6 正木紗耶

正木紗耶という女子の名前は小耳に挟んだことがある。確か、この進学校に通っている生徒のはずだ。


常に全国模試の上位に君臨し、特定の部活には決して入らない。助太刀のように練習試合に現れては、自校に鮮やかな勝利をもたらすという。打ち負かされた相手校は、いつも彼女が正式部員ではないことに胸を撫で下ろす。


それでも彼女が見せる独創的なプレーと、他者を鼓舞する華やかな人柄は、この学校の部活動のレベルを底上げしているとかいないとか。部内の人間関係のいざこざ、予算によって生まれる部同士の軋轢、設備の不良なども、彼女が介入すれば立ち所に解決してしまう。


鮮烈な風が、全ての問題を巻き上げて去っていく。残るのは青空だけ。


それだけでなく、彼女は校外でバンドを組んでボーカルとしてもその才色兼備っぷりを遺憾なく発揮している。学校の垣根を超えて、彼女のファンはそれなりに見かける。


……小耳に挟んだ程度でコレなんだから、超人と言う他ないな。


「でも、私にとって紗耶は、超人なんかじゃない」


そう語る小鳥遊さんの横顔は憑き物が落ちたように穏やかに見えた。隠し事をする必要も無くなって、抱え込んだ荷物を少しだけ降ろすことができた――今までも似たような顔を見たことがある。


俺は右ポケットから手を抜いて、代わりに左ポケットからハンカチを取り出して、涙を拭っている彼女に差し出した。


「――へえ、こういうことするんだ」

「ありがたく使ってくれよ? これ気に入ってんだから」

「辻上君、トトロ好きなの?」

「トトロは日本の宝ッ……!」


しばし下らない会話など挟む。とりあえず俺達はまだ、ただのクラスメイト同士でいられる。正直、少しホッとしてる自分がいたり。


話題はまた正木紗耶に戻る。


「紗耶は、中学のときからずっと友達。高校が分かれても、何でも屋みたいなことしてても、絶対に会う時間を作ってくれてた。私の大切な、たった一人の……」


小鳥遊さんはまた少しだけ声を震わせる。


「少し前に会ったとき体調が悪そうだったの。いつも無茶なことばかりして走り回ってるけど、風邪ひいてるところも見たことなかった。だから心配してた。そしたら、いつの間にか連絡もくれなくなって……。家までお見舞いに行ったら、本人は誰にも会いたがらないってお母様が。でも私ならって通してくれて、部屋まで行ったの」


そこから先を話すのは、痛みを伴う。そんな表情だ。


「紗耶がベッドでうなされてた。私が部屋に入っても気づかないの。近寄って額を触ってみたら、すごい熱だった。咳もしてないのに、すごく苦しそうだった。病院に行かなきゃ死んじゃうって思って、すごく怖かった。そのときやっと、紗耶が私に気づいた」


それはせめてもの救いだったはずだ。でもそうではなかった。


"せりか、あたしを殺して"


「そう言ったの。冗談だよねって言っても、それしか言わないの。死にたい、死なせて、殺してって」


小鳥遊さんは俺のハンカチをギュッと握りしめた。


「あの、紗耶が。何でもできて、誰からも好かれる紗耶が。私に殺してなんて言うはずない。私が紗耶を殺すわけないのに。だって紗耶は、私の世界の……なのに」


吐き出すように言う彼女から、悲しみと怒りが湯気のように立ち昇っている。それを見ても、俺は動揺しないし、慰めもしない。


俺にそんな資格は無い。クラスメイトに隠し事をしている俺には。


死にたい。死なせて。


自殺。


三人目。


俺の


「この学校で、何人も自殺してるってSNSで見たの。ひょっとしたら、このままじゃ紗耶も、って。今はとても動ける状態じゃないけど、これからどうなるのか、想像したら私、じっとしてられなくて、それでここまで」


