第二章
第49話
僅かに開いたカーテンの隙間から差し込む光が、頬を撫でた。
柔らかく温かなその光が、静かな朝の訪れを告げてくくれた。
もう、朝か。
屋敷はひっそりと静まり返っている。
耳をすませば、かすかに廊下を歩くメイドたちの足音が聞こえる程度。
「……ん」
うっすらと目を開けると……だいぶ見慣れてきた天井が目に入った。
白を基調とした装飾が施され、余裕をもってソファがいくつも置けるほど広い寝室。まあ、置いてあるのは一つだけではあるが、こんな部屋を使えるなんて贅沢の極みだ。
この屋敷の中でも一番広い部屋。それを今俺は使っていた。
つい最近まで俺が寝泊まりしていたのは、屋敷の端にある押し入れみたいな狭い部屋だった。
「今考えると、あの部屋、ひどかったよな……」
床は軋むし、窓は小さいから光もろくに入らない。
どう考えても、貴族の住む部屋じゃなかった。
今こうして広々とした部屋で寝られるようになったのは、スタンピードを防いで領民を守り俺がこの家の当主となったからだ。
屋敷の人たちも、あの戦い以降完全に俺を信頼してくれたようだし、この街の人たちで今のレイス・ヴァリドーを悪くいう人はほとんどいないはずだ。
そんなことをぼんやりと思い出していると、隣から聞こえてくる穏やかな寝息。
首元に感じる微かな温もりと、甘い香り。
「レイス……今日もいい匂いだわ……」
ぼそりと寝言のようにそう呟き、だらしのない笑みを浮かべる美少女。
「おい……起きてるんだろ?」
俺の隣にはリームがいつものように、俺の肩に顔を寄せて寝息を立てた振りをしている。
俺の首元に顔をうずめて、鼻をふがふが鳴らしていて寝ていると思うか?
指摘されたリームは、まだ寝たふりを続けていて以前、状況は変わらない。
より酷くなっているかもしれない。
まるで猫がすり寄るみたいに鼻を鳴らしている。
それだけ密着していると、彼女の豊満な胸の感触がダイレクトに伝わってくるため、ふんわりとした温もりが腕を包み込んでいて、なかなか刺激が強い。
……理性ががりがりと削られているのを自覚しながら、俺は冷静に声をかける。
「そろそろ起きろって。朝から重い」
「いえ、離れないわ」
即座に返事をされた。やっぱり起きてたか。
「……朝から、近すぎだ」
「なら、夜ならいいということね?」
「いつでも、近すぎるんだよ!」
「だって、匂いを嗅ぎたいもの……朝と夜でまた違った香りを感じられるのよ?」
彼女は残念そうに息を吐く。
……朝と夜で違うのは汚れとかで臭くなってるだかでは? とは思わないでもなかった。
リームがこの部屋にいるのは、俺の婚約者としての立場を利用してのものだ。
いやまあ、俺としても嫌ではないし、どちらかといえば役得だなと思う部分はある。
リームは控えながらも俺の方へとすり寄り、うっとりとした表情を浮かべている。
「レイスの匂いは……うん、今日も異常なしね」
「……それで分かるのか?」
自分の欲望を満たすためだけの行為にしか思えなかった。
「もちろん。健康状態って匂いに出ることもあるのよ。安心なさい。今日のレイスは素晴らしい香りよ」
ぐっと親指を立ててくるリーム。……まあ彼女の嗅覚は確かなわけで、それなりに信頼はできてしまうんだよな。
それにしても……リームはどこまでもブレない。
自分の欲望に忠実すぎるよな、ほんと。
ただ、見習うべき部分もある。
彼女は自身の欲望に忠実なおかげで、わりと簡単にゲーム本編の必殺技であるアドレナリンブーストを使える。
……今後。ゲーム本編が始まれば、俺に襲いかかる破滅フラグがますます増える可能性もあるわけで、俺自身もっと強くなる必要がある。
俺もいずれ、自分の性癖と見つめ合う必要があるのかもしれないよな……。
そんなことをぼんやりと考えながら、俺はまだくっついてくるリームを引き剥がして、立ち上がる。
「あぁ、もう……でも、この枕と布団に染みついたレイスの匂いで今は我慢しましょうか……」
俺と離れたことを残念そうにしていたリームだが、すぐに鞍替え。
……俺の布団をぎゅっと抱き寄せてスーハーしている。
もう、好きにしてください……。
俺が着替えを始めていると、部屋の扉がノックされる。
姿を見せたのは、メイドだ。こんな奇行をしているリームを見たメイドは、しかし驚く様子はない。
もはや、メイドたちにとってもこれが日常になってしまったからな……。
「レイス様、本日はお日柄も良いので布団一式を外にて干そうかと考えていたのですが……よ、よろしいでしょうか?」
リームが今も吸っているわけで、思わず問いかけてきたのだろう。
「ああ、そうだったな。構わない。持っていってくれ」
メイドももう俺に対して怯えている人はほとんどいない。嫌っている人もいないため、俺に冷たい視線を向けてくれる人もいなくなってしまった。
……いや、違うだろバカ。これでいいんだ。まったく……俺の体にこびりついた歪んだ性癖は未だ消えない。
まあでも、アドレナリンブーストのことを考えれば強い性癖は必要なのかもしれないが、でもなぁ。
それを受け入れるというのは、悩みの種だ。
俺が返事をした瞬間、リームがピタリと固まる。
「布団を……洗うですって?」
「お前、なんでそんな絶望した顔してんだよ」
「もったいないわ! ひ、必要ないわよ! これは私が買い取るわ……っ! 新しいものを購入すればいいじゃない」
「お前、毎回買い取るつもりか?」
「ええ!」
「……また一緒に寝てたらいくらでも嗅げるだろ」
「レイス、酷いわ……っ!」
