第2章 記念すべき、ハローライフデビュー

 「おい、おい、そんなところにいて大丈夫か?」

 うたた寝からそっと起こされるように、誰かに肩を叩かれて、武史は、はっと意識を取り戻した。

 がんがんと頭が痛かった‥‥‥ん?いや、痛いような気がするが全く痛みはない……痛いような記憶がぼんやりとあるが、実際に痛いわけではないというような、なんとも言えない不思議な感覚だった。だんだんと意識を取り戻すと記憶がはっきりとし、そして思い出す。確か、本を読んでいた筈だ。ふと疑問がわく。それなのに、何でこんなところに自分はいるのだろう?と。

 辺りを見渡すと、そこは、公園のベンチのようだった。武史はまたまた驚いた。見覚えのある風景だ。自分の記憶をたどる。そうだ、引っ越しの際に転入届を提出した某区役所内の公園のベンチにそっくりそのまま似ている。

「おい、大丈夫か?」

 自分が呼びかけられているということに気が付き、隣に目をやると、優しそうな老人が箒を持ちながら立っていた。遠慮がちに自分の肩を叩いていたのはその人のようだ。猫背気味の少し気の弱そうな雰囲気で、いかり肩かつ細身の体躯は、昔の祖父を思い起こさせる。ただ、祖父と異なるのはその立ち姿だ。足はちゃんと2本ついているのだが、足先に行くにつれて、そこには薄い霞がかかったようにもやもやとした白い煙で覆われている。まだ焦点が合わない目でぼんやりその老人を見つめていると、老人は言った。

「君、こんなところで寝ていたら大変だよ。記憶が新しいうちに、手続きをしてしまわないと……。見てごらん、だいぶ人が多いだろ?このところ、下界は物騒になったと聞くからねえ」と武史に話しかけた。

「あの、ここはどこですか?僕は本を読んでいた筈なんですが?」

老人は心からの同情を浮かべて困ったように武史を眺めた。

「お前さんは、死んだんだよ。とにかく、早いうちにあそこに行ってごらん。」

「……そうですか」

自分は死んだ。死んだのか。そうか。そんな重大なことを行きずりの老人に教えてもらうとは思っていないかったが、一番驚いたのは、その事実を淡々と今の自分が納得して受け入れている事だった。ぼんやりと、生前、読んだ話の中で、自分が死んだということに気が付かずに、ずっと同じ行動をし続けている幽霊の話を思い出した。死んだ記憶はない。走馬灯を見た記憶もない。だから、もし、武史の死に方を小説の知識をもとに分類すると、おそらく武史は今頃、自分が死んだことに気が付かずに、幽霊となってアパートにいる、そういう事になる筈だ。しかし、幸せか不幸か、武史は今、このベンチに座っている。

 下を向いて黙り込んでしまった武史の様子を見て、老人は彼が今まで道案内をしてきた人と同様、「自分の死」を武史が受け入れられずに戸惑っていると思ったのだろう。魂は説得ではなく、自らの納得でしか動けないものだ。それをよく知っている老人は、少し気の毒そうな顔をした後で、黙って、まるで今までの生を労うように、ぽんぽんと武史の肩を叩いた。

 生前の何もかもをぼんやりとではあるが、小説のあらすじを読むかのように思い出した武史は、死んだときに初めて会ったのがこの老人だったことに、どこへともなく感謝の気持ちを向けた。例えるなら、寒空の下で振る舞われる、豚汁のような有難さだ。とっても身に染みる。

「ありがとうございます」

深々と頭を下げた武史に温かいまなざしを向けた老人は優しく頷くと武史に言った。

「お前さん、助けが必要なら、役所の入口まで連れて行ってやろうか?」

「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」

礼儀正しくお礼をし、役所の入口に向かって武史は歩き出した。歩くといっても実際には滑るに近い感覚で、自分の足なのだが、足元がふわふわと少しおぼつかない。どさっとよろけて倒れそうになる武史をおじいさんは、あまりのショックで気持ちがついていかないからだと理由を勘違いしたのだろう。気の毒そうな表情をしながら、武史を支えてくれた。

「本当に大丈夫か?そこまで一緒に行こう。誰にでも初めてはあるんだ。」

「お気持ちが本当にありがたいです。でも本当に大丈夫なんです。」

まるで自分はよちよち歩きの子どものようだ。そう考えると、結婚もしていない、子どももいない人生を送って来たんだということがまた胸の中によみがえり、チクリとした。まあいい、もし結婚して子どもがいたら、自分がこんな風に死んでしまった時に、家族は悲しむだろうし(というか、その前に、無職になった時点で愛想つかされるだろが)また、子どもや妻は金銭的な先行きのたたなさに不安にもなるだろう。それを考えると、武史の場合、悲しませる人は両親と武史の妹と、そのくらいだろう。人の悲しみは量ではないとは思うけれど、それでもやはり悲しむ人は少ない方が良い。歩く事には慣れるまでには少し時間がかかりそうだったが、前にすすめないことはなかった。