話し疲れたように目を伏せる小鳥遊さんと対照的に、俺は気分が高揚するのを感じた。尻尾があれば左右に激しく揺れていただろう。


こんなに早く手がかりに出逢えるとは。晶さん褒めてくれるかな……おっとイカン。


こういうのは、じゃないよな。


「…大変だったな。辛い話させちった」

「ううん、ありがと。優しいね、辻上君」

「イエイエ。このことは丸っと晶センセにも話すことになるけど、大丈夫?」

「うん、多分……大丈夫。辻上君は先生と名字が同じだけど、親戚なんだよね?」

「ソウダヨ」


まさか義理とはいえ母親なんて言えるはずもなく。


「まあ、期待しすぎるのはよくないけど……。晶さんはこういうときは結構頼れるからさ。あんま思い詰めずに、リラックスした方がいいぜ」

「うん…」


俺の気休めは、もちろん小鳥遊さんには届かないだろう。と思いつつも、沈黙を埋める。


「小鳥遊さんがあんまりグロッキーだと、クラスの女子が心配するんじゃないか? みんな小鳥遊さんのこと頼りにしてるし」

「……私、本当は、そんな頼られるような人じゃない」


小鳥遊さんはきまり悪そうな笑みを浮かべて、俯く。


「あんなの、紗耶の真似事だよ。本当の私じゃない」


その顔を見て、頭の隅にチリリと火花が散るのを、ほんの僅かに感じた。


「たとえ本当のあんたじゃなくても、それはあんたのだろ」

「…辻上君?」


俺の声色に何かを感じ取ったのか、小鳥遊さんが顔を上げた。


勘の良い女子ですこと。


「何でもない……風邪引く前に帰りますかね」

「あ、うん」


俺は彼女の方を見ないようにして、腰を上げた。


「小鳥遊さん、どっちの方角? 途中まで送ってく」


こっちは遅くまでうろついてても晶さんに感心されるだけだが、彼女はそうもいかないだろう。今この町に、どんな得体の知れないモノが潜んでるかもわからない。


小鳥遊さんはおおまかな住所を口にした。そして言った。


「本当に……ありがとうね。辻上君」

「礼を言うのはまだ早いかもよ」

「それでも、ありがとう」


彼女の目を見た。俺をまっすぐに見ている。


俺の顔を。


……やっぱこの子、ニガテかもしんない。


「行こうぜ」


頭をポリポリ掻きながら、自転車の方に歩き出そうとした俺を、


「待って」


小鳥遊さんが制した。


「だから礼はまだ…」

「違う、あそこ」


彼女が指差す先には、この公園でも一際大きな木が生えている。秋の夜はあまりに深くて、一見しただけでは何も見えなかった。


しかし、数秒もすると目が慣れてくる。――誰かいる。


誰かが、


「あれ、誰……?」


怯えたような囁きが、隣から漏れる。俺は考えるより先に、こう口にしていた。


「小鳥遊さん、絶対にここを動かないで」

「え?」

「動くんじゃね―ぞ」


言うなり、俺はそいつに向かって走り出した。あれは、この進学校のブレザーか?


その人影は、なにかよくない揺らめき方をして、夜の中へと姿をくらませる。


「逃がすかよ……!」


俺は全速力で公園の木を通り過ぎ、出口から道路へと転がり出た。右か? 左か? 右の方に学ランの後ろ姿が見える……いや、よく見えない。何か薄い膜を隔てているような、何かような。遠いからってだけじゃない。


「ぜってぇ、マトモじゃねえよな! お前!」


気合いを入れるように叫ぶと、俺はそちらへと駆け出す。人影は遠ざかる。


逃げているんじゃない――ただただ、遠ざかっている。


「待ち、やがれ……!」


チクショー、晶さんに褒められてえ! その一心で手足をバタつかせるが、距離は一向に縮まらない。遠ざかって遠ざかって……角を、曲がる。


「ハァ、ハァ……ゼェ、クソ、ったれ……」


ようやく角にたどり着いた俺は完全に肩で息をしているのだった。近頃暇だったからなあ。


目を凝らして曲がった先を見る。俺達は学校の敷地を沿うようにして追走劇を繰り広げていた。今見ているこの道は、学校を長方形とした場合、長辺にあたる。だからどんなにヤツが速くても、背中が見えないなんてことは有り得ない。


有り得ないはずでしょうがよ!


「出ちゃった、幽霊……」


なんたる急展開。


そして俺は、本日最も重要な手がかりを逃したのだった。

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