第9話 マウス・トゥー・アビス Ⅱ
青ざめた俺の顔を桜は不思議そうにみている。
————嘘だろ? 嘘だよな?
記憶を呼び起こすが思い当たる節は一切ない。
「もしかして……、覚えてないの?」
「あ、いや……すまん。」
————なんで謝ってんだ、俺!?
もし俺が寝ている間に桜が勝手にキスをしたのであれば覚えているはずなどない。
「信じられない。ファーストキスだったのに」
「……すまん。本当に覚えてないんだ」
ため息を吐いて、遠くを見つめる桜。
「……で、俺達はいつキスをしたんだ?」
「ヒント1。夏休み」
以前に真斗に聞いたことがある。
大事なことをクイズ形式で答えさせる女には絶対に深入りするな、と。
真斗は適当な性格ではあるが俺よりも女性経験豊富で桜の危険性も出会ってわずか数時間で気づいた。女子のことに関してだけは、あいつの言うことを信頼できる。
「ヒント2。プール」
「お、おい! ちょ、ちょっと待て!」
俺に考える暇を与えず、次のヒントを出してきた。
真斗が言うにはヒントは3つまで。
それ以上は機嫌を損ねる可能性がある。いや桜の性格からすると機嫌を損ねると憂さ晴らしで奇行に走る可能性が高い。
以前にも桜と母が喧嘩した際、事件を起こした実績がある。
————喧嘩? ……それだ!
あの時も桜は我を通して、警察のお世話になる羽目になった。
「ヒント3。夜。もうわかっちゃった?」
「わかったよ」
桜は
「小三の頃だろ?」
「正解!」
「……あれはキスじゃないだろ」
「でも、唇同士が触れたじゃん?」
そう、あれは俺達が小学三年の夏————
俺がまだ『僕』だった頃。
桜は今よりも幼く、今よりも自由で、今よりも現実以上を望んでいた。そんな小学生だった頃の話だ。
「だ〜か〜ら! 行きたいの!!」
夏休みも中盤。今朝も母と口喧嘩が繰り広げている。毎日のように喧嘩している母と桜を横目に夏休みの宿題を進める。母の正論に桜は瞳に涙を溜めながらも未だに諦めずに反論していた。
「絶対に行くの! 行きたいの!」
「だから……、子供が行く場所じゃないのよ!」
「そんなことテレビでは言ってなかったもん!」
二人の喧嘩の原因は知らない。
僕がいない間も絶えず喧嘩しているため、状況は理解できていない。ただ一つだけ言えることは母が正しく、桜が間違っている。
このまま喧嘩が続くと間違いなく僕に火の粉が降り注りかかってくる。
「壱成。桜と市民プール行ってきなさい」
————ホラ、みろ。想像通りだ。
母は紙に描かれた野口英世をひらひらと泳ぎながら僕の前に差し出した。
「ごめん。昼からウサギと約束してるんだ」
「楓ちゃんと……か」
「うん。図書館で一緒に宿題をするんだ」
「……そうね。可愛い方の妹が優先ね」
ウサギを引き合いに出せば、母が僕への命令を取り下げることはわかっていた。理由はわからないがウサギのことになると母は何かとウサギを優先する。
再び野口英世を僕の前に差し出してこう言った。
「二人でおやつでも買って食べなさい」
「あ、うん。ありが……」
「チェイストー!」
桜は母と僕の間にいる野口英世を拉致誘拐して、叫びながら家を出て行った。去り際には不穏な捨て台詞を残して。
『一人でもナイトプールに行くんだから!』
母は頭を抱えながら首を振っていた。
「お母さん。ナイトプールって、なに?」
「……あ〜、そうね。……騎士団用のプールよ」
「えっ! 日本にそんなのあるだ!?」
「ま、まぁね。騎士以外は立ち入り禁止なの」
———たぶん、嘘……だな。
面倒事にならないよう考えてのことなんだろう。
取り敢えず乗っかっておこうかな。
「そうなんだ。わかった。じゃ、行ってくる」
「ちょっと待った。はい、これ。」
母は拐われた野口英世の代わりにもう一人の野口英世を僕に託した。
家の出て坂道を降るとすぐに黒い日傘が目に入った。ウサギだ。跳ねるように僕の元に近付いて来た。
「チャオ。イチ」
「チャ、チャオ? ……ウサギ」
ウサギは俺が意味も分からず、挨拶を真似していることに気づいている。クスクスと笑いながら隣り並んだ。
二人で図書館に向かいながら、先程までの母と桜のやりとりをウサギに話した。
「ねぇ、ウサギはナイトプールって知ってる?」
「うん。ナイトは『夜』。プールはわかるよね?」
「ということは夜のプールだね」
「たぶん、イチが想像しているプールとは違うよ」
「……?」
やはりウサギは物知りだ。
もう少し詳しく話しを聞きたいが、母は僕からこの話を遠ざけたのだ。探りはこのくらいにしておこう。
さて、今日はウサギとなんの話をしようか。
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