第4話
「これ、使いなさい」
お姉さんはシャボン液の入った容器をわたしの手に持たせた。
右手に吹き棒、左手にシャボン液。こんなものを両手で持つのは小学校低学年のとき以来だった。わたしは吹き棒をシャボン液につけてから、深呼吸をしてみた。なんだか、人に見られながらシャボン玉を膨らませるのは緊張してしまう。ましてや、とても綺麗なお姉さんが見ているのだから。
わたしはゆっくりと吹き棒を口に咥えてから、鼻から大きく息を吸った。ほんの少しだけ濡れた感触の残っている吹き棒から少しだけタバコの煙が鼻に抜けたような気がした。もちろん、タバコを吸ったことがないから、実際にはタバコの煙がどんなものかはわからないのだけれど。
わたしは吸った息をゆっくりと吐き出した。吹き棒の先から次々と小さなシャボン玉が空に浮かんでいく。沈みかけた夕陽を反射しながら飛んでいく無数のシャボン玉。
「綺麗……」
思わず口から溢れた言葉を聞いて、お姉さんが優しく微笑んだ。
「嫌なことはいっぱいあるけれど、これを見たら明日からもちょっとだけ頑張ろっていう気持ちになれるのよね」
そう言って、お姉さんが小さくため息をついてから続けた。
「ごめん。わたし、さっきちょっとだけ嘘ついたわ」
「え?」
「ほんとはまだ、諦めてないのよ……。諦められなかったのよね……」
お姉さんは、喉の奥から感情を振り絞るみたいにして言った後に、また続ける。
「期待すること忘れた、なんてカッコつけたけど、あれは嘘。まだ未練がましく休みの日には舞台の稽古続けてるの。いつかドラマに出るような女優になりたくて、可能性がちょっとでもあるなら、まだ頑張りたいのよ……」
お姉さんの心の底から吐き出すような声を聞いて、わたしは頷いた。
「お姉さん、美人ですし、こうやって公園でシャボン玉吹いて変出者になってても絵になってますし、きっと女優になれると思いますよ……。誰にも負けないトップ女優に」
「変出者ってね……」
お姉さんが苦笑いをしていた。
「ま、変出者でもいっか。絵になってるって言ってもらったし、元気出たから」
お姉さんが大きく両手を上に持っていき、伸びをした。
「そうですよ、お姉さんなら不可能じゃないです!」
わたしの言葉を聞いて、お姉さんは笑った。
「人のこと励ましてくれるのは嬉しいけど、あなただってちゃんと頑張りなさいよ? まだ12月なんだし、充分取り返しつくんじゃない?」
「心の底から思ってます?」
「思ってるわよ。わたしもあなたも頑張るの!」
「お姉さん、演技上手いから信用できません」
「褒め言葉って思っとくわね」
ため息をついたお姉さんを見て、わたしは笑った。
「じゃ、日も沈んだしわたしは帰るわ。それあげるから、あんたも落ち込んでる暇あったら勉強しなさい」
お姉さんがわたしの持っているシャボン玉セットをチラリと見ていた。
「はぁい」とわたしは素直に頷いてから、去っていくお姉さんの後ろ姿を見つめていた。
しばらくして一人になった後、わたしはシャボン液のついていない、ほんのりタバコの煙の風味の残る吹き棒を咥えてから、フーッと息を吐いた。わたしの吐き出した空気だけが吹き棒から出ていく。
「勉強に集中できなくなるようなこと、お姉さんがしないでくださいよね……」
暗くなった公園を街灯の光が照らしていた。わたしはソッと吹き棒に付着した赤い口紅を見つめた。まだ胸の鼓動は早いままだ。そして、しばらくそんな状態は続きそう。
「でも、お姉さんも頑張るんだったら、わたしも頑張らないとね……!」
ソッとカバンの中にシャボン玉セットを片付けて、大きく伸びをしてから立ち上がった。
お姉さんとの出会いがあったおかげなのかどうかはわからないけれど、とりあえずわたしは志望校に受かり、お姉さんよりも先に努力を報わせることができたのだった。ただ、残念ながらお姉さんと公園で再会することができなかった為、わたしはまだお姉さんに合格の報告はできていなかった。
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