第9話
私はリーム・ストライト。
ヴァリドー家の三男、レイス・ヴァリドー様と婚約している。
私がレイス様と婚約を結ぶのに至った理由は、色々とあった。
ストライト家の仕事は、ヴァリドー領内にあるストライトという小さな村の管理が任されていたのだが……ここ最近、私の領内では不作が続いていた。
天候や魔物の影響が原因ではあるのだが、それでヴァリドー家へ納める税が減るということはなく、村が危機的状況に襲われた際、ヴァリドー家からある提案が出された。
それは、レイス様の許嫁として私を差し出せば、「色々な面で優遇する」というものだった。税はもちろん、貴族としての立場を約束するというものであり、私の父は非常に悩んでいた。
……ヴァリドー家は、あまりいい噂を聞かなかったから。だから、私の父はそれに反対していたのだけど、私はこれ以上父や村の人たちが苦しむ姿を見たくなくて、この婚約を了承した。
私は、このストライト村が好きだった。
落ち着いた村独特の匂いに、いつも癒されていた。
だから、私の身一つで村が救われるのなら、いくらでも捧げるつもりだった。
父は最後まで渋っていたが、私の覚悟も理解してくれたようで、無事、私とレイス様は許嫁となった。
レイス様と婚約関係になってから、私の村は余裕が出てきて、今は税で苦しむこともなくなった。
父は喜んでいて、私もその状況を喜んでいた。
……けれど、すぐに私にとっては大きなストレスが出てきた。
それは、レイス様だ。
私としては、覚悟していたつもりだったけど、レイス様は想像以上に酷い人間だった。
『おまえの価値は体だけだ』
『オレを嫌い、憎めばいい。オレは貴様の嫌がる姿を見るのが好きだからな』
そう言って、私をモノのように扱うレイス様に、私のストレスが溜まっていたのは確かだ。
そして何より、私にとってもっとも大きなストレスになったのは、このことを誰にも相談できないことだった。
父には、『ヴァリドー家のことで、嫌なことがあればいつでも相談してくれ』と言われていたけど……それで、婚約関係がなくなってしまえば、村の負担が今まで以上に増えてしまうことは想像できた。
だから、私は何をされても、村へ戻るときには笑顔を浮かべるようにしていた。
『お前のようなロクに立場もない女に興味などない』
『オレはいつか、お前以上に素晴らしい女を手に入れて見せる』
『本当につまらない女だ、貴様は』
そんな風に、私のすべてを否定するレイス様に、心がずたずたになっていっていた。
いつものように月に一度訪れるヴァリドー家の屋敷。レイス様の家族たちは王都で行われるパーティーに参加するようで、数日は家を空けていた。
……それを知っていたからこそ、私はこの時期に面会の約束を入れていた。家族たちと会えば、また自分が馬鹿にされることは分かっていたからだ。
少しでも、自分の負担を減らすためにその数日を選び、屋敷に来た私は……レイス様の雰囲気に驚いていた。
屋敷にて挨拶したときも、普段のような下卑た笑みを向けてくることはなく、腫物が落ちたような顔でこちらへ微笑を浮かべてくる。
さらにいえば、普段ならばどこかの部屋でレイス様に好き勝手色々とされていたにもかかわらず、一切何もされず、そのまま訓練場に向かって戦闘訓練。
……私の家も、もともとは武勲で成り上がった家ということもあって、稽古をつけてもらうことはあったので、それを見ているのは非常に楽しかった。
そう、楽しかった。
ヴァリドー家にやってきて、そう思ったのは婚約関係を結んでの初めての挨拶の日くらいだった。
……当時の私は、ヴァリドー家の悪い噂を聞きつつも、それこそ物語のお姫様のように、その婚約者という立場に夢を抱いていた。
「どんな人が私の婚約者なのだろう?」、「私のこと、本当に好きになってくれるかな?」とかとか。
今思うと恥ずかしいことばかりを考えてウキウキしていた私の夢が粉々に砕かれたのは、初顔合わせから数分してのものだった。
……戦闘訓練はかなり長時間続き、途中昼食などの休憩はあったがほとんど一日中訓練を見ていることになった。
「まあ、こんなところだ。見ていただけで暇だっただろう」
「そ、そんなことはありません」
暇、ということはなかった。私も父に剣を教えられていたので、ともに訓練に参加したい、という気持ちもあったが……少なくとも、いつものようなセクハラ攻撃よりもずっと有意義な時間だったのは間違いない。
レイス様のふわりとした香りが届いた。彼の汗と彼が普段使っている石鹸だろうか? それらが混ざり合った香りは、なぜか悪い気はしなかった。
「ど、どうした?」
「……あっ、その……申し訳ございません」
その香りを嗅いでいたいと思い、少し顔を近づけてしまった私は慌てて一歩距離をとる。
「……?」
レイス様が不思議そうに首を傾げていたが、それから彼はタオルで汗をぬぐっていった。
いい香り、と感じたのは……は気のせいだろうか?