 武史が今から行こうとしている場所を、この世界で何と呼べばよいのか分からないが、周りは親切だし、きっと幸先は悪くはないはずだ。そう思いながら、武史は例の役所の入口をくぐった。

 入口はまるで自動ドアのようになっていて、その先には大きなホールがある。なるほど、武史以外にも色々な人がいる。家族連れから、若い女性、初老の男性に、猫を抱えたおばあさん、羽(コスプレか?)を付けた超絶美形男子に抱かれた赤ちゃん、服装も年代もごちゃまぜになって多くの人でにぎわっているようなその光景は、3月、4月の転入、転出の手続きの繁忙時期そのものの役所の光景だった。ホールの頭上には、見上げるほどの大きな時計があった。それは精巧な作りのからくり時計で、日月や四季の風景などが描かれており、その色合いの微妙な美しさはステンドグラスのようだった。おまけに、様々な人種を模した人形も所せましと配置されている。その人形同士が仕事をしたり、喧嘩をしたり等、集まって騒いだりと、まるで世界の縮図を見ているようだった。その中央には、漆黒で磨き上げられた大理石のような光沢のある豪華な作りの2本の針が時を刻んでいる。が、武史の知っている時計とは決定的な点で異なっていた。なんと、時計の針は左回り、つまり逆に進んでいるのだ。これでは時を刻むというか、時をさかのぼって逆行しているのと同じだ。不思議な感覚にとらわれて、しばらくその時計に見入っていた武史だったが、ふと気を取り直すと“総合受付”という文字の書かれたカウンターに言った。そこには髪の長い首からネームプレートをかけた陰気な女性がおり、武史が事情を話すと、女性は最後まで聞かずにどうぞと整理番号が書かれた小さな紙を渡してくれた。これも見覚えのある光景だった。

―死んでからも、なお秩序があり、順番待ちをするのだ。

 生きている時も不自由なことは沢山あったが、死んでも尚そうであることに、武史は内心で苦笑しつつ、開いていた椅子に腰かけた。しばらくぼおっとしていたら、電光掲示板のようなところに武史の持っている整理番号が映し出される。

「358番のお客様、どうぞ一番窓口にお出しください。」

手元を見ると、小さな紙に浮かび上がった数字がちかちかと点滅している。358番、やっと自分の番が来たのだ。武史は椅子から立ち上がると、窓口に向かった。

 おどおどとカードを差し出しながら、ふと顔を上げると、カウンターには、丸顔で小太りの、にこにこしたおじさんが立っていた。まるでアイマスクをしているように、目元の皮膚が少しだけ浅黒くなっており、狸のようだ。見慣れない顔にもかかわらず、人好きのする感じのよさそうな雰囲気が漂っている。真面目な顔をしていても、どことなく剽軽さを連想させる顔立ちは武史を安心させた。相手は慣れている様子で淡々と武史の名前を確認する。

「こんにちは、この度はご愁傷様でした。ハローライフ転生課の転生アドバイザーの田貫です。」

 武史が連想していた動物と同じ名前だったことに、ぷっと吹き出してしまったが、慌ててまじめな表情を作った。それを知ってから知らずか、田貫さんは何も言わずに続けて確認をする。

「えーっと、郷田武史さんですね。生前のあだ名はジャイ〇ン。どうぞよろしく。」

―ジャイ〇ンは、余計だろうーと心の中で軽く悪態をつきながら「あはは」と愛想笑いをした武史は「こちらこそ、どうぞ、よろしくお願いします。」といった。

田貫さんは、武史に向かってにっこりとほほ笑み返し、目を細める。

「では早速、相談に入りましょう。」

そういうと、彼は、ぱちんと指を鳴らした。すると、まるでマジックのように、何もないところから、不思議、不思議、トランプ……ではなく巻物が出てきた。その様子を驚きと共に観察していると、田貫さんは巻物を見ながらふむふむと頷いている。「えーっと、あなたは、転生歴はなしで、転生後のプランは、ん?珍しいですね。」

そこまで言うと、まじまじと武史を見つめた。

珍しいとは何のことだろう?

「あのーすみません。自分にとってあまりに突然の事で、いったい何がなんだか全然分からない状況なんです。初めから説明してもらえませんか?」

武史がそういうと、田貫さんは武史を真正面から見据え、名刺のようなものを差し出した。

『転生アドバイザー 田貫』 真っ白な紙に印字された文字がぴかぴかと光ってる。

ごほん、と一つ咳をしてから、田貫さんは言った。

「そうでしたね。失礼しました。もちろん初めから説明差し上げます。あなたが今いる場所は、おおよそ検討が付きますか?」

武史はゴクリとつばを飲み込んだ。

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