第3話
「良いですね、お姉さんは悩みとか無さそうで」
「そう見えるのかしら」
「見えますよ。仕事終わりに呑気にシャボン玉吹いてるんですから」
わたしが呆れて言うと、お姉さんは笑った。
「わたしなんて、ポンコツなんだから悩みだらけよ」
「子ども相手に謙遜されても困るんですけど」
わたしが気怠そうに言うと、お姉さんが話しだす。
「今日さ、わたし大事な取引先の人怒らせて、上司からも怒られて、泣きながら会社出てきたのよ」
「え?」
「もうお前が会社いても迷惑だからさっさと帰れって言われて、パニックになって本当に定時と同時に帰っちゃったのよ。本当はいろいろ謝ったり、代わりの資料作ったりしないといけないのに……」
「それって結構ヤバくないですか……?」
働いたことがないからわからないけれど、代わりの資料作ったりしてないのに帰るって結構ヤバいのではないだろうか。多分、怖い先生の授業の前日に宿題をせずに寝てしまうくらいヤバいに違いない。
「ヤバいねぇ。明日どうやって謝ろうか、頭いっぱいになっちゃってるわ」
お姉さんは前を向いたまま真面目な顔をして言っていたけれど、よく見ると夕焼けに染まるお姉さんの横顔が潤んでいた。長い綺麗な睫毛を乗せた瞳が急いで瞬きをしている。
ついさっきまで、お姉さんのことは気が強そうで弱いところなんて絶対に見せないような人だと思っていたから、あっさり涙を流すところを見てビックリしてしまう。
「毎日頑張ってるつもりなんだけど、やっぱりうまく行かないのよね。社会人向いてないのよね……」
見た目は仕事のために生きてますって感じの雰囲気なのに、お姉さんは意外と弱気みたいだ。
「わたしさ、本当は女優になりたかったんだけど、なんか会社員やってて、毎日怒られてばっかりなのよ。もう嫌になっちゃうわ」
「で、でも、良い大学出てエリートとして大きな会社で営業やってるんじゃないんですか?」
わたしが尋ねると、お姉さんが困ったように笑う。
「それ、どこ情報よ。高校出て女優になるために、上京して劇団入ったわ。大学には行ってない。それでも、結局女優になれなくて、一昨年劇団をやめて、こっちに帰ってきて、諦めて適当な会社に入ったわ。ちなみに、今いる会社は社員50人ちょっとの小さなとこね」
夕焼け空に照らされながらため息を吐いているお姉さんは、まるで、ドラマを画面越しで見ているみたいに、綺麗で雰囲気があった。
「意外です……」
「わたし、そんなエリートに見えるかしら」
お姉さんの言葉にわたしは大きく頷いた。
どっからどう見ても人生で躓いたことなんてなさそうな雰囲気をしているのに。わたしが意外に思っていると、今度はお姉さんの方からわたしに尋ねてくる。
「ところで、わたしに悩みがあるかどうかなんて聞いたってことは、あなたにも悩みがありそうね」
「ありますよ! わたしには超深刻な悩みがあるんです」
へえ、とお姉さんはさほど興味なさそうに言うけれど、わたしは勝手に続けた。誰でも良いから悩みを聞いて欲しかった。
「もう12月なのに、第一志望の大学の判定がずっとEで、わたしもう終わりなんですよ……」
大きくため息をついて、オーバーに頭を抱えると、お姉さんは「大変ね」と軽い口調で言った。
「絶対大変って思ってないですよね?」
「そうね。あんまり思ってないわ。まだ実際に結果が出たわけでもないし、今からそんなに悲観することなのかしら? まあ、わたしは受験はしていないからよくわからないけれど」
お姉さんが空に浮かぶシャボン玉を見つめながら答えた。
「お姉さんだって、絶対に受かりたいオーディションとかあるんじゃないですか? それと一緒ですよ。わたしにとっては、絶対に出たいドラマが、大学受験なんです」
「絶対に出たいドラマねぇ……。たくさんあったけど、もうダメなことが多すぎて上手く行くことのほうが少ないから、期待することを忘れたわね。だから、その例え、今のわたしには大学受験よりも理解できないかも」
お姉さんは大きなため息をついた。そのため息が深くて、わたしは何も言えなくなってしまう。
「まあでも、あなたが悩んでいることは理解したわ」
お姉さんの言葉を聞いても、なおもわたしが黙ってしまっているのを見て、お姉さんがわたしにシャボン玉の吹き棒を渡してくる。
「何のつもりですか? わたしはタバコ吸わないので口寂しくなんてないですけど」
「別にシャボン玉は口寂しさを埋めるために吸ってるわけじゃないからね?」
お姉さんが苦笑いをしてから続ける。
「落ち込んだ時とか、嫌なことがあった日には、この公園のこのベンチの場所でシャボン玉を吹くのが良いのよ。ビルの間から綺麗に差し込む夕陽に向かって飛んでいくシャボン玉がとっても綺麗なのよ。タバコじゃ得られない快感がある。ここの位置からならとっても綺麗に夕陽が見えるわ」
お姉さんはベンチの真ん中に座っていたのに、少し左にずれて端っこに行ってくれた。わたしとお姉さんの間に一人ぶん座れるスペースが空く。お姉さんのメイクの香りが遠ざかった。
3人掛けのベンチで密着されて座られるのは困ったけれど、いざ離れられるとお姉さんの温かみが離れてしまって嫌だった。お姉さんはベンチの真ん中を右手のひらでトントンと触って座るように促してきたから、わたしは遠慮せずに座る。
まだお姉さんの温かみの残るベンチで、渡された吹き棒をジッと見つめた。口元がほんのり赤くなっていた。それを見てから、お姉さんの唇を見た。同じ赤。そんな赤い口紅が塗られた唇をお姉さんがソッと緩ませた。
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