第5話
たった数十分会っただけなのに、わたしの中でシャボン玉のお姉さんのことはいまだに忘れられなかった。本当は志望校に合格したことをお姉さんに伝えたかったのに、一度会ったきり会えなくなってしまったので、まだその報告はできていない。
代わりに、わたしはお姉さんからの一方的な報告を聞きに、東京のとある映画館に来ていた。わたし個人への報告ではなく、お姉さんのファン全員への報告。わたしもその有象無象のファンの中に紛れて、お姉さんのことを座席から見守る。
試写会の日のキャスト挨拶で壇上に上がる出演者の中の一人が、紛れもなくあの日のお姉さんだった。スラリと背が高く、カッコいいお姉さん。伊佐原寧々という芸名でドラマに出演しているのは知っているけれど、わたしは今だに心の中では彼女のことをお姉さんと呼んでいた。
みんなが知っている女優としての芸名よりも、わたしだけのお姉さんという呼び方の方が、少しだけ特別感があって、好きだった。お姉さんがわたしのことを覚えていなくても、わたしの中ではいつまでもお姉さんのことは覚えていたいから。
視線の先にいる、綺麗な肩を出しているドレス姿のお姉さんが綺麗すぎて、思わず声にならない声を出してしまい、横の席の人から不審な目で見られてしまった。
滞りなく進んでいく出演者へのインタビューを見て、お姉さんが言葉を発するたびに、わたしの心にあの日のことが蘇る。もちろん、お姉さんはわたしのことなんて覚えていないだろうけれど。
司会者から、映画にまつわる質問ということで、運命を変えた出会いについて尋ねられたお姉さんは語り出す。
「そうですね。わたしは数年前までよく落ち込んだらよく公園でシャボン玉を吹いてました」
わたしの胸の鼓動が早くなる。
「えー、それ怪しくないですか?」
他のキャストが横から冗談めかして言ったのを聞いて、客席から笑いが起きたけれど、お姉さんは真面目な顔で続けていた。
「仕事でかなり大きなミスしちゃった日に、とある高校生の女の子とお互いに悩みを打ち明けながら、シャボン玉を吹いたんです。あの時、彼女に会ったおかげで、わたしはもう一回夢に向かって頑張ろうって思えて、今ここに立ってるんだと思います」
お姉さんが小さく息を吸った音をマイクが拾った。
「一度消えかけた火をもう一度つけてくれた彼女のこと、今でも全然忘れられなくて、それがわたしの運命を変えた出会いです」
お姉さんが話し出している途中から、わたしは泣き出してしまっていた。声を出さないように気を付けていたけれど、それでも漏れてしまっていた。周りの人たちからは、静かにして欲しそうな気配は感じられたけれど、涙は止まってくれなかった。
居た堪れなくって、顔を伏せた。周りの視線をシャットアウトする。お姉さんがわたしのことをちゃんと覚えてくれていたことが嬉しかった。わたしの一方的な片思いが無駄じゃなかったことを知れて、本当に良かった。
そんなことを思いながら、ひとしきり涙を流し終えた後、わたしは恐る恐る顔を上げて、もう一度お姉さんの方に向き直ると、お姉さんがわたしの方をジッと微笑みながら見つめてくれていることに気がついた。綺麗に微笑む彼女の瞳が照明に反射してキラリと光ったような気がした。わたしはどうしたら良いのかもわからず、小さく頷いたのだった。
一通り挨拶が終わると、キャストは舞台裏に戻っていく。戻りながら、お姉さんの視線がチラチラとわたしの方に向いているような気がして、緊張してしまう。まさか、わたしの存在に気づいてくれたのだろうか……。
そう思って、わたしは首を横に振った。そんなわけがない。わたしとお姉さんはあの日、ほんの数十分一緒に話をしただけなのだから。それでも、もし覚えてくれていたら……。
上映中はドキドキしてしまって、肝心の映画はほとんど頭に入ってこなかった。たただだ、大きなスクリーン越しの綺麗なお姉さんのことを見つめては心臓の鼓動を早めていた。
試写会が終わった後、わたしはフラリと歩き出した。
「とりあえず、またお姉さんの姿生で見られて良かったなぁ……」
久しぶりに見たお姉さんの姿があまりにも綺麗で、まだ暫くは脳裏から艶やかなドレス姿が離れそうにはなかった。
小さくため息をつきながら、試写会場の近くの、遊具も何もない小さな公園のベンチに座った。初めてやってきた公園だから、とうぜん郷愁なんてものはないはずなのに、先ほどお姉さんを見たばかりの状態で公園のベンチに座ると、あの日のことを思い出して、不思議と懐かしい気持ちになってしまう。
びっしりと集まったビル群の隙間からは、夕暮れ時になっても、夕陽は見られそうにもないのに。わたしはベンチに座って、ぼんやりと晴天の空を眺めた。
「お姉さん、やっぱり綺麗だったなぁ……」
バッグの中から、いつものように吹き棒を取り出して、慣れた手つきでシャボン玉を吹いた。綺麗なシャボン玉が太陽の光に反射しながら空に昇っていく。たくさんのシャボン玉を見ては、お姉さんのことを思い出す。シャボン玉をたくさん吹いたら、どれかのシャボン玉の中からそのうちお姉さんが出てきてくれないだろうか。
そんな非現実的なことを考えながら、吹いて、吹いて、吹き続けた。暫く吹いてから、公園内に綺麗なヒール音が響いてきていることに気がついた。
「やっぱりね」と呆れたような、嬉しそうな声が聞こえてくる。その姿を見て、わたしは吹き棒を口に咥えたまま固まってしまっていた。
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