それから数日ほど屋敷に滞在していた私は、レイス様の訓練の様子を見守っていた。
……結局、レイス様が私に触れてくることはなかった。
そして、同時に思っていた……レイス様から感じられる匂いが変化していることに。
私は昔から匂いに敏感なほうだった。例えば、嘘をついている人がかく汗の匂いなどを見抜くことができる程度には敏感だ。
だからこそ、レイス様から感じられる匂いの種類が変わっていることにも、すぐに気づいた。
レイス様が訓練を行った後に生み出される彼の汗の匂いに、歪なものは感じなかった。……普段の、下衆な笑みとともに向けてくる臭いは私にとって最悪なものだったというのに、今の彼からはそれが一切感じられない。
これについて、私は調べる必要があると思った。
だから、村へと戻る最終日の訓練を見ていた私は、レイス様に声をかけた。
「レイス様。少しよろしいでしょうか?」
「なんだ?」
訓練を終え、汗をタオルでぬぐっていた彼に私は問いかける。
「そちらのタオルを頂いてもよろしいでしょうか?」
「……は? な、なぜだ?」
「……少し、確認したいことがあります」
「……確認したいこと? それにはタオルが必要なのか?」
「はい」
「ならば、洗ってあるタオルがあったはずだ。それを持っていくと――」
「ダメです。今、あなたが使ったそのタオルが、必要なんです」
ずい、っと顔を寄せる。少し、無礼にあたるかもとは思いつつも、レイス様の顔をじっと覗き込む。
レイス様は驚いた様子でこちらを見てきて、それから困惑した様子でありながら、頷いた。
「そ、そうなのか……? まあ別に減る物でもないからいいが……村についたら洗ったほうがいいぞ?」
「ありがとうございます」
レイス様がすっとこちらへとタオルを渡してきてくれたので、しっかりと受け取り……私は村へと戻っていった。
転移石を利用し、ストライト村へと戻った私は大きく深呼吸をし、村の香りを楽しんでいた。
やっぱり、この村の香りが落ち着く。そんなことを思いつつ、ようやく周りに誰もいなくなったところで、私は受け取っていたレイス様のタオルを取り出した。
そして、鼻にそれを近づけ、嗅ぐ。思わず、目を見開く。
「……やはり――」
レイス様の汗の匂いをかぎながら、私は眉間を寄せる。
……レイス様の匂いは嫌なものではなくなっている。
私は、昔から匂いに敏感だった。この匂いで、人の状態を見極めることができるという密かな才能を持っていた。
明らかに、以前とは違う。
それとも、レイス様は汗をかいたときに何か体液が変化するのかしら……?
……いや、それ以上に……何か、根本的なものの変化があるように感じた。
私は、レイス様の汗がしみ込んだタオルを鼻に押し付けながら家へと向かって歩いていく。
村で一番大きな建物へと着くと、父が困惑した様子で首を傾げていた。
「……ど、どうしたんだリーム?」
私がタオルに鼻をあてたままであったため、首を傾げていた。
私はそんな父に、レイス様のタオルを見せる。
「父さん。こちらのタオルの匂い、どう思う?」
「ん? ……いや、汗臭っ!? なんだこれは!? ……リームの香りではないな? リームの香りならば、私が嫌がるはずがないし……それはなんだ?」
「……なんでもないわ」
私の体質は父の遺伝だ。父はなんでも、この匂いを頼りに今は亡き母と結婚としたそうだ。
この匂いの変化について、もっと考える必要がありそうだわ。
私は再びタオルに鼻を押し付けながら、真剣に考えていった。
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