「うん。」
「………信用してないわけじゃ、ないし…その、助かってる、のもほんとだから。」
だからこそ。
優しさを台無しにしてしまうみたいな自分がいやだ。
両手の拳に、やりきれない力が込もる。何かを伝えなきゃいけない。でも、その答えが見つからない。自分の気持ちを声に出すのは、こんなにも難しい。
果てに、辿り着いた一言が、世界で恭平の耳にだけ届く。
「……こんな俺で、ごめん」
横顔の目は、俯きがちに恭平へと向けられる。トパーズの輝きは陰に隠されてしまっていた。
彼と同じ視線になるように、恭平は膝を折った。落ち込んだ大切なひとへ何を言えるのか、彼は三秒の中で答えを出した。
「──そのままのきみで、いいんだよ。」
そう伝えて、恭平はもう一度、幸喜の薄い背中にやさしく手を当てた。
了
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