1-3 〝餌〟

その男と目が合った瞬間、理解した。

 普通の人間じゃない、と。


 落ち窪んだ眼窩に、白濁した眼。

 僅かに残っている青い瞳が、じっと此方を見詰めている。

 其処からは何一つ感情を読み取ることは出来ない。

 

 脳裏に浮かぶ、化物の二文字。

 咄嗟に否定するも、眼前の光景がそれを許してはくれない。

 そして、さらにそれを否定するかのように――。


 男は動き出した。

 

 此方を見詰めたまま、逃がさないと言わんばかりに、ゆっくりと上半身を起こす。

 それは実に精錬された動きで、一切の無駄が無かった。

 不自然な程に。


 あ、駄目だコイツは――。


 瞬時に生物としての本能が警鐘を鳴らした。

 此処から逃げろ、と。


 だが――。


 体は金縛りに遭ったかのように動かなかった。

 筋肉は強張り、硬直した体は鉛のように重い。


 ヤバイヤバイヤバイヤバイ――。

 動け動け動け動け動け動け――。


 だが、現実は非情にも待ってはくれなかった。


 男はゆっくりとベッドから降り、床に足を下ろした。

 一度たりとも視線を外す事なく。


 床に腰を下ろした体が仰け反っていく。

 両手で全身を支えるも、力が上手く入らない。


 そして、立ち上がった男は俺を正面に見下ろして――。


「ウォォォォォォォォォォォォォォォォ!!」


 咆哮が放たれた。

 喜色の笑みと共に。


 嗚呼、やっぱりコイツは――。


 化物だ――。


 振るわれた右腕の攻撃を、咄嗟に横に身を投げて避ける。

 

 ――ドンッッッッッ!!


 破砕音と共に衝撃が床から伝わってくる。

 すぐさま立ち上がり、そちらに視線を向けると、先程まで立っていた場所は男の攻撃により大破していた。

 

 危っぶね……っ。でも、体は動いた……っ!!


 すると、視界の端でベッドが燃え上がる。

 どうやら先程の衝撃によって、燭台がベッドに倒れて引火したようだ。

 そして、その炎はゆっくりと広がってベッドを包んでいき、巨大な炎となって部屋中を赤く照らす。


 ――くっ、煙に熱が……っ。

 

 隣に巨大な炎が燃え盛っているというのに、男は其方に全く意識を向けず、偏に此方を見詰めている。

 燃え盛る炎は、もう一つのベッドにも引火し、その範囲は広がっていく。

 そして、既に巨大な炎と化したベッドは――バキッと大きな音を立てて崩壊した。


 だが、その瞬間――男の視線が崩壊したベッドに向けられる。

 巨大な炎と化したそれを、男は見た。



 真正面から。


「――ギャァァァァァぁぁぁッッッ……っ……!?」


 咄嗟に両手で目を塞ぎ、大音声で苦痛の叫びを上げる化物。

 鬼気迫るその姿は、まるで眼を焼かれたかの様な反応であった。

 そして、苦痛は一向に治ることなく倒れ込み、痛みを抑えようと暴れ狂う。


 ――今だ……っ……!!


 不意に訪れた好機に、直ぐさま踵を返して二階から飛び降りる。


「ぐ……ッ。痛ってェ……ッ……」


 落下の衝撃が脚を襲うが、我慢して反転し玄関へ――。


 一瞬、視界に階段を駆け降りる男の姿が映った。


 ヤバイ……ッ……追いかけてきてる……っ……!


 咄嗟に近くにあった椅子を薙ぎ払ったが、恐らく効果は無いだろう。

 一階は依然として暗いままだったが、食卓の蝋燭で僅かに視界の確保が可能であった。

 急いで玄関に向かう――が、しかし。


 ――ウォォォォォォォォォォッッッッッ!!!!


 民家の外から新たな咆哮が耳に届いた。


 何なんだ一体!! 何が起きてる!!