リームが立ち上がり、メイドの前に立ちはだかるように両手を広げた。
「この布団には、レイスの匂いが染み付いているのよ。洗ったら消えちゃうじゃない!」
「消すために洗うんだよ!」
「レイス……分かってないわね」
「分かりたくもない。持っていっていいぞ」
メイドへと視線を向けると、彼女は苦笑しながら布団を引っ張る。リームは今にも泣き出しそうな表情である。
まるで、戦地に向かう親を見送る子供のようである。
「あぁ……」
「お前、布団くらいでそこまで絶望するな」
「もう少し楽しみたかったのに……」
リームは名残惜しそうに去っていく布団を見つめながら、小さくため息をついた。
「メイドさん、次から洗う前に一声かけてちょうだい……最後の、お別れをしないと……」
「いや、毎回そうなるのが面倒だから黙って洗ってくれ」
「ちょっとレイス! レイスの匂いがついているものをそんなぞんざいに扱わないでちょうだい!」
メイドが苦笑しながら布団を運び去るのを見送り、俺はようやく一息をついた。
朝から疲れたぞ……。
寝巻きのリームも、諦めるようにして服を着替えていく。
俺はその様子を気にかけながら、ぼんやりと現状を思い出していた。
ヴァリドールを含めた領地を、俺は引き継いだ。
領主となった今、俺の領地経営の仕事は……別にそれほど増えていなかった。
ほとんどが有能な代理人たちがやっているため、俺が口を出すことはないのだ。
むしろ、問題を起こしていたのは俺の親父や兄たちのほうで、彼らがいなくなったことで領地は落ち着きを取り戻している。
無意味に高かった税収などは、全て俺の家族が原因である。ほんと、申し訳ない限りだ。
ヴァリドー家が原因で……家族に不幸があった人もいるため……もちろん、すべて解決したわけではないが、代理人たちが丁寧に領地の運営を進めてくれている。
俺としては代理人たちが帳簿を誤魔化すようなことがないのを見張るだけでいいわけで……暇なんだよな。
スタンピードを回避した後に主要貴族にもだいたい挨拶をしたわけだし、今は特別何かすることもない。
本来ならば婚約者の話などもされるのかもしれないが、すでに俺にはリームがいるわけで、そういった話もない。ここに関しては、両親に感謝だ。
あぁ、側室の話ならいくつか来ていたか。日本人的感覚を持っている俺としては、ちょっと敬遠していたのでそれについても考えておく、くらいに濁した返事しかしていなかったが。
あんなに苦労して回避したスタンピードも、今となっては遠い過去の出来事だ。あれを防いだことで俺のバッドエンドの一つは回避されたようなものだ。
……あくまで、まだ一つなんだけどな。
……もうすぐゲーム本編が始まろうとしている。このゲームを作ったのが日本のゲーム会社というのもあるのかもしれないが、ゲーム開始は4月からになる。
ちょうど主人公が学園都市に入学するところから物語は始まり、そうして約一年間を通じて成長し、世界を救うまでが本来のホーリーオーブファンタジーの物語だ。
レイスくんの正史世界の話としては、スタンピードに巻き込まれ、家族の不始末に巻き込まれる形で家を追放され、一人で学園の試験を受けに行き、ギリギリで合格するという流れだった。
そして、最終的には原作主人公にちょっかいをかけ、闇堕ちして死ぬ……というバッドエンドがいくつもあるという感じだった。
だが、今はもう三月。学園の入学試験は受けていないわけで……つまり――。
破滅エンドは、完全に回避した、というわけだ。
学園にも、主人公にも関わらなければ、俺がここから破滅することはないだろう。
もうこれからは、のんびりこの世界を楽しめばいいってことになる。
屋敷の窓から見える穏やかな街並みを眺めながら、俺は小さく息を吐いた。
ふぅ、異世界を自由に楽しんでいいとなれば、気も楽になるというものだ。
ただ、少しだけ気がかりなのは、リーム、イナーシア、ヴィリアス──ゲーム本編に登場するキャラクターたちが、今俺の仲間として動いていることだ。
もちろん、ホーリーオーブファンタジーでは、たくさんの仲間候補がいるわけで、別にリームたちに拘る必要はない。ただ、ゲーム本編では優秀なステータスを誇る彼女たちがそもそも物語に関わらないとなるとゲーム本編の主人公の負担も大きくなるかもしれないが、そこはまあ……頑張って、という感じだ。
イナーシアはヴァリドール領の冒険者として今も活動しているし、ヴィリアスは鍛冶屋として領内はもちろん、ヴァリドー家の武器の管理をしてくれている。
リームに至っては、こうして毎朝隣で俺の匂いを嗅ぐという使命に燃えている……。
別に、リームたちがいなくても他の仲間をパーティーに加えて魔王を討伐してくれればそれでい。
まあ、主人公が何とかしてくれるはずだ。それが主人公というものだろう。
そんなことを考えながら、着替えを終えたリームとともに俺は部屋を出て、食堂へと向かう。
原作の舞台であるルルティア学園にさえ入学しなければ、俺がゲーム本編に関わることはない。
今日も、多少の鍛錬はしつつも、のんびりと一日を過ごそうかね。
異世界転生、最高だ。
―――――
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栄転したおじさん、迷宮都市一の治癒士となる ~過去に救ったSランク美少女たちからのスカウトが止まらない~
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