 玄関に到着し、そのままドアに体当たりして脱出に成功する。


 しかし――。


「しまった……っ……。明かりが――」


『ウォォォォォォォォォォォォォォォォ!!』


 廃屋の中から、再び男の雄叫びが響き渡った。

 急いでスマホを取り出して、ライトを点けて駆け出す。

 だが、事態はより悪化していく。


 ――ウォォォォォォォォォォォッッッッッ!!!!!

 ――ウォォォォォォォォォォッッッッッ!!!!

 ――ウォォォォォォォォォッッッッッ!!!

 ――ウォォォォォォォォッッッッッ!!

 ――ウォォォォォォォッッッッッ!


 次々と、村中から身が竦むような咆哮が轟く。

 同時に何かが破壊されている音も至る所から発生していた。

 

 俺はそれを背に、元来た道を引き返し村から離れる。

 

 捕まったら、恐らく死ぬ……ッ!!


 だが、後方からは複数の足音と唸り声が近付いてきていた。

 

「奴等、追ってきてやがるのか……ッ!?」


 俺は只々全力疾走で逃げる。

 逃げて逃げて逃げ続ける。

 村の壁を越えて林道に駆け込み、止まる事なく走り去る。

 しかし――。


 ――ウォォォォォォォォォォ…ォォォ…ォォォ。


 林の奥からも、呼応した様に不気味な咆哮が轟きだした。


「っ……こんな所にも居るのか……っ……!!」


 最初から林の中に居た?

 俺があの化物を起こしたから、他の奴らも目醒めた?

 活動を停止していたのか、冬眠の様に?

 もしかして、勘違いだと思った足音はコイツらのだったのか?

 いや、そもそも何なんだアレは!?

 何かの実験体?

 未知のウイルス感染者?

 侵略してきた宇宙人か?

 

 湧き上がる疑問に答えを得ぬまま、必死に林を駆け抜ける。


 すると――。


 前方に灯りが見えた。


 ――教会の光だ!!


 立て籠るなら彼処しか無い。

 灯りを目印に進んでいき、やがて林を抜けた。

 そして、墓場へ差し掛かると其処には――。



 ――ウォォ……ォォォ……ォォォ……ォォ。

 ――ウォォォ……ォォォ……ォォォ……ォ。

 ――ウォォォォ……ォォォ……ォォォ……。

 ――ウォォォォォ……ォォォ……ォォォ…。

 ――ウォォォォォォ……ォォォ……ォォォ。


 無数の化物達が跋扈していた。


 

「ひぃ……っ…」


 情けない悲鳴が漏れる。

 立ち止まり、体が縮み上がる。

 そして、その間に追ってきていた化物達も現れる。


 ヤバイ……っ……囲まれた……ッ……!!


 化物達がゆっくりと此方を窺いながら近付いてくる。


「く、来るな……っ……!」


 その時、背後に気配を感じて振り向きざまにライトを翳した。

 それは、幸運にも化物の目を照らし――。


「ギャアアアアアァァァァァ!?」


 断末魔の声を上げ、男は眼を覆う。

 苦痛で倒れ込み、痛みを抑えようともがき苦しむ。

 その姿は、先程見たものと同様のものであった。

 

「効いている……っ……!?」

 

 まさか、コイツら眩しいのが苦手なのか……?

 もしかして、あの白く濁った目は退化したことを意味していた?

 という事は、光が弱点……?


 僅かに湧いた希望を胸に、スマホを片手に化物と相対する。


 そして、近づいてきた男にライトを翳す。


「アアアアアァァァァァッ!?」


 よし、想像通りに効いている!!

 すぐさま、別の個体にも試していき、同様の反応を得る事に成功する。


 これなら、きっと戦える。

 そう、安堵した束の間――。


 ――きっと?


 きっと……何だそれは。

 非道く、嫌に冷静に、思考がクリアになっていく。

 

 一体、これをどうやって倒すんだ……?


 眼前には、ライトに照らされて複数の化物が暗闇の中に浮かんでは消え、その背後には更に多くの化物が存在しているのが垣間見える。


 至る所から怨嗟のような不気味な唸り声が聞こえてくる。


 果たして今此処に、この暗闇の中一体どれだけの化物が俺を取り囲んでいるのだろうか。


 見えない故に恐ろしい。


 嗚呼、無理だ。こんなのは……到底無理だ。


「何だよ………何なんだよお前ら……ッ……!!」


 逃げ場が無いにも関わらず、思わず後ずさる。


 その時、足下に何かを踏んだ感触を得た。


 見てみるとそれは壊れた柵の木片だった。

 咄嗟にそれを拾い、尖った方を先にして化物達に向けた。


 だが、こんな物でビビるわけもなく――。


『グハハハハハハハハハハハ』

『アヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ』

『ヌフフフフフフフフフフフ』

『ウケケケケケケケケケケケ』

『ブホホホホホホホホホホホ』


 ――と、彼らは嘲笑で答えた。


「「「ギャハハハハハハハハハハ」」」


 さらに、先程倒れ込んだ化物さえも。


「何笑ってんだよ……っ……クソが……っ……!」


 何なんだよ一体! お前達は何なんだ! 此処は何処なんだ! どうして俺はこんなとこに居る! 誰が俺をこんな目に合わせた!


 心と身体を蝕む恐怖を打ち消すよう、怒りの感情を湧き上がらせる。


「ぅ……っ……うおおおぉぉぉォォォォォ!!」


 吶喊し、正面の襤褸を着た男へ向けて先の尖った木片を突き刺した。

 木片は男の左胸を貫通――。


 よし!! 心臓を貫いたぞ!!


 瞬時に引き抜いて、男から離れる。


 男の胸からドス黒い血が迸る。

 木片の所為か、無残な穴の傷が出来ていた。

 また、痛覚が無いのか何の反応も見られない。

 

 ――やはり化物の類か。

 

 だが、心臓は潰したから時期に死ぬ筈だ。

 そう思った次の瞬間――。


「――は?」


 一瞬にして胸の穴は塞がっていた。

 

 暫し呆然とする。


 傷が……治った? 回復? 再生能力?

 じゃあ、心臓は……?


「――グェハハハハハハハハハハ!!!!」


 不意に心臓を貫かれた化物が呵呵大笑する。

 そして、此方を見詰めながらニヤリと笑った。


 ――あ、無理だ……。


 その顔を見た瞬間、俺は遊ばれていた事を悟った。


 ……そうか。これは狩りなんだ。


 コイツらはハンターで、獲物は俺。

 

 そして今、俺に力の差を見せ付けた。


 それは、俺から抵抗する気力を奪う為で――。



 ブチッ――。



「――え?」


 明かりが突然消えた。


 ――なんで?


 地面から明かりが照らされた。


 ――なんで?


 明かりは人の腕と繋がっていた。


 ――なんで?

 

 その腕には、見覚えがあった。


 ――なんで?



 ブシュゥゥゥ――。



 真っ赤な血が明かりに降り注ぐ。


 ――ナンデ?


 その血は、俺から放たれていた。


 ――俺ノ血?



「あ、あ、あ、あ……っ……アアアアアアアアアアアアアぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああァァァァァァァァァァァァァ!!!!」


 走る。暗闇の世界を。

 光も無く。


 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い――。


 ぶつかる。暗闇の世界で。

 何かに。


 痛イ痛イ痛イ痛イ痛イ痛イ痛イ痛イ痛イ痛イ痛イ痛イ――。


 襲われる。暗闇の世界で。

 何かの群れに。


 痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛――。



 身体を地面に押さえ付けられる。


 ――何も見えない。


 手脚、胴体、身体の全てを掴まれる。


 ――何も見えない。


 そして、全てを――。


「――あっ」


 貪られる。

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